大学生になって、いろんなことが変わった。大学生っていうのは、半分大人で半分子供。そんな中途半端な私が恋をしたのは、大学の先生だった。
「高杉先生」
「あ?」
「ゼミのプレゼンで使う資料、お借りしたいんですけど」
「おー、入れ」
ガチャリと扉を開けて彼の研究室に入れば、鼻につくのは煙草の香り。先生の白衣にもよく染み込んでる、先生をすぐ連想してしまう香り。
「何を調べてんだ?」
「あ、はい。ある商品のマーケティングを考えて実際にプレゼンするんですけど…私は医薬品についてなんです。それで、市場調査のデータ、この間持ってるって仰ってましたよね?あれを貸して頂きたくて…」
「あァ、あれな。ちょっと待っとけ」
高杉先生がカチャリと眼鏡を掛けて、カタカタとキーボードを触る。
「突っ立ってねェで適当に座れ」
「あ、はい!」
そわそわしてしまっていたのがバレていたようだ。先生に促された私は、先生がよく見える位置にちょこんと腰を下ろした。
カタカタと、キーボードを叩く音だけが響く部屋。キョロキョロと部屋の中を見回すと、部屋を覆い尽くすくらいの量の本に圧倒される。経済学、経営史、国際文化、計量学、時間学、心理学、医療分野、科学、機械工学、英語、独語、仏語……ザッと見ただけでも様々なジャンルがある。
高杉先生は本当に優秀な人みたいで、他学部の方からも評価されてるみたい。だからいろんな学部の子が先生を知ってるし、先生に会いに来る。
たったそれだけでヤキモチを妬いてしまう私はやっぱりまだまだ子供だ。
「あー…みょうじ」
「はい!」
本を見るのに夢中になっていた所為か、せっかく先生の研究室に居るのに先生のことをすっかり忘れてた。慌てて返事を返せば、先生は少しだけくつりと笑って、ガリガリと頭をかいた。
「悪ィ、あのデータ、家のパソコンにしかねェみたいだ」
「あ、そうなんですか…」
「急ぎか?」
「う、出来れば…」
あのデータがないと全く準備に取り掛かれない。だから、なるべくなら早く貸して欲しいのが本音だ。先生のアドレスとか知ってれば先にお願いできたのにな…なんて、先生のアドレスが知りたいための口実だったりもするんだけど。
「…なら、今日はこの後暇か?」
「へ?はい」
この後は授業もないし、特に予定もない。こくりと頷くと、先生はとんでもないことを口にした。
「じゃあ、今から来いよ」
「へ?」
「俺ん家。帰りは車で送る」
サラリと告げられた言葉があまりにも自然で、ついうっかり頷いてしまった。私のバカ。
「まァ、適当に座れや」
「は、はぁ…」
本当に来てしまった。つい先程研究室で言われた言葉も、先生のお宅で聞くとなんだか特別な言葉みたいに聞こえてしまう。ああ、心臓が痛い。
「珈琲と紅茶は…どっちがいい?」
「え、いや!お構い無く!」
「じゃァ珈琲な」
全く話を聞いてくれない先生は広々としたリビングと隣接するカウンターキッチンへと移動し、短いエプロンを腰に巻いた。か、かっこよすぎて死ねるんですけど…!!
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます!!」
先生はいい香りのする珈琲を私の目の前のテーブルに置くと、そのまま自然な動作でソファに腰掛けていた私の隣に座った。ち、近い近い近い…!
「みょうじ、」
「は、はひっ!」
「くく、そう緊張すんじゃねェよ。寛げ」
「いやいや無理です!先生の隣で寛げるわけがありません緊張しまくりです!!」
つい本音が出てしまい更にガチガチに緊張する私を横目に、先生はとても楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑った。く、悔しいけどそれすらかっこいい…!
「な、何でそんなに先生は余裕なんですかぁ〜…」
隣に先生が居る。それだけで私は息をするのも苦しいし、顔は熱くて仕方ないし、心臓は張り裂けそうなほど煩いのに。
先生は全くいつもと変わらずーーいや、それどころかいつもより余計に私をからかったり笑ったりしてる。ずるい!
そんな気持ちを込めつつ、へにゃへにゃと情けなくも涙目になりながら先生に聞いてみた。
「くくっ…余裕、ねェ…」
そうぽつりと呟いた先生は、突然勢いよく私の手を引いた。当然、引っ張られた私は勢いよく先生の胸にダイブする。
「せ、せんせ…」
「ほら、聞こえるか?」
「え?」
突然のことにパニックになる私を余所に、先生は更に私を強く胸に抱き締めてきた。体が燃えそうに熱い。先生に触れられてる髪や頭や背中が私のものじゃないみたい。
苦しくて仕方がなくて、たまらずにぎゅっと目を瞑ると耳元で優しい低音が鼓膜を震わせた。
「聞こえねェか?俺の心音」
「へ?」
その優しい声に諭されたように、先生の胸にくっついている耳に意識を集中させる。少しすると、私の煩い心音に負けないぐらいの音が聴こえてきた。
先生の鼓動も、私とおんなじくらい早い。
「早い…」
「うっせェ。…わかったか?」
思わず本音を呟くと、先生は照れたように私の頭をわしゃわしゃして、それからまたゆっくりと撫で始めた。
「俺だって、好きなやつの前じゃそんなに余裕ねェよ」
秘め事のように耳元で囁かれたそれは、私を落とすのに充分な殺し文句でした。
オトナのボーダーライン
「先生みたいな大人の男の人でも、可愛いところあるんですね」
嬉しいやら恥ずかしいやらでついそんな言葉を返すと、いつの間にか目の前にあった先生の顔がニヤリと歪んだ。
「ほォ…。なら俺が、お前を大人の女にしてやろーじゃねェか」
「えっ!?ちが、そういう意味じゃ…んっ!」
あっという間に私の唇を奪った先生の瞳は愉しげに輝いていて、まるで悪戯好きな少年のようだと思ってしまった。
20130109