「…買いすぎた」


お買い得だったからってこんなに買うんじゃなかった。がさりがさりと重たい袋を提げて、思わずまた溜め息。今日は何回溜め息を吐くんだろうなあなんて考えながらてくてく歩いていると、ぞわりと背中に嫌なものが伝った。


「…っ!」


足音が、する。今朝の感じとそっくりだ。見られてる感じもひしひしと伝わってくる。

どうしよう。怖い。

純粋な恐怖に足がすくみそうになる。それでも絶対に立ち止まるまいと進んでいく。家に着くまで、あともう少し頑張れば…!


「…怖い、の?」

「ッ…!」


背中から聞こえてきた声にばっと振り向いてみたけど、誰の姿も見えない。ぶわっと嫌な汗が吹き出る。なんなの、これ。怖い怖い怖い、私が一体何をしたっていうの?

自然と早足になるけれど、足音もそれに合わせてタッタッタと小走りになった。背中から聞こえるリズムに恐怖しか感じない。
そうして段々追われるままに足を早めていき、耐えられなくなった私は走り出した。


「ふふ、追いかけっこ?」


またしても小さく聞こえた声にぞくりとしつつ、重い袋を抱えて必死に走る。聞いたことない声だ。知らない、私は相手を知らない。けど、相手は私を知ってる。それが堪らなく怖かった。


「逃げたって無駄だよなまえ。ほら、もうすぐ追い付くよ」

「っ…嫌!」


声が段々近付いてくる。夕飯の袋を後ろに投げ付けてみたけどガサッという音がしただけだった。避けられたみたいだ。どうしよう、どうしたらいいの?
パニックになりながら、頭の中では私をずっと心配してくれていた猿飛くんを思い出していた。やっぱりあの時、家に居て貰えばよかった。


「ほら、捕まえた」


声と同時に、ぐいと左腕を引かれた。きつく握ってくる掌は汗でベタついていて気持ち悪い。もう、恐怖で声も出なかった。思わず目を瞑ると、突然掴まれていた手が乱暴に離された。


「…何してんの?アンタ」

「あ…」


聞きなれた声に目を開けると、私の目の前には猿飛くんの大きな背中があった。


「大丈夫?なまえちゃん」


猿飛くんは顔だけくるりと此方に向けて、にっこりと笑う。私を安心させるような声色と笑顔に、思わずポロリと涙が零れた。


「だ、いじょ、ぶ」

「…俺様にはそうは見えないんだけどねぇ。ま、いいや。ちょっと待っててくれる?」


私の涙を見た途端、猿飛くんの表情が変わった。私に対してはちょっと悲しげに眉をしかめた後、酷く冷たい目で前に向き直る。


「…田端権蔵31歳、仙葉証券の次期課長さん。アンタみたいな人が、こんなことしてていいの?」

「な…!」

「学生だからって舐めてた?俺様に集めらんない情報なんてないんだよ」

「な、なんで…」

「あ、ちなみに証拠なら沢山あるよ。なんならこのまま警察に持っていってもいいけど」

「ま、待ってくれ!」


酷く冷たい猿飛くんの声に、相手の慌てたような声が重なる。猿飛くんがわざと隠してるようで相手の顔は見えないけど、懇願するような声だけは聞こえてきた。


「た、頼む…!どうか、どうか警察沙汰には、」

「なら、どうすればいいかわかるよな?」


猿飛くんが私の目を掌で覆って隠したのと同時に、バキッという痛そうな音が聞こえてきた。


「ぐっ…」

「今すぐ失せろ。二度となまえちゃんを見るな」

「…猿飛、くん」


私の目を覆っている猿飛くんの腕をくい、と引いてみたけど、猿飛くんは離してくれなかった。


「…すみません、でした」


男の人は小さな声で謝罪を口にすると、あっという間にバタバタと走り去って行った。


「…大丈夫?」


暫くして、漸く手を離してくれた猿飛くんは、なんだかちょっと怖い笑顔で私の頭をぽんと撫でた。


「もう大丈夫だよ。落ち着いた。ありがとう」

「…ん。ならよかった。でも、」


一瞬だけ猿飛くんがいい笑顔をしたと思ったら、バチンッ!と強めにおでこを弾かれた。


「いたっ!な、なんでデコピン…?」

「え?まさかなまえちゃん、俺様が怒ってる理由がわからないとか言わないよね?」

「う…」


にこにこしながら此方を見てくる猿飛くんにはなんだが威圧感があって、逆らえない感じがする。
おでこを擦りながら小さく「心配かけてごめん、」と呟けば呆れたように大きな溜め息を吐かれた。


「心配したのもそうだけど、なんで危ないのに1人で外に出たの?」

「あ…」

「俺様が居なかったら、どうなってたと思う?」


スッと細められた瞳にぞくりとする。さっき握られた腕に感触が戻ってきたような気がして、思わずぶるりと震えた。
途端に、暖かいなにかに包まれる。


「…わかってくれたなら、いいよ。思い出させて怖がらせちゃってごめんね」


じんわりと猿飛くんの体温が、声が、包まれてる身体越しに伝わってきて震えは止まった。ゆっくりと腕の中から出ると、猿飛くんが然り気無く私の左手を握る。


「…ありがとう」

「いーえ」

「あ。あっちに、夕飯の材料置いてきちゃった」

「え?」

「追いかけられた時、投げ付けたの」


猿飛くんに手を握られたまま、夕飯の材料を取りに道を戻る。勢いよく投げ付けた所為で卵は割れてしまっていた。


「あーあ」

「今から買いに行く?」

「え?」


隣に立って袋を覗き込んでいた猿飛くんが、悪戯っぽく笑った。


「今日のお礼に、なまえちゃんの手料理が食べたいなぁなんて」

「…仕方ないなぁ」


本当に、仕方ない。今日ばっかりはすごくお世話になったし。


「じゃ、行こ!」

「あ、」


猿飛くんは私の手にあったぐちゃぐちゃな卵入りの袋を素早く奪い取ると、笑顔で繋いだ手を引いて歩き出した。








「なまえちゃんの手料理、楽しみだなぁ」

「…そんな大したものは作れないよ?」

「んーん、大丈夫!なまえちゃんの手作りってとこが大事なんだから」

「もう…」


夕飯の買い物も無事終えて帰路に着く。なんだかんだ他愛ない話をしながら、とうとうあの道に差し掛かった。さっき追いかけられた時と同じ景色に、少しだけ不安が募る。


「なまえちゃん、」


突然、猿飛くんが私と繋いでいた手を握り直した。スッと自然にからめられた指がこそばゆい。
名前を呼ばれてそちらに顔を向ければ、ふわりとした笑顔を向けられた。


「俺様のことだけ考えてて」


キラリと夕日に照らされた横顔は、びっくりするくらいかっこよかった。思わず、赤い顔を隠すために俯く。
…なんでだろ。相手はいつも変態な猿飛くんなのに。

しっかりと繋がれてる手はすごく安心できて、すがりたくなる。緩みかけた涙腺を叱咤するように一度だけぎゅうっと目を瞑れば、隣を歩いていた猿飛くんが立ち止まって、空いた右手でそっと私の顔を持ち上げた。


「…赤くなってるよ?」


にやりとした笑顔と、するすると頬を撫でる手に知らずと胸が煩くなる。
ほ、本当にどうしちゃったの私…!


「う、煩い!夕日の所為だよ!」

「へぇ〜」


にやにやする顔が腹立たしいことこの上ない。悔しかったから繋いでいた手に力を込めて腕に抱き付いてやった。
途端に、猿飛くんの顔もかあっと赤くなる。


「え、あ、あの、なまえちゃん?」

「猿飛くんも真っ赤じゃん」


はは、と笑いながら更にくっつけば、わたわたと慌てていた猿飛くんがぴたりと動きを止める。


「…なまえちゃん」

「…な、なに?」


なんだか異様な雰囲気に私もぴたりと動きを止めて猿飛くんを見上げれば、彼は顔を赤く染めたままとんでもない言葉を吐き出した。


「なまえちゃんがあんまり胸を押し付けるから、俺様の息子が元気になっ…げふうっ!」

「今すぐ離れろ変態ぃぃぃぃ!!」






この手、離さないと本気で通報するから!






「サイッテー!信じらんない!」

「し、仕方ないじゃん…!待ってよなまえちゃぁん」


鳩尾を押さえてよろめく変態を置き去りに、私は赤い顔を見せないよう全力で走って帰った。



変態に、ときめいてしまいました。