「とりあえず、ご飯!」
話も一段落した頃、主の一声で食事を摂ることになった。一度中途半端な時間に食べてしまっていたが主が己の分も用意してくれたため、有り難く頂くことにした。
「あ、そういえば私が散らかしちゃったお弁当、片付けてくれたの?」
もぐもぐと忙しなく口を動かしながら主が訊ねてくる。お弁当、とは恐らくあの床に散らばっていたものだろう。見当を付けてこくりと頷くと、ごっくんと食べ物を咀嚼した主がふにゃりと笑った。
「そっか、ありがとう。クロは気が利くね」
何故だろう。何故、主はこんなにも嬉しそうに笑うのだろうか。 理由が見当たらずつい首を傾げると、再び主がくすりと笑みを溢す。 変わった人間だ。主の反応は今まで己が見てきたどの人間とも違う気がする。主の反応はとても興味深い。 どんな反応をするのか気になって、食べ終わってから紙に文字を落としていく。
“片付けは己の仕事”
「へぇ、忍者ってそんな仕事までするんだ?」
“忍だからこそ”
「え?掃除とか片付けが仕事の忍者なんて居るの?」
“間者などを片付ける”
「な、なんというブラックジョーク…!!」
少し顔を青くして「主語が違うよ!主語が!」などと叫ぶ主を見て、予想通りのいい反応にくつりと喉の奥が鳴る。 主の言う言葉の意味はなんとなくわかったし、何より主の顔に全て書いてある。どうやら嘘の吐けない性格らしい。 むうっと少しだけむくれた主は此方をジトリと睨み付けてくる。
「うー…クロって意外とSだよね…」
「?」
えす、とは何かがわからなかったため首を傾げると、何故かそれを見た主はいきなりニヤニヤと頬を緩ませだした。 …一体何処に、主がこんな締まりのない顔をする要素があったのか。
“主、何故そんなだらしない顔をする”
「だらしないって!なんかだんだんさりげなくだけど酷くなってきてないか!?」
“すまない”
「え?文字は謝ってんのになんか態度が違くね?」
気になったことを訊ねれば叫ばれてしまったので、一応謝罪する。しかし何故か叫ぶときも頬がニヤニヤしていたので、思わず紙を見せながらも主の顔をぐにぐにと摘まんでしまった。 頬の筋肉が弛緩しているのかとも思ったが、そうではないらしい。
「ふぐぐぐ」
頬から己の手を外そうとしているのか、変な呻き声を発しながら主の手が己の手に重なる。余りにも弱々しい力に、外そうとしているのではなく添えられているだけのように感じられてしまう。小さな掌なのに、そこから与えられる熱は己の全てを暖かくしてくれた。
“主は不思議な生き物だな”
「や、そこはせめて不思議だなくらいにしといて!なんか未知の生物みたいじゃん!」
本心からそう言いながらそっと手を外すと、主は頬を擦りながらぷうっと膨らませた。つい抑えられていない方の頬をぷすりと指で押すと、ふすっと空気が抜けて主がポカンとした顔をする。くっ、と息だけで笑うと主がそれを察したのか顔を赤く染めて怒りだしてしまった。
「こんのっ…!」
“主、怒ると先程の毒が回る”
「えっ!?」
此方に向けて出かかっていた手を引かせるために毒が回ると嘘を吐けば、途端に主は怯えて大人しくなった。なんとも単純だ。 ビクビクしている主に紙を向ける。
“嘘だ”
「こらああ!クロ!」
“申し訳御座いませぬ”
「う…ぐぐ…まぁ、よかろう」
わざとらしい程に丁寧に謝罪をしてみれば、己につられてか、いつもと違う変わった口調で主が許しを出してくれた。 本当にからかいがいがある。
「クロって、もっと無愛想な感じかと思ってた」
つい頬を弛ませていると主にそう声をかけられた。よく意味がわからず首傾げると、主が顎に手を当てて答える。
「んーなんか…さっきみたいにじゃれたり、冗談言ったり…そういうイメージなかったからさ。なんか、笑ってくれて嬉しかったよ」
「……!」
主がにこりと己に笑いかけてきたが、反対に緩んでいた己の顔は引き締まった。 一体どうしたのだ。己は“忍”だ。何を思い上がっていたのだろう。 “忍は道具”。つまり、己は道具だ。道具に感情など必要ない。
「…クロ?」
固まった己に対し、心配そうな顔で声をかけてくる主。 何故か“嬉しい”という感情が浮かびそうになって、すぐにそれを殺して無機質な言葉を紡いだ。
“先程までの数々の非礼、お詫び致します。今後己のことは道具として扱いください”
「……は?」
ぽかん、と、わけがわからないとでも言いたげに主が首を傾げるという動作をした。これは命令ではないので、反応する必要はない。
「嫌だよ、そんなの」
黙って命令に備えていれば、突然目の前の主から震える声が発せられた。具合でも悪いのかと覗き込もうとすれば、バッと顔を上げて主が話し出す。
「なんで私がクロを道具として扱わなきゃなんないの?さっきの私の話聞いてた?嬉しかったって言ったじゃん。それを急になんで辞めようとするわけ?」
こんな主は初めて見た。どう対応するのが正しいのかわからない。 先程まで考えていた冷静な己は消え、つい主の顔を伺ってしまう。 主はとても怒っている。もう己が嫌になり、邪魔になったのか。
「クロの居たとこがどうだったかなんて知らない。だって、今クロは“私”と“此処”に居るんだからね」
ぐるぐると変な思考が渦巻くなか、主の声だけが凛と響く。己がどうすればいいのか、どうするべきなのか分からない。 ふっと主が近付いてきて、項垂れていた己の頭に優しく手を乗せた。そのままゆるゆると撫でられて、主の声が降ってくる。
「だから、クロも私の言うこと聞いてさっきまでみたいな生意気なクロで居なさい」
嗚呼、なんと暖かい。 咄嗟に頭に置いてあった腕をぐいと引き、己の腕の中にすっぽりと収めた。
こんなに小さな体なのに、主の心はなんと大きく深いのだろう。 主は忍としての己ではなく、クロとしての己でいいと言ってくれた。 役にも立たぬ、道具にすらなれぬ獣の己でも、いいと言ってくれた。
「わ…びっくりした。クロ」
名前を呼ばれると、きゅうと心の臓辺りに痛みを感じる。しかしそれは決して嫌な感じはしない。むしろ、どこか心地好さすら感じる。
すがるようにぎゅうと抱き着いて、肩口に顔を埋める。 この安心感はなんだ。 己がすがるのに応えるように、主の手がそっと己の背中に回った。
「此処ではね、私がクロの飼い主だから。私には思いっきり甘えなさい」
飼い主。なんといい響きだろう。 己は飼われている間は、何をも憚ることなく、何をも臆することなく、只主の傍に在ればいいのだ。
「私はそんなクロが可愛いんだから」
ぽんぽんと背中に回っていた手が己の背を叩く。なんだかむず痒くて更に主の首筋に頭を擦り寄せた。 己の主だ。誰にも渡さぬ。
そう想いを込めて、首筋から主の香りを己に移す。忍に匂いは禁物なれど、今の己にそれは関係ないのだ。
漸く見つけた、己の居場所。
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