月のない夜。 小雨も振り視界はくすんでいて、今日は隠密を行いやすい日だと思っていた。だからといって油断したわけではない。しかし、少しだけ気が緩んでいたのも事実だ。でなければ、こんなに手傷を負うこともなかった。
「逃がさぬように囲め!」
忍らしからぬ大声と、ガサガサと木の葉を揺らす大きな音。大したことはない忍衆であることは一目瞭然だ。しかし、如何せん数が多かった。人海戦術ばかりを多用してくる。急所に当たるような致命的な傷はないものの、脇腹の出血が止まらないのはまずい。
「…………」
息を殺して屈むと、目の前の茂みに爛々と光る金色の瞳を見つけた。どうやら野生の動物らしい。 黒猫のようなそれに近付くと、人一人入れそうな窪みがあった。そこへ身体を横たえて、止血を試みる。 少しずつ強くなる雨音の中耳を済ませば、追手の声は遠ざかっていった。どうやら撒いたようだ。報告書は早めに鳥を飛ばしておいたので今頃もう城に着いている頃だろう。 止血剤を取り出そうとするが、雨に濡れ血を失った冷えた指先が震えて、うまく掴めない。視界もチカチカと瞬き始めた。
ここまでか。冷静な頭が限界を告げ、それを受け入れるように身体の力を抜いた。生に対する執着はない。
「…にゃあ」
擦り寄ってきた黒猫が鳴いた。気紛れに手を伸ばして、頭を撫でてやる。そうしてそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
「ん?」
突然降ってきた声に意識が浮上した。雨はまだ降っている。己は生きているのか死んだのかもわからない。
「…ネコ?」
じゃり、と何かが近付いてくる。身体はぴくりとも動かせない。意識もまだぼんやりとしていた。
「うわ、なにこれ…血?怪我してんの?」
遠くに聞こえていた雨音が更に遠退き、身体を打つ冷たい雨が止んだ。ぴくりと身体が自分の意志とは無関係に動いた。
「仕方ないなぁ。ほっとくわけにもいかないか」
突然柔らかな何かに包まれる。暖かい。雨に打たれて冷えきった身体に少しずつ体温が戻る。 柔らかな振動と共に、ふわりと身体が持ち上がるような感覚。抱き上げられたようだ。
「もうちょっと踏ん張りなよ」
上から降ってきた声があまりに柔らかで暖かかったため、不覚にもくたりと身体を預けて意識を手放した。
暖かい。 まだ覚醒しない頭で感じたのは温もりだった。ゆらゆらと揺れるような感覚が心地よいような気がする。
「ふー。やっと我が家だ」
先程遠くに聞こえた声が近くで聞こえた。柔らかな場所にゆっくりと横たえられる。上から小さな重みが加わった。何かをかけられたようだ。
「よし、とりあえずなんか温かいもん飲むか」
どうやら声の主は女のようだ。高くもなく低くもなくなんの特徴もない声。それなのに、何故か耳に心地よい。 一旦足音が遠退いて、しばらくしてまた戻ってきた。
「ま、約束した以上、ちゃんと養ってあげるよ」
女の言葉を聞いてやっと意識がはっきりとしてきた。 養う、というのはどういう意味か。どういう理由で己を此処に連れてきたのか。考え始めると次々に疑問が湧いてくる。まずは、状況を把握しなければ。
「ん?」
隣、というか、近くに先程の女が居るのは気配でわかっていた。見られている。小さく漏らした声と重なるように視線を感じる。しかし、倒れている己に攻撃してこないということは今殺す気はないということだ。 とりあえず、身体が動くかどうかが一番肝心だ。でなければ逃げることも戦うこともできない。力を込めて身体を動かそうとするが、ぴくりぴくりと痙攣のような動きにしかならない。
「え、ちょ、大丈夫かコレ」
戸惑っているような女の声に思わず目を開くと、予想以上に巨大な女の姿が目の前にあった。辺りの物も見慣れないものばかりで、まるで異国…いや、架空のお伽噺の世界のようだ。
ここはどこだ。己はどうなった。
なにもわからない。わからないということは、即ち死ぬ確率がかなり高いということだ。 思考がうまく纏まらぬまま視線をさ迷わせていると、女の瞳とカチリとぶつかった。
「あーもう!大丈夫だから」
なにが大丈夫なのか全く理解できない。女はただ大丈夫と言いながら手を伸ばして身体に触れてきた。あまりにも大きなそれに一瞬本能で警戒するも、どうせ死んだも同然の身だ。それにいまは大事な忍務の最中というわけでもない。己の替わりなど里にいくらでもいる。 そう思い、何度目からか力を抜いて身を任せることにした。この女には相変わらず殺意は見当たらないし、なんとも言えぬ生温い空気しか纏っていないように見える。
「もしかして、寒い?」
未だ身体が上手く動かない己に向かって見当違いな言葉をかけてくる。何も答えずにいれば無言でひょいと持ち上げられ、巨大な女の胸に抱かれた。そうしてやっと、己の姿の変化に気付いた。
「…あ、震え止まった」
無理矢理身体を動かそうとするのを辞めると、女がそう言いながら此方を覗き込んできた。くりんとした瞳を見詰めて、その瞳の中に映る己の姿を見た。 間違いなく、この姿は―――
「…あんた、綺麗な目してるねぇ」
最後に見た黒猫だ、と理解した途端、理解できない言葉を投げ掛けられ思わず首が傾いた。己を見ている女が、へらりと頬を緩める。
「んー安易だけど…名前、クロでいい?」
名前を与えられた。ということは、女は己を飼うつもりのようだ。今のところどうしようもないこの状態の己が生きていくためには、他に道はない。
「ま、沈黙は肯定ってことで。よろしく、クロ」
此方が返答出来ないのをわかっていてか、勝手に話を進め出した女は己を顔の目の前に持ち上げた。己の身体を支えるあまりにも頼りない細腕に少し身体が強ばる。 この高さなら落ちても死ぬことはないが、せっかく手当が施されている傷が開くと困る。 そういう訳で大人しくしていると、女がいきなりニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
「絶対懐かせてやる。てか鳴かす」
何故か、気付いたら女の腕から飛び降りて女と距離を取っていた。本能的な動きは人間の時よりも抑えが効かないようだ。
本能を信じて、女とは一定の距離を保つことにする。
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