01

 こんな気持ちはいつからだろう。

「師匠、お早うございます」
「お早う。お前も早起きだね」

「いえ、これも私の稽古ですので」
「ふうん。」


静まり返った稽古所で朝稽古を行うのが私の日課だ。能楽師は体力と神経を使う。そのために毎日鍛練を重ね、自分を律する必要があると考えている。


「私は汗を流してくるよ」
「はい」

 弟子を残して、ひとり立ち去る。風呂場へ着くと、直ぐさま汗を流して、着物を着る。私が毎日必ず水色の着物に袖を通すのは、亡くなった母の好きな色だからだ。大空の様に輝く母が好んだ色。


 もうあの人たちの微笑む顔がぼやけてきている。月日とは恐ろしい。世の流れは無常だ。吐き気がする。



 長い廊下を歩いていると、角から黒い影が見えた。ああ、最も嫌いな時間がやってきた。


「おや、お早う佐喜子。今日も美しいな」

「…お早うございます」


 一度目を細めて笑顔を作り、そして深々と頭を下げる。それを黒い影が立ち去るまで下げ続ける。足の影が消えたとき、私はゆっくりと頭を上げた。あの老いぼれのくそじじいめ。



 あの男は私のことを「佐喜子」と呼ぶ。もちろん、私の名は佐喜子ではない。佐喜子は母の名だ。私の空の名前をそう簡単に呼ぶな、ゲスが。

 ボケているのか、汚い冗談なのかこの家にいるときは私はあの名前で呼ばれ、私はそれを背いてはならない。


「師匠、」
「…なんだ?」

「いえ。顔色が優れない様なので」
「ハッ。」


 もう母が死んで20年になる。不慮の事故だ。その時、母だけでなく父も失った。この家の中で私はあの日からずっと佐喜子になった。私が「迎えに来て」なんて言わなければ良かったんだ。

 思い出したくもない。1m先も見えないほどの土砂降りの夜に、私が言った小さな我が儘。優しかった両親は二つ返事でこちらに向かった。私の最初で最後の我が儘だ。大きなトラックでひしゃげた車には真っ赤に染まった水色の新しい着物。私はもう二度と言わないと心に誓った。もう何も失いたくはない。


「師匠、少し休みましょうか」
「…部屋に戻る」
「畏まりました」


 戸を閉めれば静寂だけがそこに残った。外が明るい為、電気は点けなかった。独特な薄暗さが心地好かった。


「お着物を、」

 男のその声と同時に帯を外し、しゅるりと絹擦れの音がした。脱いだ着物を拾うのも弟子の仕事だからだ。すると、私は落とす様に半裸姿になってしまった。紫外線への耐久性が低い為、肌が白過ぎて嫌になる。



「師匠」

 この低い声を聞く度、いつも思う。抱きしめられた箇所が熱くて堪らない。昔は何も知らない子供だったくせに無駄に逞しくなった腕は私の体に巻き付いて、動きを封じる。

 なぜだろうか、幾分も年下の男は私を捕まえたままだ。泣きたくなる。こんな人間どこがいいのだろうか。この世界では若くとも、世間一般ではもう若くもない歳だ。


「…興奮したのか?」

 我ながら、皮肉だ。私はコイツに収まる訳にはいかない。なぜなら、私は春日流の家元だ。若造に縋るなんて以っての外だ。

「貴方は美しいですから」
「ハッ。女も知らん身体だったくせに」

 まだ十代で無垢なあの頃が懐かしい。なんでも出来ると思っていた高い鼻を何度も折ってやった。


「それはそうですが、師匠が教えてくれたのでしょう?」



 もう全てが嫌だ。消えてしまえとすら思う。私はマザコンだったのかなんて、気付いたのは居なくなってからだ。

 強くならなければ。この家は私が守らねばならない。この男だってもう5年もここにいるんだ。いつ出て行ってもおかしくない。




「泣かないで」

 もう何も願ったりはしない。だからせめて、せめてこの温もりが離れる日よ、遠くなれ。

END


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