僕は疲れていた。命を扱うこの仕事がハイリスクなことも、そしてリターンは良いものばかりとは限らない現実にも疲れを覚えていた。
そもそも僕は医者として彼等にプラスになるリターンをしているのだろうか。
僕は溜め息を静かに吐くと、貯まったカルテを持って廊下を歩きだした。季節は秋。窓の外を見れば、紅葉した草木が紅く色付いていた。
それから何気なく目線を前に向けると、小さな後ろ姿を見つけて僕は焦点を合わせた。長い髪に結ばれたピンクのリボン。大人ばかりの病院に見慣れない小さな体。髪留めとお揃いのリボンが付いた白いワンピース。あれは、
「あさみちゃん?」
「え?あー陸くん!」
「うわわっ!」
少女はくるりと振り返ると僕の名前を呼んで走り、そして飛び込むように抱き締めた。その行動が急速すぎて、僕は思わず情けない声を上げていた。
きゅっと腰に回された小さな手。病院に不釣り合いな健康的な笑顔。
満面の笑みを浮かべる彼女の名前は高橋あさみ。僕の大好きな聡さんの娘さんだ。
「あさみちゃん、学校はお休み?」
「ううん。今、私テスト期間だから学校は早く終わるの」
あ、そっか。中間考査かな?テスト期間なんて、なんだか響きが懐かしい。
「そうなんだ。今日はどうして病院に?お父さんに用事なの?」
「ううん。違う」
僕の問い掛けに、すぐさまその小さな頭を横に振った。そして少女は満面の笑みを見せた。
「陸くんに会いに来たの」
「僕?」
「そうよ!」
彼女の微笑みと聡さんの微笑みが重なった。
あさみちゃんは好きだけど、やっぱり聡さんの娘なんだよな。普段はその愛くるしい瞳の様子から母親似だと思っていたのに。その複雑さに無意識の中に苦笑していた。
僕の不自然な行動に気が付いたのか少女の表情が曇る。
「陸くん?…もしかして迷惑だった?」
僕はハッとして首を振って否定した。
「ううん、嬉しいよ!」
僕はにっこり笑って見せた。すると、僕を伺っていた二つの小さな目は三日月に曲がった。
「えへへ、陸くんはそう言うと思ったわ」
また笑顔を浮かべる。その笑顔が可愛くて小さな頭を撫でた。柔らかい髪。やっぱり可愛いな。でも、子犬の様にそれを受けるあさみちゃんに聡さんを重ねてしまう。彼の髪をこうやって撫でることは許されないから。
それを消し去る様に声を出した。
「ところで僕に何の用なの?」
「えっとね、陸くん…」
「ん?」
「あさみ、陸くん大好きだから」
「え?」
急になんだろう。
「だから陸くんが家族になっても嫌じゃないわ」
「え、と」
僕は目を丸くした。単純に彼女の言葉に驚いてしまった。
「あさみちゃ、?」
「前からこれは言いたかったの」
本当はその言葉の意味なんてないのかもしれない。でも、彼女には何故か悟られてる気がした。子供でもやはり女性。
恋愛事を察する能力は高いのだろうか。
何を喋ろうかと探して時計に目をやった。12時48分。今日は午後がオフだから久しぶりにゆっくり出来る。この時間だと、今からお昼ぐらい一緒に食べてもいいかもしれないな。
ここ最近まともに食事もとれなかったから彼女に癒してもらうとしよう。
「あさみちゃんお昼は?」
「私はもう食べて来たわ。陸くんは?」
「僕はまだだよ。あ、そうだ。食堂で何かデザートでも買おうか。食べる?」
「食べる!」
そう言って少女は僕の言葉で嬉しそうに頬を赤らめた。