あの後、松田さんから受け取った傘を差してみたけど、結局、全身ずぶ濡れになってしまった。見慣れた白い外壁。細い手首を掴んでいた手を離して、扉を開けた。ガチャリ。玄関にはきっちりと揃えられた革靴が目に入る。あ、兄貴帰ってるのか。そう思うと安堵の溜め息が無意識に漏れていた。
足先まで水分を含み過ぎて体が重い。リビングの扉が開く。
「おー、おかえり。って椿、お前びしょ濡、」
「……?」
兄貴は俺に気づいて扉を開け、声をかけた。しかし、その途中でフリーズしていた。え?なんでそんなとこに突っ立ってんだ?不思議に思っていると、兄貴と目が合い俺ではない方向へ視線を配っていることに気付いた。ああ、そうか、コイツか。
「これ、俺の友達。風呂貸すけどいいよな?沸かしてあるだろ?」
「え?あ、ああ。」
動けなくなった兄貴は目を開いたまま頷く。玄関にずぶ濡れの人間が二人も居たら、そりゃ驚くよな。
俺は靴を脱ぐと、玄関を入ってすぐ横にある脱衣所の扉を開け、真っ白なタオルをふたつ掴んだ。音が何もしないので振り向くと、夢子は玄関で突っ立っていた。黒髪から水が滴っている。服がピタリとくっついてるからこそわかる、細い体。
「早く入ってこい、風邪引くだろ」
俺はそう言いながら、掴んだタオルの一つを沢田の目の前に出した。
「…」
沢田はこっちをじっと見つめた後、コクリと頷くとタオルを受け取り、靴を脱いだ。黒いパンプスが鈍く光っていた。そして困った様にこちらを見たので、溜め息を吐きながら脱衣所へ押し込み、その扉を閉めた。
「おい、下着は乾燥機いれとけよ。俺のはお前に貸せねーんだから」
「ふふ。…わかった」
「(やっとしゃべった?)」
俺は、はっとした。ああ、良かった。お互い無言のまま、ここまで連れて来るのですら疲れたから、このまま口を紡んだままならどうしようかと思った。俺はそっと溜め息を吐く。
「ちょっと椿、」
一息着いたかと思えば、名前を呼ばれ、それと同時にぐぐいと腕を引っ張られた。い、痛い。なんだ?
何かを聞く前に、兄貴によって俺はリビングに連れて来られていた。だから、痛いって。
「…オイ、椿」
兄貴は俺と同じ母親似の垂れ目だったが、俺よりも背が高く社交的でまめな性格のせいで人から間違われることは無かった。そんな兄貴の顔が近い。ていうか、一々名前を呼ぶな。沢田に渡さなかったもう一つのタオルを頭から被った。
兄貴を無視してくしゃくしゃと髪の水分をタオルへ移す。
「誰だよ、あの子」
「え?…だから、俺の友達だって。今、言ったとこだろ」
もう。何回も同じこと言わせるなよ。そういう意味を込めて、「だから」と言った。すると俺と良く似た目を兄貴は鋭く歪めて、じりりと近寄ってきた。な、なんだよ。
「……お前の彼女か?」
ぽつりと呟いた低い声は兄貴らしくなくて、なぜか固まってしまった。
は?
ああ、そうか。そう言うことか。まあ普通そう思うよな。
思えば、俺が女を家に連れてくるなんてシチュエーションは、生まれて初めてだしな。
「そんなんじゃない」
思った以上に重たい口調になってしまった。残念ながら沢田は友人だ。大切な大切な友達以外の何物でもなかった。それに、異性のアイツに恋愛感情なんて起きない。だって俺はゲイだし。
兄貴には多分、一生言えないけど。
「アイツは、…夢子とは、そんなんじゃねーから」
だからなのか、俺は無意識にその言葉を繰り返していた。まるで、自分の中の何かを消すかの様に。謝罪の言葉の様に。
「そっか。違うのか」
「…兄貴?」
すると兄貴はほっとしたように見えた(なぜ?)。
「いっ!」
突然、兄貴は俺の濡れた背中を叩いて、大きく笑いだした。は?いみわかんねえし。雨で濡れてるせいで服が張り付いて痛えし!
「痛えな…」
「あはは、んだよ、違うのかよー!にーちゃんへの当てつけかと思ってびびったじゃねーか」
「…はあ?当てつけって、何のだよ」
いみわかんね。今度は俺が目を細くする番だ。俺より短い髪が横に揺れる。
「あ?いっいや、こんなイケメンなのに何故か彼女がいない可哀相なお兄ちゃんへのだよ!」
「…アホか」
いつもバカなことばっか言いやがって。でも、やっぱり兄弟って落ち着くな。俺は無意識に笑っていた。
「コラ。てめ、お兄様をアホ呼ばわりするなっての」
「…。」
無視して髪を乾かす。あーあ。濡れた廊下は後で拭いておかないと。めんどくさい。
「おーい、つばきくーん無視しないでくださーい。」
「ん?何か言ったか?」
「お前、いい加減に…あ、やべ。俺、これから出掛けるから」
「え?」
兄貴の言葉は突然で、思わずカーテンが少し開いたベランダを凝視した。相変わらず大粒の雨が窓を刺すようにぶつかってきている。この外へわざわざ出掛けて行くなんて、こいつは頭がオカシイんじゃないだろうか。
「この雨の中?」
それに、もう夜もずいぶん深い。
「…それ言うな。行きたくねえ用事なんだから」
「ふーん」
とか言いながら、しっかり準備してないか?フォーマルに近い服装を意識しているのか、紺色で薄手のセーターが兄貴の細さを引き立てていた。あ、会うのは上司か何かなんだろうか。出張も近いし、引き継ぎがどうこう言ってた気がする。それでも、今からはありがなしかで言えば、なしだろ。サラリーマンは大変なんだな。
兄貴は背中を向けて俺と会話する。
「晩飯は出来てるから、その夢子ちゃんと仲良く食べろよ」
「ん、わかった」
本当に良く出来た兄貴で弟の俺は幸せだ。風呂だって兄貴の靴を見て確信があったから、入れるか聞いた訳だしな。
俺は口には出さず小さく礼を言うと、兄貴がくるりと振り返った。
「椿、」
「?」
「なんかあるから連れてきたんだろうけどさ、あんま無茶すんなよ」
「え?」
「お前はもう高校生だし、親たちは何も言わないから気付かないかもしれないけど、お前はまだガキなんだから、適当に息抜いて、甘えればいいんだからな。」
「…」
「全部背負い込まなくていいからな」
「…わかった」
「おい、こういうときはありがとうだろー?」
「……ありがと、」
そういって顔を上げる。とてつもなく優しい目だった。俺もこんな目をする日は来るだろうか。
「素直でよろしい。」
頭をくしゃくしゃと掻き乱された。タオル越しにマッサージされてる様で気持ちいい。俺は言葉を繋げる。
「あと…」
「ん?」
「…ただいま」
日課を忘れていたことを思い出し、口にした。自分でも思う程、おずおずとした声だった。
「おかえり」
兄貴はそう爽やかに笑うと、慣れた様にジャケットを羽織った。そして家のカギを持ち、玄関に向かっていった。聞き覚えのある少しの物音と金属音が響いて、扉が閉まったのを感じた。
「いってら、くしゅっ!」
…寒っ。とりあえず、これ脱ぐか。
タオルで頭を拭きながら、水分を含んだシャツを脱いで、上半身裸になった。タオルで体を拭く。流石に下は風呂の時でいいか。すぐ上がってくるだろうし。それにしても、今日はチノパン穿いていて良かった。これがデニムなら大変なことになってただろう。あ、沢田の着る物どうしよう。とりあえず、俺のスウェットでいいよな。
…わかんね。
そのとき、近くで我が家には無いはずの車の音がした様に聞こえた。気のせいか?それと共に轟々と雨音が強くなるのを、ひとりで感じていた。