沢田弟から電話が来たのは、静かな昼下がりだった。空は青く、雲は白い。でも、遠くからはどんよりとした灰色の空が迫ってきていた。
『…村上先輩ですか?』
「ああ。どうした?」
俺は、なるべく丁寧にそう言った。だって弟の慎にはこのアドレスを教えたのは、もう随分前の事だったし、そもそも何かなければ姉の友人の俺に連絡なんて来ないだろうから。
そう思えば、電話なんて初めてかもしれない。
俺が無意識に窓の空を見ると、刻一刻と薄暗い雲が厚くなるのが見えた。なんだか、胸騒ぎがする。
『変なんです』
弟は、ポツリとそう言った。
息を吸い込み、次の言葉を待った。だが、いくら待っても、何も出ない。溜め息が漏れ、俺は、もう一度ゆっくり、息を吸った。
「何が?主語つけろよ。」
意味がわからない。もうむしろ、お前が変だろ。弟は主語を抜かして話す癖があるのは知っているが、これじゃ何を言っているか解らない。
まあ、しっかりしている様に見えてそんな所があるとそれも後輩として可愛いところだと思ったりするが、今はそんな話が出来る場面じゃなさそうだ。
『姉が変なんです。』
「…アイツはいつも変だろ。どうした?ちゃんと話せって」
“姉”か。嫌な予感がする。すると向こうで息の飲む気配がした。どうした?
「慎?」
『あの、多分、姉さんは…、』
*
姉さんの様子がおかしい。世界が終わった様な顔をして帰ってきた。しかも、本人は普通のつもりな様だ。今日は彼氏の家に行くと聞いていたから、彼氏と喧嘩でもしたのだろうか。いや、それにしては沈み過ぎている。
「おかえり」
俺の声に姉さんは振り返ると、にへりと微笑んだ。
「…慎、ただいまあ」
「どうしたの?」
何にも掛からない言葉をかけた。姉の夢子は一瞬、驚いたようにこっちを見たが、すぐに俯くとまた先ほどと同じくへにゃりと笑ってみせた。
「へ?なにもないよーそれよりお腹すいたなー」
「そう。何、食べたい?」
「オムライス!慎のオムライス美味しいんだもん」
「わかった、作る」
コクリと頷いて姉さんを見る。お互い何かあったときは、黙って何かを作ってあげるのが二人だけの約束だ。
俺がへこんだ日は姉さんのパスタ、姉さんがへこんだ日は俺のオムライスが暗黙の了解で、お互い、それだけが他人に自慢できる手料理である。二人とも昔から感情が素直に表に出せないから、こうして家族という見えない絆に縋っているのだと思う。そんな何の決まりもないことをお互いに守り続けている。他の人から見れば、変なのかもしれないけど。
でも、俺たち(特に、俺)は他の方法を知らないのだから、しょうがない。(と、思うことにした。)
「やったー!んじゃ、着替えてくる、ね」
そう言って部屋に向かう姉の後ろ姿を眺めた。今の言葉の語尾、…泣いてた?
やっと思い立ったのは、静かな昼下がりだった。それまで一人で灰色の空が迫ってくるのを眺めていた。それは、まるで自分の心を表している様だと思った。静かに携帯を開くと、先輩へ電話番号を選び、コールボタンを押した。
『…もしもし?』
ドクン、ドクン。電話越しだと、いつもよりハスキーに聞こえる気がする。耳が熱い。
奮える声を抑えて、小さな声で呟く。
「…村上先輩ですか?」
『ああ。どうした?』
先輩の独特な優しい声が小さな電子端末を通して、自分の耳に届く。心地好いけど、今はそんな場合じゃない。俺のことはどうでもいい。そう言い聞かせた。
「変なんです」
まず、一言。姉が変なんですよ、先輩。俺はだから、どうすれば、どうしたらいいんでしょうか。
『何が?主語つけろよ。』
靄が薄まる様だった。確かにそうだ。俺は息をスッと吸い、丁寧な口調で続けた。
「姉が変なんです。」
すると、溜め息が聞こえた。先輩?
『…アイツはいつも変だろ。どうした?ちゃんと話せって』
溜め息が優しく聞こえた。ちゃんと?それは、難しいかもしれない。例え、そうであっても先輩だけには話したい。
だって姉さんは俺の家族で、好きな人だから。アイツの悲しい顔は見たくない。
二人して同じ人が好きなのは置いといて、だけど。
遠くで、「慎?」と声が聞こえ、耳がビリビリした。目の前に光が現れたみたいに、ピカッと何かが光った気がした。それで現実に連れ戻された。ただ、名前を呼ばれただけなのに。
俺は小さく息を吸う。
「あの、多分、姉さんは…、」
ねえ、姉さん。
これが裏切りなら俺は甘んじて罰を受けるよ。