4階の一番北にその教室はあった。元々、実験や実習用に日が当たり過ぎない場所を選ばれているせいかそこは暗く、夏でも空調システムがいらない程涼しい。
その教室の担当者が1年A組副担任の吉岡一成先生で。
とても温厚な先生は、大きな声を張らない分、眠たくなる授業として有名だが、生徒達の事を真っ直ぐ考える素敵な先生だと俺は思っている。
そして先生は20年前に亡くなった奥さんとの結婚指輪を大切に嵌めている人だった。
「なあ明、保健室で休んでこいよ」
「えー絶対ヤダ」
「何でだよ」
「保健室キライなんだよ」
「なんだそれ」
先程から同じ会話の繰り返しだった。カチャカチャとガラス棒でビーカーの中身を混ぜながら、佐々木は眉間に皺を寄せている。
今日は班に別れての実習だから多少の会話は咎められないが、俺は佐々木と同じ班ではないはず。でも何故か佐々木は俺の隣で丸椅子で休む俺に代わりに溶液の反応を見ていた。
「早く戻りなよ。先生にバレるよ」
「バレねえって。それより明の体調が…」
「バレてますよ」
にこりと先生は笑い、佐々木を見つめた。
「わっ、吉岡せんせ!」
「佐々木くん、君は3班でしょう?ここは6班の人達の席ですよ。」
「ちっ、違うってせんせー、明が体調悪いんだって!」
注意に来た吉岡先生はぱちくりと目を見開いた。先生はクリーム色のシャツの上に深緑のベスト、下はグレーのスラックスでいつも通り白衣を着ていた。
俺はその優しい眼(まなこ)と目が合った。
俺は少し俯いてたので、先生は心配そうに俺の顔を覗き込む形になっていた。他の生徒は自分のビーカーと向き合っている。
「見るからに大丈夫じゃないってせんせーも思うっスよね!」
「こら、佐々木…」
「そうですね。私にも少し顔色が悪い様に見えます」
「あの、えと」
「ほらー!せんせーもそう思ってんだよ」
「…う、」
こら、先生に心配掛ける様なことするなと佐々木に内心毒を吐きつつ先生をじっと見つめた。
先生は微笑み、ほっそりした手を俺の手の上にそっと翳した。あ、温かい。
「ああ、冷たいですね。唇も爪も青くなってますし、森くんお風邪かなにかですか?」
「え、いえ!…少し寝不足なだけです。」
俺は取り繕った笑顔で触れていない方の手を横に振って否定した。大事(おおごと)にしたくない。至る所でカチャカチャとガラス同士のぶつかる音が教室に響いている。
「あの…」
「は、はい?」
「…よく、眠れなかったのはストレスのせいですか?」
「え?」
先生は俺にだけ聞こえる様に小声で上目がちに尋ねた。
…ストレスってことは、嫌味担任の件だろうか?吉岡先生だってあの人は苦手だろうに。佐々木に続き、この人も心配性だな。
でも、凄く嬉しい。
「大丈夫、違いますから。ありがとうございます」
「そう、ですか。ならいいんですが」
俺は眉が下がったこの40代の男性に微笑んだ。幼い頃離婚した父に面影が重なる。彼もこんな風に優しい微笑みをする人だった。
「ありがとうございます。先生には心配をお掛けしてすいません…」
「いいえ。違っていればそれでいいんですよ、森くん。 あ、でも 顔色が悪い様ですから無理せず休んで構いませんよ。保健室にも私から連絡しておきますね」
え。嬉しいが、それは嫌だ。
「いっいいえ、結構です。ほんと大丈夫なんで…」
「ほら、行ってこいよ!明の分の実験結果は俺がやっとくからさ」
そう言い、胸を張る佐々木。先生まで味方したから調子良いなあコイツ。
「(……佐々木に殺意が芽生えそうだ。)」
「いいえ。友達を思いやる事は素敵な事ですが駄目ですよ、佐々木くん。
君はご自分の班の実験結果を記録しましょうね。ほら、皆さん待ってる様ですし」
「佐々木ー、お前の番だぞー」
「おう、いまいくー!
明、ちゃんと寝てくるんだぞ」
「………わかったよ」
自分の班に戻って行く佐々木の背中にそう答えた。はあと溜め息を吐く。
「森くん。頑張り屋さんなのは、君の長所ですが、無理し過ぎるのは良くないですよ。
人間、時には休息が必要です。たくさんお休みなさい」
「…ありがとうございます」
先生の無垢な笑顔が眩しかった。
嫌だ嫌だ。足が重い。
でも俺は心配性の4つの瞳に勝てず、生物実習室を後にした。