いいにおいがする。濡れた髪を乾かしながら、青年はそう思った。
 季節は春。この季節をひとりで迎えるのは、何度目だろうか。春になったと言っても、夜はまだ寒く、今日は風と雨が彼の帰り道を邪魔して尚更だった。
 青年は慌てて家に戻ると、慣れた手付きでお湯を張り、さっきまでゆっくり湯舟に浸かることにしたのだった。

 普段は倹約家の彼だが、雨が降る日はたっぷりのお湯に浸かることにしている。

 世界が洗われる日に、自分ひとりだけが昨日の汚れと一緒に取り残されるのは、なんだか嫌だからだ。

 普段の風呂事情は淡白だか、雨の日だけは念入りに浸かり、念入りに洗う。いつだって雨音に負けないようにそうしてきた。

 それが、彼の美学であり、彼の弱さであった。

 プルルル、プルルル。電話が鳴る。乾いた手で、そっと掴み、耳に当てる。心地良い人の声。彼は、ああ、もっと彼女の声を近くで聴いていたいと思ったが、念入りに体を洗ったため、少なくとも今夜は出かける気分にはならなかった。幸福なことに彼女もそのことを理解してくれている。

『今日は長風呂かな?』

 彼女が、冗談まじりにそういった。しかし、彼にとっては少しも面白くないので、そっけない声で、うん、まあ。と言うことにした。

『私のにおい、消えちゃったかな?』


 彼女が、苦笑気味にそう言ったので、彼は初めて彼女の冗談の意味がわかった気がした。君が好きなジャスミンノカオリは、もうしないかな。小さな声でそう答えた。ジャスミンノカオリ。彼女のにおい。彼女の好きなにおい。

 電話越しでもわかるほど、彼女がうなだれていながらも明るく振舞う姿が痛々しかったが、もはやなにも言いたくなかった。彼は、寝るからと言って電話を切り、ベットに潜り込んだ。

 ああ、春のにおいがする。春の雨の匂いがする。その中に僕の匂いが混ざって、ぼくになる。

 潜り込んだ布団は、自分のにおいしかしなかった。


 ああ、一人になった僕。

 おやすみ、僕。

END


prev 
back


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -