淡い温もりのあとに




 腕を伸ばして、手を握る。互いの顔を近付けて、口付けもした。彼の瞬きだけで溶けてしまいそうだと感じることもある。それでも僕らの関係はそれ止まりだった。だって、彼は僕の半分も生きてはいないし、それに、それはそれは大きな壁が僕の前に立ちはだかり、行路を塞いでいたからだ。その壁の名は、倫理、または道徳という。


「ねえ、」
「んーなに?昴くんどうしたの。あ、お腹すいちゃった?何か買う?」

「いや、買わなくていいよ」
「そう?じゃあ、どうかした?」

「…いや、なんでもない。呼んでみたくなっただけ」
「ふふ、なにそれ」


 僕らは桜を見に来ていた。街の中心からは少し外れた場所だけど、桜の時期はこぞってこの公園に人が集まる。夜桜が有名なのだ。

 僕は昴くんと手を繋ぎ、人を掻き分けながら進む。まだ夜は冷える。けれど、僕と違って温かい彼の手が愛らしくて堪らなくなって、きゅっと力を強めた。すると昴くんが「…なに?」と言って長い睫毛をパチパチ閃かせる。可愛い。僕はそんな彼の姿を見てそう思った。

 ああ、どうしよう。「ちょっと握りたかっただけ。」なんて言えない。



「…先生、なにニヤニヤしてるの?」
「え?な、なんでもないよ」

 に、ニヤニヤなんてしてたかな?慌てて僕は笑ってみせた。昴くんは、「へんなの」と言ってこちらを見る。

「ふふ」
「もう、そうやって笑ってごまかさないでよ」
「えへへー」


 諦めた様に昴くんのふにゃりと笑う顔が好きだ。それだけで満たされた気持ちになる。むくれた顔も可愛いけどね。それにしても人が思った以上に多い。昴くんの姿が時々見えなくなるほどだ。屋台の匂いが空腹を誘う。

「いい匂いがするね」

 昴くんの顔を見て、え?と言うと「後で食べようね」と優しい顔で言われた。僕はコクリと頷く。同じことを感じたのだろうか。それとも、僕の考えることなんか彼には見透かされているのだろうか。後者のようで怖いけど。


「みて、あの木」
「わ…おっきいね、すごい」

 僕は息を飲んだ。目の前にはそれはそれは見事な枝垂れ桜がどの角度からも見れる様にライトアップされていた。なんて大きな木なんだろう。この木が公園の一番の売りなのも納得出来る。

 木もすごいけれど、人混みもすごい。他の人もこの木目当てで来ているからか、混雑が今まで以上に激しくなっていた。前の人に合わせて、いち、に、いち、に、と歩幅を合わせなくては動けない。息苦しい。


「ここも綺麗だけど、あの時計台の正面が一番綺麗みたいだよ」
「へえー!、そうなんだー」
「あっちまで行く?」

「え?…う、」

 せっかくだから見たいと思った。だけど、これ以上混雑したところに飛び込むのは正直、気が引けた。僕が人生で経験したことがないほどの人で目の前がいっぱいだったから。しかも、息苦しそうなところは彼は苦手だったはず。でも、見たいな。うーん。やっぱり昴くんの負担にならない方がいいよね。

「ううん、ここで十分だよ」
「いいの?」


 何がなんて言わない。端的に的を射ていた。やっぱり見透かされているのかもしれない。

「…行きたいです」
「うん、そう言うと思った。見に行こっか」

「ありがとう」
「いいえ」

 昴くんの小さな体はただでさえ人混みでは不利なのに、彼はまた優しく微笑むと正面の方へ体を流していった。

 ザクザクと進むと周りから「おぉ」と歓声が聞こえだした。僕は桜の木を見た。



 思わず僕は息を飲んだ。口も開いていたかもしれない。何百年と薄紅色の美しさを誇示し続けた風格すら感じられる。

 なんて、美しいのだろう。


「昴くん!すごい、ね?」

え?

「昴くん…?」


 僕はその時、彼のおかげで温かいはずの手が冷えていたことに始めて気付いた。

END


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