手が届かないものと思っていた。あの笑顔は自分に向けられることはないとさえ思っていた。でも、あの人は今日も俺なんかに笑顔で手を振っている。
むしろ、毎日が夢みたいで困るんですけど。
あ、またアイツが近付いて来た。何か喋ってる。しかも楽しげに。
ああ、嫌だな。
***
手を伸ばすのことが怖かったのは、いつのことだろうか。
こうして窓の外で微笑む彼に手を振れるようになったのは、いつからだろうか。
これほど幸福な時間を持てるようになるなんて、思いもしなかった。
…あれ?今、顔を歪めた?
そう思って、遠くの彼に声をかけようと身を乗り出した時、強い力で後ろに引っ張られた。え?
「いっ!」
「危ないわ。何してるの?」
か、かしわぎ先生。
「え?あ、お、おはようございます。」
後ろから声が聞こえて振り向くと、柏木先生が白衣に真っ赤なワンピース姿で僕のスーツを掴んで微笑んでいた。
今日も相変わらず派手だなー。保健の先生とは思えない奇抜さだ。それでも子供達から人気があるのは、どうしてだろう。
(本人には聞けないけれど…)
「おはよう。こんな朝早くから元気ね。何してた、の?」
身を乗り出すほど、と彼女は呟くと窓の外をちらりと見た。それから先生が、ああ、と呟いたのを僕は聞き取れなかった。
「あの…手を、」
「ん?」
「手を振っていたんです」
自分自身の白い手を見つめてから、柏木先生に向かってはにかんだ。小さな幸せのおすそ分け。えへへ。
「ふーん。お盛んなことで羨ましいわー」
なっ。彼女は紅い唇を三日月の様に曲げ、ニタリと笑った。その姿はまるで魔女。
むしろ、魔王かも。
「お、お盛んって…」
「くふふ、赤くなった。」
そんな発情期の猫みたいなこと言わないで下さいよ!
「もう!朝からからかわないで下さい」
「いいじゃなーい。くふふん、くふ、ああ、だめだわツボった。くふふん、ふふ」
…相変わらず変な人だ。大学からの付き合いじゃなきゃ、絶対関わってない気がする。もう何年も前から先輩にからかわれて続けているけど。
どうして僕みたいな目立たない奴、好かれちゃったんだろ。
「あらー?今なんか余計なこと考えたでしょ?」
へ?いたっ!
「いっ!いひゃ、やめてふだひゃ、いたひれす、」
「くふふ〜アヒル口も可愛いのね」
「ひぇんひぇ、や」
僕の両頬を指で挟んで、アヒル口にされてしまった。先輩の指圧がすごくて上手く喋れないし、長い爪は食い込んで痛いし、もう最悪。朝からの幸せな気分を返して欲しい。そう思うと、じわりと涙が出てきた。
もう、誰でもいいから助けて下さい。
そう思って古い板張りの廊下を見ても、誰も来る気配がない。なんでこんな死角に来ちゃったんだろ、僕。
昴くん、たすけて。
なんて、来るわけないよね…
「ねえ、柏木先生。僕の先生、いじめないでもらえます?」
「…あら。おはよう岡部。」
「ひゅばりゅくん!」
「くす。先生、おはよう」
柏木先生が手を離してくれたので、昴くんの後ろに反射的に隠れる。これでも昴くんを抱きしめそうになったのを必死に堪えた。ここは、学校だしね。
一瞬、柏木先生は面白くなさそうな顔をし、そこからまたニタリと真っ赤な三日月を作った。
昴くんと目が合う。にこりとまだ幼い顔を優しい顔に変える。
「痛かったよね。来るのが遅くなってごめんね」
「すば、…岡部くん」
僕が泣きそうな顔でもしてたのかもしれない。昴くんは小さな手を僕の頭に乗せて、ゆっくり撫でてくれた。体温が温かい。
「よしよし。泣かなくても大丈夫だよ。もう僕が迎えに来たからね」
「うん」
膝を付いたまま、腰に腕を絡めてぎゅっと抱きしめた。昴くんの胸板は優しい匂いがした。
彼は嬉しそうに「甘えたさんだ」と小さく言って笑った。
「こらこら、私の存在を消さないでちょーだい」
「チッ。忘れようとしてたのに」
「早く教室行きなさい。ホームルーム始まるわ(ていうか今、舌打ちしたわよこの子)」
「せんせ、行こ」
昴くんがその小さな手を伸ばした。僕は無意識にその手を掴んでいた。
つまり、そういうことなんだね。
昴くんの首から汗が流れているのを見つけた。呼吸も少し速い。もしかして、走ってきてくれたのだろうか。
ぎゅっと握られた僕の手にじわりと熱が伝わった。
END