「あっつうーい…」
 駅を出ると途端に熱気が押し寄せてきて、キンキンに冷やされた空気に慣れた肌が解凍されていくようだった。ゆるゆると筋肉の緊張が緩んでいく感覚。仕事からやっと解放された喜びと、家までだるく歩いて帰ってお風呂に入ってお化粧水付けてという日常の面倒臭さが熱気に籠もっている気がした。布団に倒れ込むときには確実に日付けを越しているだろう。じりじりと音をたてる駅の電灯に、はあと一つため息をついた。二、三人とまばらに帰宅する人がいるけれど広い構内は閑散としている。夏の夜独特の、沢山の生き物がまだ起きて活動しているのを感じながら、渋々歩き出すと、車が自分の後ろにいるのが分かった。それも、妙な速度で、ずっと自分の後ろを追いかけてくるようだった。
(え、なに、怖い)
 地元のはずなのに、一変して知らない場所のように周囲が余所余所しい雰囲気をまとう。叫んだら駅員さんにまで聞こえるだろうか。いや、ダッシュでわき道に入ってしまえばいいのかな。ケータイってもしかして鞄の底だっけ、もう自分の馬鹿! そこまで一瞬で考えた瞬間、車が並走してきて、窓が開いた。

「おい、ばか!ケータイ何回鳴らさせんだよ」

 隆也の怒声は、不審な車より怖かった。
「阿部、来るなら来るって言ってくれたらよかったのに」
 助手席に乗り込みながらぼそぼそと文句を言うと、「ケータイを携帯してないお前が悪いんだろーが」と憎々しげに返された。シュゥっと隆也が窓を閉めると心地良い程度に冷房が入っていて、私はあの熱気の中歩いて帰るんだったのかと思うと、隆也さまさまだなと心の中で感謝する。おい、と無愛想に渡されたミルクティの缶に驚きながらもすぐに開けて口を付けた。甘さと香りがふわりと広がった。
「阿部ってこんなに気がきくやつだったっけ」
「おまえの減らず口はまんまだな」
 あーもうと眉間に寄せたしわは刻んだまま、ちらと横目で私を見やっただけですぐ前を向いた。隆也の車はなんだか隆也に似ていて、ガタイがいい。角ばっているから、私が運転したらすぐにぶつけて傷だらけにしそうだ。
「今日仕事は?」
「今日は非番。おばさんに呼ばれて、お前ん家行ってた」
「…ってことは、私が“遅れる”ってお母さんにメールした時いたの?」
 高校卒業して、大学も同じで、隆也は大学でもやっていた野球部の体力を活かして警察官になった。今は巡査として忙しいらしいけれど、そこは公務員で、私は会社員で休みが違う。だから、会うのも久しぶりだ。社会人になってからは私にも彼氏がいたし、隆也だってはっきりではないけれど、告白されていたらしいから、なおさら。しばらく私達は疎遠だった。付き合っていると噂が流される程一緒に居たのは高校生と大学生の間。噂自体を心地よく感じていたのは自分だけなのか、それとも隆也もだったのか、聞き損ねて今に至っている。
 お互いの仕事が忙しくて一週間も連絡をとっていない彼なんかより、よっぽど隆也の方が恋人みたい、なんて疲れ切った脳でぼんやり考えている間に、車は何のためらいもなくするりと角を曲がると私の家の前でとまった。
「おい、」
「なに」
「べつに迎え行けっておばさんに言われたんじゃねえからな」
「は」
 運転の最中だったからなのか、はたまたいつもの不機嫌だからなのか無口だった隆也がいきなりそんなことを言い出して、私は目をぱちくりさせた。運転しながら母さんからの頼みじゃないって言い方をずっと考えていたの?
「はは、どうしたの阿部、わかってるよ、ありがとう」
 その、自主的に来ましたよアピールは一体なによ、と内心思う暇もなく腕を強引に引っ張られた。もう一方の手で鞄を持っていたから、抵抗もできずにあっけなく隆也に引き寄せられた。あ、やばい、汗かいてるのに。そう思った時にはもう遅くて隆也の顔が間近にあった。がぶりと、噛みつくようなキスに、慌てる自分と妙に冷静な自分がいて、ああ隆也っぽいなと感想を述べていた。茫然としていると、黒々した目が何も言えないでいる私を見据えた。変わらない、意志の強い瞳がそこにはあった。胸の奥底がキリキリ疼いている。あの頃から変わらない視線に。

「お前は俺のもんだろーが、もどってこい」

 聞きたいけど、聞きたくなかった。言ってほしくて堪らなくて、言ってほしくなくて悶えそうだった。なんてずるいんだろう、その声は、その瞳は、その真剣な表情は。
 そうして私は隆也にまた囚われてしまうんだろう。


(あと、呼び方戻せ、阿部じゃねえだろ)
(阿部)
(ばあか)











(、隆也)