- ナノ -

触れたらいいのに


 あの後、ゆっくりと唇を離した降谷はそのまま帰っていった。また連絡する、と言った降谷に小さく頷き、遠くなっていく車を見送りながら少し物足りないような気持ちに蓋をした。
 家の鍵を開けるためにキーケースを取り出す。返し忘れたままの降谷の家の鍵が廊下の電灯に反射して光っていた。急に一人になると、途端に虚しさが胸に広がる。
 自分のものじゃない熱が触れるのは心地いい。それが嫌いじゃない相手ならなおさら。降谷に掴まれていた手首をそっとさする。低いエンジンの音はもう聞こえなかった。
 今度はちゃんと返事しよう。開かずにいたトークルーム、土曜の夜と今日の朝の降谷からのメッセージの下に、今度は私から「いつ会える?」と送った。こんなに身体が火照るような熱に浮かされるのは、随分久しぶりのことだった。



 * * *



「……ねえ、聞いてる?」

 拗ねたような気を含む甘い声色にハッとする。「聞いてなかったんだ、」と不満げに呟いた彼女は、俺の腕に触れていた白くて細い指先で軽く肌をつまんだ。
 白いレースのカーテン。丸型のラグマット。白と淡い薄ピンク色で統一された部屋は、見慣れていたなまえの部屋とは系統が違ってまだ目に慣れない。

「あ、ああ……ごめん。なんだっけ?」
「だから、今日先輩と話してたでしょ? ほんとはなに話してたの?」

 眉を寄せて少し口を尖らせる彼女に「なんでそんなこと気にすんだよ」と適当に返す。思ってたより冷たい言い方になってしまって慌てて取り繕うように笑った。いつもなら釣られて笑う彼女は口を引き結んだまま、俺をじっと見つめたまま視線を逸らさない。

「……なに考えてたの?」

 いつもより少し低い声でそう言った彼女に「え?」と返しながら頬が引き攣るのを感じた。彼女はそれ以上追求してくることはなく、軽い溜め息を吐いて手に持っていたスマホに視線を落とした。

「先輩、思ってたより落ち込んでなかったね」
「……そうか?」

 帰り際、廊下で会ったなまえのいつもと変わらない表情を思い浮かべる。確かに素っ気なくなってはいたけれど、特別落ち込んだ様子はなかった。仮にも何年も一緒にいた俺と急に別れたのに、少しもショックを受けてないはずがない。
 別れを告げたあの時の驚きで目を丸くさせるなまえを思い出した。動揺で揺らぐ目。戸惑いに震える唇。あの時のなまえの反応は嘘なんかじゃない。なまえじゃなくて彼女を選んだのは確かに自分だ。それなのに、あの日からずっと焦燥感にかられている。

「やっぱり新しい人できたのかなぁ」
「は? やっぱりって? もう次の男いるのか?」

 スマホをいじりながら呟いた彼女に迫ると、彼女は「……なんでそんなこと気にするの?」とお返しと言わんばかりにそう返した。ばつが悪くて視線を逸らす。

「いや、別に。でもずっと付き合ってきたのに別れてすぐに男ができるとかありえないだろ」
「そういう自分がそうじゃない」
「俺はそういうのじゃないだろ、別れる前から気になってた子が相手だし」
「えー、それってちょっとクズじゃない?」

 なまえと別れた日からちゃんと付き合い始めた彼女が、少し変わった気がする。なまえとは違う、やさしくて甘い、押したら崩れてしまいそうな雰囲気の彼女に魅力を感じて惹かれていったのに、ここ数日の彼女は時折冷たい面を感じるようになっていた。

「あーあ、残念。もうちょっと先輩の悔しそうな顔が見れるかと思ったのになぁ」
「え?」

 まただ。聞き返した俺に、冷たい目をしていた彼女はにっこりと笑って椅子に座る俺の膝に跨った。間違ってない。もう一度言い聞かせるように心の中で繰り返す。首に腕を回す彼女に戸惑いながら、その細い腰に手を回した。



 * * *



 降谷から「明後日の夜なら」と返事がきた時から、年甲斐もなく少し浮かれていた。今日の夜のために朝から服にアイロンをかけて、少し早く起きて念入りにナチュラルに仕上がるように化粧を仕込んで、お気に入りの香水をふって、髪のアレンジでもしようかと思って鏡に向き合った自分の顔が浮かれていて、恥ずかしくなって結局いつも通りの髪型にした。
 自分のデスクに荷物を置いた途端、先に出社していた同僚が私に気付いて慌てて駆け寄ってきたのは水曜のことだった。

「おはよう、どうしたの?」
「ちょっと外いこ、ここだと……」
「あっ、先輩方! おはようございます!」

 いつの間にか近くに立っていた後輩に思わず身構える。隣で顔を歪める同僚を気にすることなく寄ってきた後輩は、「先輩達にも是非来ていただきたくて!」と眩しい笑顔を向けてくる。差し出された葉書サイズの紙をなんの疑問も抱かず受け取って固まった。

「入籍や式は都合で少し先になる予定なので、先に親しい人や課内のみんなを呼んで、軽い婚約パーティーをしようと思うんです。といっても堅苦しいものじゃないので!」

 さすが、どこかのちょっとしたお嬢様は違う。照れたようにはにかんで笑う後輩に目眩がしそうになるのをぐっと堪えた。婚約。七年一緒にいてもまともにそんな話したことなかったのにね。恨み言を頭の中で巡らせて、ふと冷静になる。私とはそんな未来を考えるに至らなかった、それだけのことだ。日を追うごとに楽しかった思い出すら塗りつぶされていくようで、あいつに七年も時間を費やした自分さえ馬鹿だなと罵ってやりたくなる。

「友人もたくさん呼ぶので、きっといいお相手も見つかると思いますよ!」
「はぁ? あんたね、」
「いいの、」

 身を乗り出した同僚の腕を掴んで止める。周りが私たちの様子を興味深げにちらちらと視線を寄越していた。あれからまだ一週間も経っていないのに、スピーカーのあだ名は伊達じゃないらしい。
 後輩の言動の意図が読めない。この状況を楽しんでいるようにも見えた。彼女はまた完璧な笑顔を浮かべて、「あ、それとも」と口を開く。

「もしかしてあのストーリーに乗せてた人が新しい彼氏さんですか?」

 黙ったままの私に、後輩は「先輩も、すみにおけませんね。つけ込まれちゃったんですか?」と笑いながら言った。

「……例えそうだとしても、別に関係ないでしょ?」

 少し驚いたように私を見た同僚に、しまった、と口をつぐむ。一瞬だけぽかんとした顔を見せた後輩はすぐに表情を戻すと、「パーティー、絶対来てくださいね」と言って自分の席に戻っていった。同僚が周りに聞こえないように声を落として話す。

「こんなの行かなくていいよ」
「でも、課内の人は行くんでしょ? 行かないでまた何か噂されるのも面倒くさいよ……」

 自分の席の周りに集まる人に笑顔を向けながら招待状を渡す後輩を見る。私たちに向けられる視線も変わらない。ハガキに視線を落とす。綴られた日付は約一ヶ月後。華やかに飾られた小洒落たそれが、またひとつ、胸の奥にシミを作った。


 * * *


「あれ、結局行くのかね?」
「ああ、例の三人の振られた人?」

 帰ろうとエレベーターに向かっていた時、聞こえてきた声になんとなく足を止める。エレベーターを待つ男性三人は、確かデスクの山が隣の広報の人だった。

「でもちょっと可哀想だよな、部長とかも来るのにあんなの断れるわけないし」
「寝取られたんだっけ? まぁかわいい上に玉の輿ならそっちに転がるのも分かるけど」
「みょうじさんもイイけどさ、一人で生きていけそうだもんな」

 エレベーターが到着する音が聞こえて、声が聞こえなくなる。ドアが閉まる音が聞こえても、足は動かなかった。壁に預けた背が重い。悪いことしたわけじゃないんだから。そう言った同僚の言葉を思い出す。確かに、私は何も負い目を感じる必要はない。
 別に悔しいわけじゃない。未練もない。それなのに胸の奥に押し寄せる感情。できることなら気付きたくなかった。
 捨てても一人で生きていけそうだから選ばれなかった自分、かわいくて儚くて守ってあげたくなるような笑顔の彼女。
 どうしようもなく、惨めだった。




 今日は降谷の家で会う予定だった。降谷の家の最寄り駅まで行って、降谷の迎えを待つ。駅に着いてから十分ほど経つと、見慣れた目立つスポーツカーがロータリーに滑り込んできた。近付くと、窓を開けた降谷が「ごめん、ちょっと遅れた」と苦笑いを浮かべる。それに「待ってないよ」と答えて助手席に乗り込んだ。

「一応色々置いてるけど、コンビニ行くか?」
「ううん、お酒とおつまみあるならいい」
「酒はビールとウイスキーならある。そういえば前に言ってた梅酒、昨日見つけて買っといた」
「ほんと?」

 やった、と返した声が思ったより落ち込んでいて、誤魔化すように「炭酸は?」と続けた。降谷は目敏いから、気が落ちていることにきっともう気付いている。それでも取り繕った。落ち込んでいることには気付かれていても、惨めな自分に気付かれたくなかった。

 降谷の家に着くと、降谷が私のジャケットを受け取ってハンガーにかけた。土曜日ぶりの降谷の家。テーブルの前に置かれたクッションに腰をおろす。降谷が冷蔵庫からビールを取り出そうとして振り返った。

「今日は帰るのか?」
「なんで?」
「帰るなら送るから」
「いいよ、降谷も飲も」

 いざとなったらタクシーあるし、と手に持っていた二缶を受け取って両方開ける。片方を降谷に差し出すと呆れたような顔をして受け取り、冷蔵庫からもう二缶取り出して机に置いた。おつまみをコンビニの袋ごとテーブルに置いた降谷は、クッションをテーブルの斜め前に置いて腰をおろす。

「あれから何かあったか?」
「あいつらのことで?」
「それ以外に何かあるのか?」

 缶を傾けた降谷に倣って冷えたビールを喉に流す。空腹を感じていたところにお酒を飲んだからか、お腹の上の方がじわりと熱を帯びる。袋を漁ってチーカマとさきいかを取り出した。

「あ、そういえば月曜の帰り際に元彼と鉢合わせて、なんかこれからはいい友達に、みたいなこと言われた」
「冗談だろ?」
「ほんとにね」
「なるのか?」
「まさか」

 顔を引きつらせた降谷は「他は?」と続きを促す。思い出すのは今日のこと。降谷に話すのは気が引ける。言おうか迷って、ここまで来て全く話さないのも変か、と口を開いた。

「あとは……後輩に婚約パーティーに呼ばれた」
「それも冗談?」
「だといいんだけど、ほら」

 鞄から取り出した招待状を降谷に差し出すと、それを受け取った降谷は招待状に軽く目を通す。

「結婚するんだって、私とは一回もそんな話しなかったくせに」
「行くのか?」
「同じ部署の人もほとんど招待されてるし、これで行かないって言ったら絶対変に噂されるし」

 エレベーター前の三人の会話を思い出す。別に自分には関係ないって態度をとっていればいいだけだと分かってるけど、面白おかしく見られて平気でいられるほど強くはない。
 ふと少し冷たく感じる指が目の下に触れて、そっと撫でられる。驚いて伏せていた瞼をパッと持ち上げると、降谷が手を伸ばしたまま私を覗き込むように見ていた。

「……な、なに?」
「いや、ちょっとやつれてるから。やっぱり何かあったか?」

 降谷の心配を含んだ気遣うような視線に、思わず涙腺が緩みそうになる。瞼が熱を持って少し視界が滲んで、誤魔化すように顔を俯かせた。涙が浮かぶ前に瞬きをして、なんとか引っ込ませる。

「ちょっと、つかれただけ」

 顔を上げて笑うと、降谷が眉を寄せて険しい表情を見せた。あまり見たことのない表情に目を取られていると、もう一度降谷の手が伸びてきて私の頭を引き寄せ、もたれかかるように肩口に押し付けられた。求めていた人の熱に触れて、瞼が熱くなる。降谷のシャツに涙に滲んだアイシャドウがついてシミになってしまう。涙がこぼれ落ちる前にぐっと奥歯を噛んで堪えた。
 もたれかかっていた身体を肩を支えられるように起こされる。離れた降谷の胸を見つめていると、降谷の顔が近付いて額がぶつかった。顔を上げると、降谷の唇が押しつけられる。
 驚いて瞬きをした瞬間に涙がこぼれて、少し捲られたシャツの袖から伸びる降谷の腕に落ちた。身体の重心が後ろに傾き、倒れそうになって左手を床につける。いつの間にか私が下になっていた。降谷を見上げる。

「つけ込んでいい?」

 一昨日とは違ってひとつ頷いた私に、降谷はもう一度唇を落とした。床につけた左手に重ねられた降谷の右手に、自分から指を絡める。私の後頭部を支えて床に倒した降谷が私に影を作った。頭にある降谷の手が、やさしく髪を撫でる。選ばれなかった自分。私を想って触れてくれる降谷。やさしさが心に沁みて、胸が苦しい。

「……降谷、」
「なに?」
「好き」

 ずっと閉じ込めていたはずの気持ちが堪えきれなくなって、涙と一緒に溢れる。縋るように降谷の首に腕を回した。降谷は私の頭を撫で続けていた。自分の気持ちを確かめるように、もう一度「好き」と言った。頬や瞼に唇を寄せていた降谷が今度は耳元にキスを落として、「知ってる」と呟いた。

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