- ナノ -

痣なんてないよ


「なまえ! こっち!」
 金曜の夜だというのにやけに爽やかな声は聞き馴染みのあるものだった。声を辿るように視線を彷徨わせると、笑いながらひらひらと手を振る諸伏とその横でグラスに口をつけている降谷が見えた。
 狭めな大衆居酒屋は喧騒感が耳につくのにどこか居心地がいい。すみません、と頭を下げながら席の間を縫うようにして二人の座る席に着くと、諸伏が「おつかれ〜」と私の鞄を受け取って席の下の荷物置きに入れてくれた。もう一度差し出された手に脱いだ上着を渡すと、頭上のハンガーにかけてくれる。
「ごめん、遅れて。ちょっと残業くらっちゃった」
「どうせまたなんかやらかしたんだろ」
「またってなに、なんもしてないし!」
 なんだと思ってんの、と降谷の言葉に口を尖らせると、諸伏が困り顔で「まあまあ、せっかく集まったんだし」と宥めるように笑った。
「で、仕事どう?」
「慣れないことばっかで疲れる……」
「そりゃそうだ」
 あっけらかんと笑う諸伏にドリンクメニューを差し出される。二人の前にはひとつずつ空いたグラスが残っていた。諸伏の手によって目の前に差し出されたからあげに食いつくと、降谷が「行儀悪い」と白けた目で見てきた。相変わらず冷たいやつだ。


 * * *


「そういえば彼氏できた」
 グラスがいくつか空いた頃、思い出したようにそう言ったみょうじにふーん、と相槌を打つ。別の大学に進学して少し経った時にも聞いた言葉。あの時よりは平静でいられた。あの時と違って、驚きと憐れみの混じった目で見てくるヒロの視線もない。結局三ヶ月もしないうちに「そういえば彼氏と別れた」と言われた時も同じようにふーんと返したっけな、と思い出す。空のグラスが増えるたびに口が回って愚痴が溢れてくるのを淡々と聞いていた気がする。
 みょうじに他の相手ができるたびに「自分のものには手出されたくなさそうなのにな」と口を出してくるヒロに「別に俺のものじゃないだろ」と返すと、ヒロは決まって面倒臭そうな表情を浮かべた。
「どんなやつなんだ?」
 ヒロがそう聞くと、みょうじはうーんと少し考え込んで「当たり障りない感じのやつ」と言った。なんだそれ。思わず呆れた視線を向ける。
「一緒にいても嫌じゃないし、付き合ってみてもいいかな〜って」
「付き合うの基準低……」
 言い訳のようにそう言ったみょうじに、ヒロが「なまえらしいけど」と言いながら眉を下げる。みょうじは「まあまた愚痴聞いてよ」と残り少なくなったジョッキを傾けてビールを飲み干した。
「そういう二人はもう随分浮いた話聞かないけど?」
「うーん、欲しくなくはないけど。今は仕事でいっぱいいっぱいだしなぁ」
「降谷は?」
「俺も、別に今はいい」
「そんなもんかぁ」
 二人揃って同じ意見だったからか、みょうじはふーん、と深掘りせずにドリンクのメニューを流し見ている。ヒロがこっそりと吹き出して笑いそうな顔をしていたのを見逃さなかった。テーブルの下でヒロの足を軽く小突くように蹴ったつもりが、足を伸ばしていたらしいみょうじの足を蹴り上げたらしく、正面から「いだあ!」と色気のない悲鳴が上がった。

 集まって数時間が経った頃、そろそろお開きにするか、とヒロが首まで赤くなったみょうじを見ながら口にしたとき、みょうじは「え? もう?」と目を丸くさせていた。会計を済ませて外に出ると、夏の夜にしては涼しい風が肌を撫でる。
「まだ全然話したりないのに!」
「明日に響くぞ」
「別に休みだからいいもーん! あーあ、もっと予定合ったらいいのに……」
 不満げにそう溢したみょうじにヒロと顔を見合わせる。どこか不安を煽るような足取りでひとりで夜道をさっさと歩きだしているみょうじの後を追った。人にぶつかりそうになっているみょうじの腕を引くと、自分で踏ん張れなかったみょうじの身体がもたれかかってくる。
「送る。酔ってるし」
「ええ? いーよ別に、酔ってないし! もう遅いし帰りな?」
「だからだよ。やっぱ酔ってるだろ……」
 ヒロはどうするのかと視線を向けると、またあのお節介な笑顔を浮かべて手を振った。駅に向かって歩くヒロの背中に大きく手を振ったみょうじは、酔っているせいか寂しそうな顔を隠そうともしなかった。
 時々道の端に向かって歩き始めようとする酔っ払いの腕を引っ張りながらようやくみょうじの家に着いたとき、みょうじは半分寝ていた。
「鍵は?」
「えっ、なに? あ、お茶飲んでく? 実は最近水出し紅茶にはまっててさぁ〜!」
「…………」
 だらりと壁に半身を預けたままへらへらと楽しそうに笑っている酔っ払いから鞄をひったくってキーケースを取り出す。いくつかのそれっぽい鍵を試すと、二回目で部屋の鍵は開いた。キーケースをみょうじの鞄の中に戻すと、みょうじはドアを支える俺の横を抜けて部屋の中に入って行った。部屋の奥に消えていく背中に「鍵かけろよ」と声を掛けると部屋の奥から「アールグレイしかないけど!」と、とんちんかんな大声が聞こえて頭がズキズキと痛んだ気がした。
「あれ? 降谷ぁ! どこいんの?」
「玄関。鍵寄越せ、外から閉めてここから入れておくから」
 部屋の奥から足音がして、リビングから顔を覗かせたみょうじが不思議そうな顔をしている。その手には透明なクリアボトルに入った紅茶が握られていた。
「え? 紅茶は?」
「飲まないし帰る。お前も彼氏いるなら他の男に無防備にするなよ」
「ええ? だって降谷じゃん。ほんとに帰っちゃうの?」
 言ってて虚しくなったというのに、みょうじはそれ以上の返しをしてくる。手招きをするみょうじにもういいか、と玄関のドアを閉めて、内側から鍵をかけた。パッと笑顔になったみょうじがリビングに引っ込む。それを追うように部屋の奥に足を進めた。大学生の時に片手で数えられる程度しか来たことのない家だったけれど、意外と間取りを覚えている。汚くもないけど綺麗でもない部屋がみょうじらしい。
 溢しそうな手つきでふたつのグラスに紅茶を注いだみょうじは、少しの間さっきも聞いた話を楽しそうに話すと、あっという間に机に突っ伏して寝始めた。どうせこんなことだろうと思っていたから特に動揺もせず、寝ているみょうじの身体を抱えてベッドに放る。テーブルの上に放置してあったメイク落としシートを一枚抜き取り、薄い化粧を落としていく。そういえば、あんまり寝顔は見たことなかったな。喋らなければ三倍まともなのに。
 化粧を落とし切り、自分の鞄から取り出した手帳のメモのページを切りとってペンを握る。玄関ポストに鍵入れとく、と適当にメモ書きを残し、部屋の隅に放られた鞄からキーケースを取り出した。キーケースから鍵を取り外して、ケースをメモの横に置いておく。
 ベッドの上に視線を向けると、本人は気持ちよさそうに身体を伸ばして寝ていて少しイラッとした。ベッドの近くに寄っても、気配に気付くことなく寝こけている。目にかかる前髪を払ってやると、いつもは隠れている額が目に入ってつい指で突いた。起きないまま鬱陶しそうに眉を寄せたみょうじが面白くて、頬が緩む。本当、なんでこんな女好きになったんだろうか。子どもみたいに拗ねるし酔い方は酷いし、彼氏いるのに部屋に他の男呼ぶとか最悪だ。
 誰にも見られていないせいか、少しくらいいいか、と自分に甘くなった。どこの馬の骨だかしれない男とあっさりと付き合って、本当は少しむかついていた。呑気なみょうじの寝顔に影がかかる。僅かに開いた唇の隙間から、赤い舌が覗いている。
「……、んん、」
 触れるだけのキスをすると、みょうじの口から吐息混じりの声が漏れた。身じろぐみょうじの熱い頬に触れる。起こさないように立ち上がり、みょうじの顔を見ないまま部屋を出た。しばらく顔を会わせられないな、と考えて、どうせ次に会えるのは早くて数か月後か、とすぐに思い直した。鍵を閉めて、玄関ポストに投げ入れる。カン、と金属がぶつかる音がした。

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