- ナノ -

約束

 家の近くにピアノ教室があったのか、夕方の六時を過ぎる頃、窓から吹いてくる風と共にどこからかきらきら星が聞こえてくる。揺れる藍色のカーテンに合わせて、一音一音確かめるようにゆっくりと紡がれるその曲は、いつも同じところで躓くように音を外していた。
「それでさ、一週間毎日おんなじところで音外してたんだけど、ついに昨日初めて成功してたんだよ! 勝手に喜んじゃった!」
「きらきら星か、そろそろ七夕だからかな」
「そっか、もうそんな季節か……ついこの間まで寒かったのにね」
 たった一歩振り返れば死が待っていたかもしれない毎日の中で、この世界を知らないひとたちの穏やかな日常のかけらを集めるのが好きだった。五条にこんな話したって「だから?」なんていって馬鹿にした目線を向けてくるんだろうし、硝子はいつも相槌を打ってくれるけど聞いてるようで聞いてないし。そんな冷たい同期に囲まれた中で、夏油はいつも私のくだらない話を聞いて笑ってくれる唯一の良心だった。
 五条や夏油くらい大きな身体だと随分窮屈に感じるであろう机に向かい合って、たわいもない話をぽつりぽつりと呟くようにこぼしていく。
「なまえは非術師が好きなんだね」
「うん! 非術師が好きっていうか人間が好きかなぁ」
 続きを促すように少し首を傾けた夏油に気恥ずかしくなって「いや、だって」と言い訳めいたように呟く。誤魔化すように机の木目を指でなぞりながら口を開いた。
「人にはさ、感情があるから。言葉を大切にしたり、思い出を大切にしたり……ひとつの物事に喜んだり悲しんだり。いつ死んじゃうかもわからないのに、最近はそういうのを考えてる暇もないから」
 陽が落ちた教室に橙色の影が伸びる。誰が書いたのかも分からないへたくそな怪獣の絵に、これまたへたくそな炎の咆哮を書き足す。向かい側からスス、と寄ってきた夏油の手が怪獣の周りをうろうろ動いたかと思うと、ふきだしに囲まれた「がおー」という文字が書き足された。
 たまに見せる茶目っ気やいたずらっぽいところが、女の子の心を撃ち抜くのだろうか。五条と一緒にいるといたずらじゃ済まなくなっていることを知ってる人はどれだけいるんだろう。ほんの少しの優越感に気付かないふりをして、感情を飲み込む。
「なまえが悟としょっちゅう意見が割れるのは、やっぱり考え方が違うからかな」
「でも夏油と五条も違うのに、二人はどうしてそんなに気が合うのかねぇ」
 非術師に対する考え方の違いから、二人も時々意見がぶつかるけれど、それでもお互いが相棒だと思っている様子が時々羨ましく感じる。
「悟の考え方も、きっと見る人から見たらそっちの方が正義に思えるのかもしれないね。もしかしたら悟が分身した方が呪術界の平和に繋がるのかも」
「そうかもしれないけどさ、五条が世界に溢れたらとんでもないことになっちゃうから! 主に性格的な問題で!」
 おかしそうにくつくつと笑う夏油を見つめた。
「私は五条じゃなくて夏油みたいな人ばっかだったら、もっと世界がいい方向にいくと思うんだけどなぁ」
「私?」
「そう、夏油。夏油は……自分じゃない人の事を大切に思える人でしょ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 顔を見合わせた途端に突然気恥ずかしくなって吹き出すように笑うと、つられたように夏油も肩を揺らして笑った。
「じゃあ約束ね。世界を平和にする作戦の仲間、第一号!」
 小指を差し出すと、私の手を覆い包めるくらい大きな手が近付いて、小指がそっと絡まる。
「約束、」
 私の言葉を繰り返すように呟いた夏油が、絡めた指先から辿るように視線を持ち上げる。交わった視線が柔らかく笑う夏油の顔が、夕焼けを越した夜の始まりに溶けていった。


じゅじゅJBネップリ企画より



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