- ナノ -

おとなの終末

 そういえば私、太陽の下でほとんどあいつを見たことがない。
 缶ビール片手に自室で一人酒盛りを楽しんでいた最中、酒の周りも程々に、ふとそんな考えが頭をよぎった。時計の針は深夜の二時を示していて、夜はすっかり更け切っている。二階建てのアパートの窓、カーテン越しに近くの電灯がジッ、と時折悲鳴を上げていた。
まだ?
 半分ほど中身の残った缶をテーブルに置き、コタツ布団の上にひっくり返っていたスマホをたぐり寄せる。アルコールが回りかけた拙い手元でようやくその三文字を打って送信すると、すぐに既読のマークが浮かんだ。
もうすぐ着く
ビール追加で! あとおつまみも
もう着くっていってるだろ
 二時まで待たせといて偉そうに、と悪態付いてまたスマホを放り投げる。どうせあいつのことだから気を利かせて買ってきてくれるだろう。冷たく見えて典型的なお人好し、あいつは人の頼み事を断れない男だった。
 十分ほど経ち、空になった缶を指で弾いて遊んでいた時、ようやくけたたましいエンジン音が静まり返った住宅街に響いてくる。
 先月車を駐車場に置きっぱなしにして大家さんに怒られたばっかりなのに、また置いておくつもりか。怒られるのが私だからって好き勝手しやがって、と憤りを空き缶にぶつけて潰し、ゴミ箱に放り込む。つーか酒飲む前提なんだから歩きかタクシーで来いよ。
 エンジンの音が萎むように消えてからすぐにカンカンと鉄骨の階段を登る足音が聞こえてくる。毎度律儀にインターホンを鳴らす降谷に向かっていつも通り「開いてるよ」と声を掛けると、ため息と共に玄関が開く。
「だから鍵掛けてろって言ってるだろ」
「いーじゃん、来るってわかってんだから。今日だけ、今日だけ」
「来ないとも限らないだろ。それに今日だけって言って毎回やってるくせに」
 確かに、前に朝の五時まで来なかった時はどうしようか困ったけど。それでも結局来たじゃんかと視線で抗議する。ボロアパートに似合わない磨かれた革靴を綺麗に並べた降谷は、スリッパも無いこの部屋に慣れたように上がり込み、靴下と鞄を適当に放って辺りを見回した。
「寒すぎて窓開いてるのかと思った。なんでエアコンつけてないんだよ」
「コタツつけてるから。飛んじゃったら嫌だもん」
「コタツとエアコンだけで?」
「いや、実は冷蔵庫もう一個買ったんだよね。それのせいかな?」
「一人暮らしに冷蔵庫二個もいらないだろ……」
 呆れた顔を向けてくる降谷に向かって、コタツに入ったまま手が届く距離にある、小さめ四十六リットルの冷蔵庫の扉をパカッと開けて見せる。ぎっしり詰まったビールにチューハイ炭酸水。降谷は冷蔵庫の中と横に置かれたウイスキーや焼酎を見比べ、数秒黙り込んだ末に「……いいな、それ」と納得したように頷いた。
「ね、ちゃんとビール買ってきた?」
「買ってきたけどまだあるのかよって思った」
「違うよ、これは飲むんだから補充しないとでしょ」
 渡されたコンビニのビニール袋を受け取ってコタツの上に出していく。高い割にちょっとしか入ってないサラミやジャーキー、四本入りのチーカマ、サワークリーム味のポテトチップス。わかってらっしゃる。冷蔵庫からビールを二本取り出し、コンビニの袋から取り出したビールを冷蔵庫にしまう。降谷ほど身体が大きいとこのコタツじゃちょっと小さそうだ。
 一本を降谷に渡して「かんぱーい」と手に持った缶を持ち上げると、降谷も同じように缶を持ち上げた。缶を開けたそばからあっという間にひと缶飲み干した降谷は、おかわりを催促するように手をひらひらさせる。
「降谷って仕事してるよね」
「当たり前だろ」
 降谷は何言ってんだとでも言いたげな呆れた顔で缶を傾けた。
「だって昼も働いてるし、夜も連絡したら返事くるし。いつ寝てんの?」
「適当に?」
 いつも降谷のことを聞くと曖昧な答えが返ってくる。もう慣れたけれど、まるで野良猫みたいな男だ。
 誤魔化すようにコタツの中でぶつけられた冷たい足にうわっと足を引っ込めると、嫌がるのを分かっててわざと追いかけ回してくる。
「ちょっと!」
「あったまったら寝れるかも」
 そう茶化して笑う降谷の目の下に濃く残された隈にはいつも触れないでいるけれど、まともな人間じゃ耐えられないような疲労を蓄えているのだろうに、何もないような顔してわざわざ暖房も付いてないようなボロアパートに通うこの男を、私にはどうしてやることもできない。
「……仕方ないな、今日だけだよ」
 コタツの中、冷たい足に寄り添うようにぴたりと足をひっ付けると、降谷は「今日だけか」とおかしそうに笑った。



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