- ナノ -

旅は道連れ

 二十万から十二万まで値切って手に入れたオンボロの車は、その見た目の割に低く唸りを上げるエンジンの音だけは立派な代物だった。数ある中古車の中でもこの車を選んだのはチョコレートっぽい色をしていたからという単純な理由だったけど、いざ自分のものになると案外すぐに気に入った。どうせ片道だけだからと選んだ中古のボロでも、いざ少ない荷物を積んで運転席に腰を落ち着けると多少なりとも愛着が湧く。ドアを閉めるたびに車体が派手に揺れるから、できるだけ丁寧に扱ってやらないといけない。そこそこの長旅、途中で買い替えずに済むならそれが一番だった。
 サヘルタに面したアルムールという小国の外れにある美術館は、街の大きさの割にそこそこの規模で、およそ一ヶ月後にちっぽけな近代美術展が開かれると知ったのは一昨日の夜のことだった。芸術とやらに微塵の興味もない。だけどたったひとりだけ、名前しか知らない画家をもう何年も追いかけ続けていた。世に出ている絵の中で手に入れていないのは確認した限りあと三枚だけで、そのうちの一枚が展示されると聞いたらいてもたってもいられない。たいして儲かっていない名ばかりのなんでも屋に休業中の看板を掲げ、衝動のままにオンボロの中古車を買い付けるくらいには絶対に手に入れたい品物だった。
 不意にコンコン、と軽い音が車内に響いて顔を上げる。音を辿った先に、体を屈めて窓からこちらを覗く男がいた。街の向こうの荒野から吹く風に巻き上げられた髪を鬱陶しそうにかき上げている。その姿がやけに絵になるその男は、昨晩タイミング悪く頼まれた依頼を断ったばかりの相手だった。
 この男が連絡もなしに押しかけてくるときは決まって面倒事を引き連れている。嫌な予感しかしない。適当に強い向かい風のせいで気付かなかったことにして前に向き直ると、すかさず窓ガラスを拳で叩かれて慌てて半分だけ窓を下げた。
「割れたらどうしてくれんの! ていうかなにしてんの、なんでいるの?」
「アルムールに行くんだろう?」
 投げかけた質問を飄々とした態度で流されるのはいつものことだけど、返された言葉は想像していたよりずっと最悪なものだった。
「なんで? 誰から聞いたの?」
「シャル」
 返された名前に思わず舌を打つ。シャルに情報を流してもらうのは今回で最後になりそうだ。でも今となってはもうそんなことどうだってよかった。なにが目的かは知らないけど、旅の始まりが最悪な方向に傾いたことだけははっきりとわかった。旅の途中も終わりも最悪なものにするわけにはいかない。
 さすがに車ならクロロにだって勝てるだろう。シフトレバーを切り替えるよりも早く、考えを読まれたように開いた窓から手を差し込まれて素早くロックを外された。そのまま当然のように助手席に乗り込んだクロロに、いよいよ頭を抱える。
「お前は隠し事が下手すぎるからな」
「ほんっとにありえない。なにしに来るの? 暇なの? こっちに用ないでしょ? 探してた本が手に入ったって言ってたじゃん!」
「質問はひとつずつにしろ。どうせ目的地まで長いんだろう」
 この男、本気だ。本気で着いて来ようとしている。私の目的地であってあんたの目的地は知らんと突っぱねたいけど、どうやら降りる気はないらしい。閉められたドアの勢いで車が軽く揺れる。怪訝な顔を浮かべながら「お前、故障車掴まされたんじゃないか」と失礼なことを言うクロロを睨みつける。
 こうなってはテコでも動かない男だ。こっちが降参した方が早い。それを悟ったのか、クロロは懐から一冊の本を取り出して私に表紙を向ける。
「まずはひとつ答えてやる。言ってた本ならここにある」
「……いや一番どうでもいいっていうか、それ曰く付きって言ってなかった?」
「ああ。三百年前の地下帝国に関する手記でな。読み終わると呪われるらしいぞ」
「呪われる?」
「噂ではな。一生嫌な夢を見るだとか、一生泳げなくなるだとか、一生髪が伸びないだとか」
 いつもと変わらない静かな口調から子どものお遊びみたいな言葉が出てくるとは思わなくて、不意打ちで吹き出しそうになるのをなんとか堪えた。咳払いで誤魔化してその本の表紙をちらりと見る。私の目にはなんてことない、ただの古ぼけた本にしか見えなかった。
「なんだ、しょうもない。しかも結局なんの呪いかはわからないの?」
「ああ。読み終えてからのお楽しみってわけだ。……が、」
「が?」
「読み終えた時に一番近くにいる人間を巻き込むらしい」
「馬鹿! そんなもん持ってくんな!」
「ただの噂だよ」
 言いながらクロロがその本を開いた途端、本を覆い隠すように気味の悪いオーラが漂い始めてそんなわけあるかと叫びそうになった。夢だの髪だので済むならマシなんじゃないかと思うほど禍々しい。絶対本物じゃん! クロロは一切動じることなく本を手にしたまま、運転席のドアに張り付くようにして距離を取る私を馬鹿にしたように見てくる。誰のせいだ。
「そもそもこの距離を車で移動する馬鹿はそういないぞ」
「高いところ苦手なの! 知ってるでしょ」
「それでよく今日まで生きてこられたな」
 クロロが本を閉じると、禍々しいオーラもふっと跡形もなく消えた。さっきまでのオーラが嘘のように黙りを決め込むその本を凝視する。どんな念がかけられているのかさっぱりわからないが、閉じていればそれこそただのボロくさい本にしか見えなかった。
 冷え切った空気だけが後に残る。クロロは本を手にしたまま、私を見つめるだけでなにも言わない。もう何度も目にした。私が諦めるのを待っている顔。この男がただでは引かないということも、嫌ってほどわかってる。だからいつも私が折れるんだ。
「……私、暴れるのは嫌だからね」
「知ってる」
「あと殺しもしないし、目当てのもの以外手は出さない」
「好きにすればいい」
「……クロロはなにが目的なの?」
 いつもは人に無理難題を押し付けてばかりのくせに、今日はやけに大人しい。かといって本当にただ黙ってついてくるだけとは思えない。なにを企んでいるのかと探るような視線を向けると、なにがおかしいのかふっと笑ってその呪われた本とやらを軽く持ち上げた。
「強いて言うならこの本」
「……?」
「これが本当に呪われた本なのかどうか、知りたかったんだ」
「やっぱ確信犯じゃん。今すぐ降りて」
「断る」
「私じゃなくてそこらへんの人で試せばいいじゃん……ていうか読まなければ呪われなくない?」
「中身そのものにも興味があるからな。それに、どうせ呪われるなら相手くらい自分で選ぶ」
 真っ直ぐな目に射抜かれて一瞬どきりとしたけど、呪いの中身もクロロの言葉そのものも、そこらに転がってる恋愛小説やラブソングみたいにロマンチックなものじゃない。どちらかというとただの生贄宣告だ。白けた目を向けると、クロロは考えを見透かしたように「その方が面白いしな」と付け足して嫌味に笑った。やっぱりそうじゃん。
「悪魔……」
「なんとでも言え」
 背もたれを緩く傾けたクロロが表紙を捲ると、再び嫌なオーラが本から滲み出た。ハンドルを誤って事故っても絶対謝らないと心に決めて、深いため息を吐きながらゆっくりと車を発進させる。好奇心は猫をも殺すなんて、よく言ったものだ。この男が身を滅ぼす姿は想像ができないけど。一方的に巻き込まれるんじゃ命がいくつあっても足りない。
「ちなみにこれ、依頼料取るからね」
「休業中じゃなかったのか?」
「休業っつったのに押しかけてきたのはそっちでしょ。むしろ休日出勤で割増でもいいくらいじゃない?」
「堂々とぼったくりか。悪どい商売だな」
「どの口が言ってんの? こっちは勝手に人生かけられてるんですけど?」
「あと、街を出る前に窓は閉めておけよ。砂で本が痛む」
「…………」
 わかりやすく話題を逸らしたクロロに返事をするのは癪で、黙ったまま言われた通りに窓を上げた。決してクロロに言われたからじゃない。車の中が砂だらけになるのは私だって嫌だからだ。
 吹いていた風の音がガラスの向こう側を撫でて、車内はいっそう静かになる。思い出したように懐から缶コーヒーを二本取り出したクロロは、そのうちの一本を運転席側のホルダーに置いて「交通費」とだけ言い、また本を開いたかと思うと今度こそ小指の爪より小さい文字を黙々と追いかけ始めた。本当に端から端までありえない男だ。
 街を貫く大通りは五分もしないうちに途切れて、舗装された道が終わるだろう。これほど道が荒れていればいいのにと思うドライブは初めてだった。この車なら、それこそ本を閉じたくなるくらいにはよく跳ねてくれそうだし。タイヤがダメになる方が早いか、クロロが本を閉じる方が早いか。一人きりの賭けじゃ楽しくもなんともないけど、暇つぶしくらいにはなるだろう。



 


入らなかったおまけ


「あまり揺らすな」
「しょうがないでしょ、道が悪いんだから。私のせいでも車のせいでもない」
「車のせいではあるだろ。……本が読めない」
「読むなそんなもん。あ、ほら! ちょうど池あるじゃん。貸して、捨てるから。それか降りて」
「次の街まで待て。せめて代わりを見つけてからだ」
「次の街がどれだけ先だと思ってんの? それまでに読み終わったらどうすんの!?」
「その時はその時だな」
「なるか! 貸せ!」
「おい、馬鹿、前」



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