- ナノ -

こんな夜なら

「酷い仏頂面だな」
 挨拶にしてはずいぶんな言葉をかけられて、断りもなく隣に人が座る気配がする。覚えのある声とオーラにただでさえ良くない気分が余計に鬱々としたものに変わった。
「分かってるならどっか行ってよ」
「愚痴でも聞いてやろうと思ったのに」
「余計なお世話。あんたに話すくらいならそこらへんの男でも引っかけるっての」
 知らない男だったら気晴らしに遊ぼうと思ってわざわざこんなところで飲んでたのに、釣れたのがこの世で最も面倒で相手にしたくない男とか。マスターに「軽いものを」と注文をつけたクロロに眉を寄せる。嫌な態度を前面に出しているのに、相変わらず空気のひとつも読んでくれない。
「そんなむくれた顔でその辺の男が寄ってくるわけないだろう」
「うるさいなぁもう……ていうかなんでいるの? オチマの僻地にいるって聞いてたんだけど」
「誰に?」
「シャルに」
 先に質問したのはこっちなのに、質問を上書きされてため息を吐く。夜更けも只中、革張りのソファで酔い潰れているおじさんから聞こえてくるいびきが色気のかけらもないBGMになっていた。繁華街の外れにある寂れたバーに引っ掛けられるような男が来るわけもない。苛立ちに任せて目についた店に入ったはいいものの、どうやら店選びを間違えたようだった。
「お前たちが気が合うとは思ってなかった」
「シャルはクロロと違って上辺だけでも気持ちに寄り添ってくれるからね。気が楽なの」
「その方がいいならそうしてやろうか」
「……シャルみたいなクロロはなんか気持ち悪いからそのままでいい」
 クロロの前に置かれたグラスに添えられたライムを見て顔を顰めた。本当なら今日私のものになるはずだった、世界でいちばんの輝きを誇るというペリドットを彷彿とさせてまたふつふつと苛立ちが湧いてくる。
「で、なに? そのことで釘でも刺しにきたの?」
「釘?」
「シャルと関わりすぎるなって言いたいんじゃないの? 別にシャル個人とビジネスパートナーなだけで、そっちとは全く関係ないところで勝手にやってるだけだから。忙しそうなときは遠慮してるし」
 言うなればただの友達だと言い訳じみた言葉を並べたてる。クロロになにかを言われる筋合いはないと牽制をかけたつもりだったのに、見当違いだとでも言いたげに首を緩く振られた。
「言っただろう。ただ愚痴でも聞いてやろうと思っただけだよ」
「まさか、本当にそのためだけに来たの?」
 ふざけている様子にも見えない。また適当なことを言ってるのかとじっとその目を見つめ返してみたものの、その深い瞳の奥からはなにも読み取れなかった。
「……もしかして、なんか狙ってる? クロロが欲しがるようなものなんて何も持ってないけど」
「お前はオレをなんだと思ってるんだ」
 なにって。私の知るクロロという男は、少なくとも身内でもない女のだらだらとした愚痴をただ聞くような男じゃない。そこまで考えて、難しいことを考えるのはやめにした。どうせ答え合わせができるわけでもない。
 こんなところで飲む気分じゃなくなった。やっすい酒と、なんか適当にジャンキーなものが欲しい。口当たりも風味もなにもない、やたら味が濃いだけのつまみとか。
 三分の一ほどお酒が残ったグラスを傾けて喉に流し込むと、カウンターにお金を置いて背の高いチェアから降りる。マスターが浅く頭を下げるのを横目で見ながら、着いてくる気配のないクロロを振り返った。
「なにやってんの。愚痴、付き合ってくれるんでしょ?」
 だらだら喋るならここは向いてない。ぱち、と目を瞬かせたクロロを放ってさっさと店を出る。着いてこないならそれはそれでよかった。どうせあの店じゃ酔い潰れたおじさんも寡黙なマスターも話し相手にはなってくれないし、他の相手も捕まらなさそうだし。鬱陶しいヒールを打ち鳴らしながら歩いていると、すぐに後ろから追いついてきたクロロが横に並ぶ。
「言っておくけど、付き合うって言ったからには朝まで寝かせないからね」
「熱いな」
「はぁ? しょうもないこと言わないでよ。ただでさえイライラしてるんだから」
 繁華街と住宅街の狭間、静まり返った夜の街に、ヒールがぶつかる甲高い音がうるさく響く。
「で、なにがあったって?」
 本当に愚痴に付き合うつもりがあるらしいクロロをぎょっとした目で見上げた。いったいどんな気まぐれだろう。黙って私の言葉を待つクロロに諦めてため息を吐く。
「絶対からかわないでよ」
「多分な」
「ペリドットが欲しかったの。でも偽物で、挙げ句の果てにこんな出まかせに釣られるなんて見かけによらず頭が弱いんだねって、……思い出したらまたむかついてきた!」
 買った情報は確かに驚くほど格安だったけど。心の底から信じていたわけじゃないけど! クロロは納得したようにああ、と相槌を打った。
「どうせろくに調べなかったんだろう。シャルに頼まなかったのか?」
「今回は誰かさんからの頼まれごとで忙しそうだったから遠慮したの!」
「ああ、それで。運が悪かったな」
「それだけ? 慰めのひとつやふたつ吐けないの?」
「さっきお前が自分で断ったんだろう」
 淡々と返されて肩を落とす。確かに自分で言ったけど。この男が相手じゃ愚痴を聞いてもらうどころか余計に疲れそうな気がする。シャルのあの相槌のうまさを思い出してちょっとだけ恋しくなった。
「……じゃあもう黙って聞いてて」
「わかったわかった」
「面倒くさそうにするなバカ!」
 行き先の相談もしないまま、なんとなく夜の空を薄く照らす方へただ歩く。途中で缶ビールでも買ってアルコールで頭を浸せば、そのうちこの男の嫌味もただの相槌に聞こえるようになるだろうか。しょうもない愚痴ならまだまだ掃いて捨てるほどあった。
 明かりの先、夜も眠らぬ街の中心部まで何キロあるのだろう。歩くには少し遠いけど、どうせ夜は呆れるほど長い。確かにこんな夜なら、ちょっとくらい捻くれた男と話してる方が飽きないのかもしれない。



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