- ナノ -

14時27分

 今日もいる。マスターに変わってお店に立ったときに目に入る、窓際の一番端の席。道沿いの大きな窓に沿った二人掛けのテーブル席に座るその人は、いつも本を読んでいた。週に一回から二回来店し、かと思えば数週間から一ヶ月以上顔を見せないこともある。ブレンド以外は頼まない。お代わりはいつも一回。ときどき、本当にごくたまに、二回目のお代わりを頼まれるときがある。その人はいつも通り一回だけお代わりをして、窓から夕陽が差し込みそうになる頃に店を出て行った。
 祖父の昔馴染みだと紹介された寡黙なマスターは、どうして喫茶店なんて始めたのかと疑うほど人付き合いが苦手で、私がこの店を手伝うようになってからはほとんど接客にでることはなくなった。
 無愛想にみえるけど悪い人じゃなくて、少し遅めのランチタイムにはいつも私の大好きなベーコンエッグサンドを具材たっぷりで作ってくれたり、カルボナーラに卵黄をのせてチーズをたくさんかけてくれる。暑い日にはクーラーの風が届くようにサーキュレーターをカウンターの中に向けて置いてくれるし、夜遅くなった日には必ず家まで車で送り届けてくれた。わかりやすい言葉や態度にはしないけど、マスターのそういう細やかで不器用なやさしさを気にいる人が通う店だった。


 朝からぱらぱらと降り続けていた雨は、昼過ぎにはいよいよ本降りになった。いつにも増してお客さんが少なくて、マスターも早めにランチタイムを切り上げて奥に引っ込んだ。私のためにホイップを乗せたホットココアを用意して。
 カウンターの内側から、窓に斜めに線を描く大きな雨粒をぼうっと見つめる。この調子なら窓の汚れもぜんぶ流してくれそうだ。そういえば傘立てを出してなかったな、と店の奥から四箇所しか仕切りのない小さな傘立てを引っ張り出す。鉄製で意外と重たいそれを半ば引きずりながら外に運んで、店内に雨が入らないようにドアを閉めた。
 風に煽られた雨粒がドアの上の浅い庇を飛び越えて、体や頬に冷たい雫がかかる。その冷たさを我慢しながら、ドアを開けても邪魔にならないところに傘立てを置いた。ふと影がかかって、体に当たる雨の感覚がなくなる。
「こんにちは」
「あ。いらっしゃいませ」
 大きな傘を私に傾けて雨を遮ったのは、いつも端の席に座って本を読むその人だった。ドアを開けて中に促してくれるその人に軽く頭を下げて、ドアを押さえたまま待つ。傘立てに差し込まれたひとつの黒い傘の先から、落としきれなかった水滴が道路の方に流れていった。
「マスターは?」
「奥にいますよ。呼びますか?」
「なんとなく聞いただけだからいいよ。ブレンドをひとつ」
「かしこまりました」
 カウンターの中に戻って準備を進めようとしたところで、いつもの窓際の席に座ると思っていたその人がカウンター席に座った。あれ、と目を瞬かせていると、その人は「どうかした?」と口の端を薄く持ち上げる。
「いえ……いつもの席じゃなくていいんですか?」
「たまにはね。ここだと邪魔?」
「まさか! すぐにご用意しますね」
「ゆっくりでいいよ」
 コーヒーを淹れている間、その人は私の動きを追うようにじっと見ていた。いつものように本を読むのかと思っていたのに、なんだか試されているようで手が震えそうになる。マスターほど手際が良くないからあまり見ないでほしかったけど、お客さんにそっぽを向いていてほしいとお願いできるわけもない。結局その人の前にカップを置くまで、本はテーブルの上に置かれたまま開かれなかった。
「お待たせしました」
「ありがとう。もうすっかり慣れたね」
 続けて投げられた言葉に驚いて顔を上げる。こぢんまりとした喫茶店に来る人には、大まかにわけても二通りの人がいる。マスターや私みたいな店員とおしゃべりするのが好きな人と、ひとりの時間をゆっくり楽しみたい人。
 寡黙なマスターの喫茶店に通う人はほとんどが後者で、このお客さんも例に漏れずひとりの時間を楽しみたいタイプだと思っていた。実際、いつもは注文や会計のときに一言二言事務的なやりとりを交わすだけで、今日ほど会話が続いた日はない。
 雨の日だからか誰もいないからか、今日は人と話したい気分なのかもしれない。誰にでもそういう日はある。もちろん私にも。
「マスターにはまだまだって言われます」
「そう? 最初に見た時は確か、転んで皿ごとひっくり返ってたから」
「……わ、忘れてください……」
 忘れもしない、まだ折り目が残るエプロンを身につけた二日目のランチタイム。今考えても珍しいほどの混雑のさなか、両手にテーブルから下げたお皿やカップを持ったまま、カウンターに入る前の段差に引っかかって大コケした。いくら慌てふためいていたからといってあれはない。本当にない。思い出すだけで嫌な汗が出てくる。
 私の顔を見たその人はくつくつと楽しそうに肩を揺らしていて、どうやら軽くからかったつもりらしい。こっちは本気も本気だ。できることなら一刻も早く記憶から消し去ってほしい。話題を逸らそうと視線を泳がせて、目に止まったテーブルの上の本を指差す。
「本、今日はいいんですか?」
「ああ。お喋りに付き合ってくれると嬉しいんだけど」
 君が良ければ、と付け加えたその人に断る理由もなく頷く。他にお客さんもいないし、マスターも当分裏にいるだろう。窓の外は雨が絶えず降り続けていて、まだ止みそうにない。
「あのマスター、堅物だろう? どう上手くやってるの?」
「うーん。どう、というか……ああ見えてすごくやさしいんですよ」
 カウンターの内側に置いていたココアの入ったマグカップを持ち上げてみせると、その人はへえ、と意外そうな表情を浮かべた。
「マスターと以前から知り合いなんですか?」
「いや。どうして?」
「たまに昔の知り合いだって人がいらっしゃるので、お客さんもそうなのかなと……」
「クロロ」
 遮られた言葉に目を瞬かせる。脈絡のない単語に言葉を詰まらせる私に、クロロさんが浅く笑った。
「名前。お客さんじゃなくてクロロでいいよ」
「え」
 頬杖をついたままじっと見つめられて、夜のように深いその目から逃げるようにそろりと視線を外す。なにぶん見目がいいせいか、ただ見つめられるだけでも心臓に悪い。
「……えっと、クロロさん」
「うん」
「その、マスターとは」
「ああ。知り合いではないよ。あのジイさん、巷ではそこそこ有名なんだ。だから一方的に知ってはいたかな」
 マスターが巷で有名だなんて、初めて聞いた。確かにマスターのブレンドコーヒーはこの店で一番の人気だし、知る人ぞ知るって感じでも不思議ではない。
「この店に来る客にはルールがあるんだ」
「ルール?」
「そう。マスターが決めたルール。ほとんどの人には関係ないんだけどね」
「それも初めて聞きました。私には関係ありますか?」
「半分あるし、半分ない」
 謎かけのような返答に思わず黙り込む。半分あって半分ないって、そんな条件ありえるのだろうか。そもそも店のどこにもそんなルールが書かれたものはないし、マスターからも聞いたことがない。からかわれただけだろうか。
 不意にクロロさんの視線が私の横にふっとずれて、それを追うように振り返る。そこには裏から顔を覗かせたマスターがいつにも増して眉間に濃く皺を作っていて、サボっているように見えたのかと少し慌てた。
「随分気に入ってくれたな」
 クロロさんを真っ直ぐ見つめるマスターの口から出た言葉は、私を咎めるものではなかった。あの人嫌いで無愛想なマスターからお客さんに話しかけるなんて、と初めて見る光景にぽかんと間抜けな顔を晒していると、クロロさんが私を見てふっと笑った。
 それを見たマスターは顔を顰めたかと思うとぐいぐいと私の頭を押さえつけて、されるがままにカウンターの内側にしゃがみ込む。隠すようなその動きに下からマスターの顔を見上げたけれど、その顔は険しいままカウンターの向こうを睨みつけるように見ていた。
「これは預かりもんだ。ただの客としてなら何も言わんが、そうじゃないなら話は別だね。お前さんみたいなのにはやれんよ」
「預かりものね。そう言われると余計に興味が湧くな」
 クロロさんはさっき、マスターのことを一方的に知っていると言っていた。その割にマスターもクロロさんを知っているような口振りで、こんがらがった頭の中がさらに雁字搦めになる。いったいぜんたいどういうことだ。二人とも一から説明してくれるような雰囲気ではなく、大人しく口を閉ざして邪魔をしないよう努めることしかできない。
「……チッ、今日はもう終わりだ」
「え?」
「俺が家まで送る。締めの準備しな、掃除は明日でいい」
 有無を言わせぬ言葉の強さにひとつだけ頷いて閉店の準備をする。こんなに明るいうちから店を閉めるのは初めてのことだ。今日は初めてのことが多くてなんだか得した気分になる。傘立てを仕舞うために外に出ると、もう雨はほとんど止んでいた。横から伸びてきた手が黒い傘を取り上げて、一本だけ刺さっていた傘立てが空になる。
「勘のいいジイさんだね」
「はい、いつも仕込みの量もぴったりなんです。廃棄ゼロ! 環境にやさしいでしょう?」
「ふ、そうだね」
 薄く笑ったクロロさんに釣られて頬を緩める。こんなにとっつきやすい人なら、もっと早く話してみたらよかった。
「またルールが増えるな」
「さっき言ってた、あの?」
「そう。あのジイさん、毎回面倒なルールばかり増やすんだ」
「面倒なんですか」
「ああ。しかも破ると強制退店」
 そんなことがありえるのか。そこそこ長くお世話になっているけど、もちろんそんな場面は見たことない。面倒だと言ったクロロさんの言葉がなんとなく心に刺さって、クロロさんを見上げる。視線に気付いたクロロさんが傘を開こうとした手を止めて私を見下ろした。
「……もう、来られませんか?」
 ふと溢した言葉は自分で思っていたよりもずっと落ち込んだような声になってしまって、慌てて口を噤む。これじゃまるで営業みたいだ。そういうのがないのがこのお店のいいところなのに。
 でも、お店を気に入っていると言ってくれたお客さんの足が遠のくのは、少し寂しい。寡黙なお客さんばかりだから、久しぶりにお客さんと話せて楽しかったのもある。せっかく少し打ち解けたと思ったからなおさらだった。名前も教えてもらったばかりなのに。
「おい! 早く締めるぞ!」
「あ……はい! 今行きます!」
 店の中からマスターの声が飛んできて、慌てて傘立てを持ち上げる。軽く頭を下げて店のドアに手をかけた時、静かな雨の音に紛れて確かに聞こえた。
「また来るよ」
「……! はい、お待ちしてます!」
 黒い傘に隠れた背中を見送る。言葉通り、もしまた来てくれたら。そのときは半分以上残ってしまった今日のコーヒーの代わりに、一杯だけコーヒーをサービスしよう。奥の方の空は雲の隙間から陽が覗き始めていた。隣町あたりはもう雨が止んでいるかもしれない。弱まった雨が傘にぶつかる軽い音が、ゆっくりと遠ざかっていく。



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