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短い夏の秘密


 けたたましい蝉の鳴き声に紛れて、微かに水の流れる音と鳥の囀る声がする。向日葵の畑を抜けた先にある小川で、きっと水鳥のヒナが鳴いているのだろう。この時期になると巣から顔を出した鳥たちが水浴びを始めるから。
 海も山も、空さえもやけに広く感じるこの場所は、夏の間の数日間だけ帰ってくる今は亡き父の実家のある場所だった。五年ほど前に両親が事故で亡くなるまで家族三人で住んでいた。
 家の裏に広がる竹林、何もない砂利道を抜けた先にあるひまわり畑、自転車を漕げば十分もしないところにある静かなビーチ。四秒ごとに打ち付ける波の音をひとりじめするのが大好きだった。ここでは太陽の光や水の色さえ違うような気さえする。そう感じるのはきっと大好きで特別な場所だからだった。
「お、なんだ! 今年はもう帰ってたんかい。いつもより少し早いじゃねーか」
 背の低い生垣の先からひょこりと顔を出したおじいちゃんに立ち上がって駆け寄る。いつも人がいないこの家を好意で掃除をしに来てくれる近所の人で、両親が生きていた頃からすごくお世話になっている人だった。
「おじいちゃん! いつもお掃除ありがとう。お土産、荷物かたしたらあとで持って行くから!」
「楽しみにしとるよ! ああ、そういえば今年ももう来とるみたいだからあとで会いに行っておいで」
「大丈夫だよ、ここにいる間は嫌ってほど会うから!」
「僕と会うのがそんなに嫌か?」
 後ろから聞こえてきた声にあっ、と顔を顰めた私を見ておじいちゃんがおかしそうにからからと笑った。太陽の光に透ける眩しい髪が夏の風に攫われている。腕を組んでわざとらしく眉を上げてみせる男の人。
「……ま、まさかぁ! 今年も降谷さんに会えて嬉しいなぁ!」
「わざとらしい」
「い、いたい……いたいです……」
 頬を摘まれて抗議の声を上げると、満足したのか手が離れていく。力加減をしてくれていたおかげでちっとも痛くなかったけれど。全く、と呆れたように私を見下ろす彼はいつ見ても綺麗な顔立ちをしている。
 いい男はいくつになってもいい男って本当なのだろうか。降谷さんがおじいちゃんになってもよぼよぼな姿は想像できない。
「降谷さんはいつ着いてたの?」
「ついさっきだよ。いつもの空き地に車を停めさせてもらってるんだ」
「今年もうちで過ごすでしょ?」
「なまえがいいなら」
 このやり取りも慣れたものだ。私が嫌って言う訳ないって分かってるくせに、必ず窺うように確認をする。そんな気の遣われ方したってもやもやするだけなのに。
「いいに決まってるじゃん。ほら、早く荷物持ってきなよ」
「……ありがとう。いつも通り、あとで挨拶させてくれよ」
「わかってるって。とりあえず荷物荷物!」
 分かった分かった、と呆れたように笑う降谷さんが髪をぐしゃぐしゃにして車に向かう。まったく、いつまで経っても子ども扱いだ。むすっとした表情を白いシャツの背中にぶつけると、背中に目がついているのか疑うよなタイミングで降谷さんが振り返る。ジトッとした目付きに慌てて家の中に駆け込むと、道の少し先で笑う声がした。
 大好きで大切な夏のひと時。今年も一年で一番短い夏が始まる。


 仏壇の前はいつも空気が澄んでいるような気がする。鼻の奥につんと刺さる畳のにおいと、窓の外から香る雑草と太陽のにおい。それにお線香の繊細な香りが混じる。私は手を合わせて目を閉じる、いつもよりほんの少し丸まった降谷さんの背中をじっと見つめていた。
「……よし。ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
 両親は数年前に交通事故で亡くなった。警察官だった父は、降谷さんの上司にあたる人だったらしい。あまり自分のことを話したがらない降谷さんから一度だけ聞いたことがある、父と降谷さんの話。
 あまり健康的とは言えない生活の中、たまに引きずられるようにして連れて来られたこの家で母の手料理を振る舞ってもらったこと。携帯の待ち受け画面は私と母の写真だったこと。深夜、家に帰ったときに寝ている私の顔を見るのが楽しみだったこと。
 仕事のことしか考えてないのかと思っていた父の意外な一面。家族だったはずなのに、私は父のことをあまり知らないままもう二度と会えなくなってしまった。ありがとうも大好きも、一度も伝えたことがないのに。毎年仏壇の前で手を合わせながら、ただいまと行ってきますだけを伝える。
「お昼、素麺でいい?」
「ああ。さっきおじさんから野菜もらったから天ぷらも作ろうか」
「やった!」
 たんすに仕舞っていた金魚の泳ぐ風鈴を縁側の近くに吊るすと、軽い鈴の音が夏のにおいと共に風を運んできてくれる。てきぱきと昼食の準備を始める降谷さんの傍に寄って「何したらいい?」と声を掛けると、渋い目で私を見て「机拭いておいてくれ」と言った。
 五年ほど前にじゃがいもやにんじんををむくのにほとんど身を残さなかったことや、自分の指ごと鍋に麺を突っ込んだことをまだ根に持っているのだろうか。立派に大人の仲間入りを果たした今でも私にろくな手伝いをさせてくれないのもいつものことだった。
 木の目が美しい机を綺麗に拭き上げて、押し入れの奥から二人分の座布団を引っ張り出す。お箸と涼し気なガラスの器を机に並べて、油が跳ねる音を聞きながら洗い物を済ませる。
「いつの間にそんな気が利くように……」
「もう子どもじゃないってば!」
 いつまで子ども扱いすれば気が済むんだと呆れてみせても、降谷さんははいはいと適当に返事をして頭をぐしゃぐしゃとかきまわすように撫でてくるばかりだ。


 蚊取り線香のにおいが香り、一筋の細い煙が月明かりにゆらゆらと踊っていた。広間に二人分の布団が隙間を開けて並んでいる。フローラルなにおいがするブランケットに足を絡めるとひんやりして気持ちがいい。昼間はからっとした暑さに汗がにじむけれど、夜になると扇風機がなくても充分涼しいくらいのひんやりとした風が吹き込んでくる。
「仕事は順調なのか?」
「……ふふ、降谷さん私の親みたい」
 夜に目が慣れてきて、少し不満そうな降谷さんの顔がぼんやりと暗闇に浮かぶ。そんな顔しなくたっていいのに。誤魔化すように「今年は何か変わったことはないか≠チて聞かないの?」と言うと、降谷さんは少し驚いたように目を丸くさせて、何かを思い出すようにふっと笑った。
「そっちはもういいんだ。心配の種がなくなったから」
「ふーん……? よかったね?」
「ああ。仕事もだいぶ楽になった」
「それにしては相変わらずの隈だけど……ほら、」
 畳の隙間を跨いで降谷さんに近付く。少し目にかかっている前髪を指で流して、目の下の跡を指の腹で撫でた。
 降谷さんの目に月が映り込んでいるのに気付いて、あっと声を上げそうになった瞬間、降谷さんに触れていた方の手首を強く掴まれる。
「……そうやってあんまり無防備に他の男に近付くなよ」
「え……してないよ? そんなこと」
 そうか、と複雑そうな顔でパッと手を離した降谷さんはそのまま身体を反対側に向けてしまった。掴まれていた腕が少しひりつく。自意識過剰かもしれないけれど、降谷さんは少しぶっきらぼうながらも私のことを丁寧に扱っていた。今までこんなことなかったのに。
 自分の心臓の音がうるさくて、降谷さんに聞こえてしまうんじゃないかとヒヤヒヤする。降谷さんの考えていることは相変わらずよく分からない。
 空いた布団の隙間分、降谷さんの心に入り込めたらいいのに。自分の布団から手を伸ばしても、畳の上を虚しく掠る。静かな夜に聞こえてくるのは裏手にある竹林の葉達がうたう音だけだった。

 
 * * *


 好きな人や大切な人は、いつだって明日も当たり前のように生きている気がしていた。
 薄いガラスの上に立っているような焦燥感、鑢で心を削られるような毎日。信頼していた上司も、未来を語り合った友も、大事な人ばかりが次々といなくなっていく。
 上司の忘れ形見だと記された一人娘の少女。呆然とした顔のまま、たった一人で遺影を抱えている姿が忘れられなかった。
 制服を身に纏うあどけない少女だった彼女はいつの間にか大人になって、それでも変わらないひまわりのような笑顔で夏に顔を出す僕を迎えてくれた。ひとりよがりな責任感。あれがただの事故じゃないなんてとっくに分かっていた。彼女を守るために訪れていた夏のひと時が、いつの間にか僕が救われる為のひと時に変わっていた。
 手を触れられないほど昔の話だ。どんな人生を辿ろうと、いつかはみんな枯葉のように朽ちていく。疲れ果てていたあの頃の僕が無意識に吐いた言葉がどんなものだったかも思い出せないのに、まだ幼さを宿した彼女がきょとんとした顔で返した言葉だけは鮮明に覚えている。
「そうだね。でも、その最期が誰かに想われてたのかそうじゃないのかって、結構大切だったりするんじゃない?」
「…………、」
「あとは死んでも誰かの記憶に残ることとか……私は誰かに忘れられちゃう方が怖いから」
 割れたスマートフォン、鼻につく錆びたにおい、目の裏に焼き付く鮮明な赤。毎日夢に見る、あの夜のこと。幸せだった頃の思い出の夢を見ても最後は赤に塗り潰される。眠ることに怯えていた。目を閉じるのが怖かった。
 自分の最期を考えない時はない。本望じゃない、それでも沢山人を傷つけて生きていた。自分は人を信じないくせに、どんなに惨たらしい最期になっても自分を想ってくれる人がいることを信じていたかった。
「そんなこと、考えたこともなかった。降谷さんはやさしすぎるからなぁ」
「僕が?」
 彼女の言葉に吐き捨てるように呟く。珍しい態度に驚いたのか、彼女はきょとんと目を丸くさせて僕を見つめた。慌てて誤魔化すように「まさか」と笑ってみせる。
「やさしい人からは程遠い。僕は人を傷つけることしかしてこなかったから」
「違うよ!」
 彼女のはっきりとした声に驚く。彼女は少し怒ったような表情で、まっすぐ僕を見上げていた。
「降谷さんが人を傷つけたとか、私はここで過ごす降谷さんしか知らないからわからないけど。でも……人の傷つけ方を知ってるから、誰よりもやさしいんだよ」
 彼女があのひまわりのような笑顔を僕に向けるたびに救われたような気持ちになることを、きっと彼女は知らないんだろう。
「勝手にどこかにいなくなっちゃわないように、毎年夏にここに来てよ。もし来ない年があったら、私が探しに行くから!」
 冷え切った僕の手に、彼女の温かい手が触れる。氷を溶かすみたいだ。彼女の熱がじわりじわりと心の奥に陽を差す。
 救われていた。彼女の存在に。永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない、一年にたった一度だけの短い夏のひと時は、僕にとってなによりもかけがえのないものだった。




 毎日気が付いたら朝が過ぎて、また気が付くと夜になっている。

 線香のにおいが鼻をつく。制服のスカートをじっと見つめて、なに言ってるのかわからないお経の声をぼうっと聞く。あの縦長の箱の中に、私のお父さんとお母さんが入っている。
 誰もいない真っ暗な家、ちょっとお父さんと出かけてくるね≠ニ書かれた置き手紙、冷蔵庫に入った冷たいオムライス、時計の音だけが響く静かな空間。警察の人からの電話も、初めて乗ったタクシーも、アルコールのにおいが鼻につく真っ白な廊下も、台の上に並んだ二人の青白い顔も、きっと全部悪い夢だった。
 まっすぐ立てているのかもわからない。足元ががふらつかないように身体を動かす度に、油を差し忘れたロボットのようにぎしぎしと軋む音がするような気がする。年に一度、会うか会わないかもわからないような親戚の人がお葬式の準備をしてくれた。こういう時は大人に任せなさい、と声を掛けてくれたけど、会ったこともない人に両親の最期を任せるのがなんだか嫌で、結局うまく動かない身体で近くをうろついていた。
「そうなのよ、それが結構な額で……」
「本当に? 見間違いじゃなくて?」
「本当よ! ちゃんと何度も確認したんだから!」
 夜も遅い時間、お手洗いに行って自分の部屋に戻る途中に広間の横を過ぎようとしたら聞こえてきたおばさんたちの声。僅かに開いた襖の隙間から広間を覗き込むと、葬式の準備をしてくれた親戚のおばさんとおじさん達が集まって何かを話していた。
「共働きで、しかもお父さんは警察官でしょう? そりゃ保険金と合わせて数千万はくだらないはずよ」
「生きてるときは好き勝手して親孝行もしなかったあの子たちが、死んだ後にこんな親孝行してくれるなんてねえ……」
「でも今まで会ったこともなかった子どもがそんな素直にはいはいってついてくるものなの?」
「ついてくるわよ、だってどうせ子どもひとりじゃ何もできないんだから……大人の力はどうしたって必要でしょう?」
「それじゃあ誰のところに行っても恨みっこなしでいきましょうか」
 気味の悪い笑い声。真っ黒な喪服に包まれた丸まった背中。煙草の煙で咳き込みそうになるのを堪える。見つかったら駄目な時だと本能で察する。吊り上がった目と口が化け物に見えた。息を止めて、足音を立てないように早足で部屋に戻る。布団に潜り込んでも耳を塞いでも、ずっと耳障りな声がまとわりついて離れない。

 あの日からずっと、夜が大嫌いだった。静かな夜は自分の心がうるさくて仕方がないから。


 布団の隙間から差し込んだ朝日で目が覚めた。昨晩の震えは寝たら治っていた。明るい太陽の光にほっと息を吐く。今日さえ我慢すれば、この家から誰もいなくなる。そうすれば、きっとしばらく顔を合わせないで済むだろう。
 皆が集まる朝食の時間、言い辛そうにおばさんが口を開く。それすらわざとらしく感じて仕方がない。
「それでね、これからのことを大人達で話したんだけどね。なまえちゃんはまだ保護者が必要な年でしょう? なまえちゃんががいいなら是非うちに来ない?」
「おい!」
 話が違うじゃないか、と声を上げたおじさんにおばさんが嫌そうな顔をする。自分の欲しか見えていない大人達の顔に嫌気がさして、自分の手の甲を見つめていた。
「私は大丈夫です、ひとりでも。この家に居たいから」
「そうは言っても子どもひとりじゃ何もできないのよ、生活もお金の管理も……」
「ほら、うちなら同じ年頃の子どもがいるし。何かあった時に安心して話せる相手は必要でしょう?」
「それを言うならうちだってそうよ、むしろあなたのところは男の子ばっかりで逆に不安よねえ? うちなら姉妹だけだから気が合うんじゃない?」
 これ以上この家を踏み荒らさないでほしいだけなのに。猫撫で声で私に語りかけていたはずなのに、いつの間にか大人同士の言い合いになっていた。寄って集って滑稽だ。大人になるっていうのがこういうことなら、私は一生大人になんかなりたくない。畳の縁を睨みつけて視界が揺らぐのを堪えることしかできないのが、こんなにも悔しいなんて。
「こんなに小さな子どもが言いたいことと言っていいことの分別をつけて堪えているのに、それでもあなた達は大人なのか?」
 凛とした男の人の声が広間に飛び込んできた。突然話に割り込んできた男の人に唖然としていたおじさんがハッとして「だ……誰だ君は! 親族の集まりの場だ、無礼だぞ!」と声を荒げると、男の人は呆れたように鼻で笑う。
「あなた達がしていることが彼女への無礼ではないと?」
 おばさんやおじさんがぐっと言葉を詰まらせた。男の人はそのまま畳み掛けるように言葉を連ねる。その人は静かに、だけど確かに激しく怒っていた。
「あなた達がしきりに言っている子どもは大人がいないと何もできない≠チていうのは、子どもを扱いやすくする為に大人が作ったくだらないしきたりだ。そんなくだらないもので大人の欲に潰される子どもを黙って見ているほど、僕は落ちぶれちゃいない」
 顔を上げたらおばさんやおじさんに泣いていることがバレてしまう。俯いたまま握りしめた手の甲を見ていると、その手に影がかかった。恐る恐る顔を上げると、綺麗な青い目が私を捉える。
「言ってやれ、なまえ。大人だって、馬鹿じゃこんな当たり前のことさえ言わないと分からないんだ」
 ちゃんと私のことを見つめてくれる青い瞳がやさしく細められる。そうだ、お父さんもお母さんもあんな大人じゃなかった。この人みたいに、まっすぐであたたかい。それだけで充分なくらい救われたのに、男の人は私がひとりで立ち向かえるように背中を支えてくれていた。
「帰って、」
 絶対泣いてやるもんか、と堪えていたはずの涙は、口を開いた瞬間堰を切ったようにぼろぼろと零れ落ちた。頬を伝う間もなく畳に大きな染みを次々に作っていく。
 病院からのたったひとりだった帰り道も、立っているのがやっとなのに誰も背中を支えてくれなかったお葬式の間も、思い出しか残らなくなってしまったこの家を汚い心でずたずたにして荒らされていた間も、ずっとずっと我慢してた。
「もう二度とここに来ないで! お父さんとお母さんのことなんて……私のことなんてちっとも見てないくせに! あんた達なんか……っ! もう二度と会いたくない!」
 言いたいことなんか山ほどある。だけどそれを小一時間この人達に怒鳴り散らしたって、きっとその十分の一も理解されない。それならもうどうだってよかった。この人達さえ視界に入らなければ、もうなんだっていい。
 阿呆みたいに口を開けた大人たちが並ぶ姿が面白かったのか、その綺麗な顔をした男の人は肩を震わせて笑っていた。
 この日から、私に再び朝と夜が訪れるようになる。



 蝉の鳴き声が遠くから聞こえる。薄らと目を開けてその眩しさに思わず手で影を作った。日向が畳のすぐそこまで来ている、道理で寝苦しいわけだ。手探りで掴んだスマホを掲げて時間を確認するともう十時を過ぎている。しかも充電し忘れてあと三十パーセントしかない。最悪だ、と日を遮るようにブランケットを頭からかぶる。
 そこで隣で寝ていたはずの降谷さんの気配がしないことに驚いて振り向くと、部屋の端に畳まれた布団が置かれていた。ご飯の匂いがするわけでもない。家の中から生活音はひとつも聞こえない。
 いつだったか、降谷さんがひやりとするような冷たい目で、何もかもを諦めたような顔でここに訪れた夏があった。心臓が締め付けられるように早鐘を打つ。明朝に少し雨が降ったのか、乾きかけた土に大きい足跡が残っている。その足跡を追いかけて飛び出すように家を出た。
 

 ひまわりは底なしの太陽のにおいがする。海の近くだからか、肌を撫でる風は少し湿気を含んでいる気がした。
 一心に空を見上げるひまわりの間から、太陽の光にあてられてきらめくブロンドの髪が覗いていた。
「降谷さん!」
「おそよう」
 そう言って意地悪に笑った降谷さんが手に持っていた帽子を私の頭に被せる。私が日が照りだすこの時間に起きるのも、慌てた私が身一つで降谷さんを追いかけてくるのも、降谷さんにはなんでもお見通しなんだろう。
「びっくりさせないでよ、起きたらどこにもいないから……私のことも起こしてくれたらいいのに!」
「気持ちよさそうに寝てたから。それに起きたの四時だぞ」
「……起こさないでくれてありがとう」
 降谷さんが口元を手で押さえながら堪えきれていない笑いをこぼす。降谷さんは淡い水色の水筒を取り出して私に差し出した。冷たい麦茶が入っている。本当に準備がいいな、と降谷さんを見ると、太陽を見上げるひまわりを眩しそうに見ていた。
「ここ、こんなに広くなったんだな」
「いつの間にかね! もう一、二週間したら見に来る人もそれなりにいるみたい」
「海にも行ってきたんだ。ここの海はいつ来ても綺麗なままだな」
「うん、観光地ってわけじゃないしね。私はこのまま見つからないでいてくれた方が嬉しいな」
「それに関しては僕もそうだな。でも年配の方ばかりだから外の人の目が届きにくいのは不安もある」
 降谷さんはひまわりの隙間を縫うように続く細道をゆっくりと歩く。後ろをついて歩く私をたまに振り向いて確認してくれる。降谷さんのこういうところが大好きだった。今日は少し風が強い。風の音にかき消されそうな声で降谷さんが「本当は今年、ここに来るかどうか迷ったんだ」と呟いた。驚いて足を止めた私に気付いた降谷さんが振り向く。
「……なんで、」
「僕が警察なのは知ってるだろ?」
「うん。お父さんの部下だった、って」
 お父さんが警察官だったことは知っていたけど、どんな仕事をしていたのかは全く聞いていなかった。降谷さんがお父さんの部下だったことと、あまり家に帰ってこれないくらい忙しかったこと。
「長く勤めてた件が片付いたし、ひとつの区切りとして色々なことを清算しようと思ったんだけど……」
「なんで、」
 絞り出した声が震える。堪えることができない。勝手に頬を伝う涙も、胸の奥を刺す痛みも。降谷さんは目を見開いて驚いていた。
「私はずっと降谷さんの特別になりたかったのに、」
 なりたかった、じゃなくて、特別だと思っていた。そう言いたかったのに、否定されるのが怖くて言葉が出てこない。降谷さんの手が伸びてきて、頬を伝う涙を優しく拭う。
「自分で思ってたよりずっと、なまえの存在が大きくて。簡単に割り切れなかった……って言おうとしたのに、早とちりして泣くなよ」
 降谷さんの背中で太陽が隠れる。拭ったそばからこぼれる涙に降谷さんは呆れたように笑った。
 頬に触れている降谷さんの大きな手は少しつめたい。被っていた帽子が取られる。降谷さんの目はいつ見ても宝石みたいだ。
「お前が泣いてるとつらいんだ」
 降谷さんの言葉がひとつひとつ落ちてきて、胸の奥の痛みが少しずつ和らいでいく。
「特別じゃなきゃ、こんなに大事にしてない」
 帽子で押さえられていた前髪が風に吹かれて浮かぶ。降谷さんの顔が近付いて、額に唇が触れた。


 * * *


 降谷さんの車に荷物を積んでいく。いつもは駅まで送ってもらうだけだから荷物は手に持ったままだったけれど、今年は一緒に東京まで連れて行ってくれるらしい。
「今年の夏ももう終わりか」
 近所の人にまた来るね、と挨拶に回ってようやく一息ついた頃、降谷さんはひとりごとみたいにぽつりと呟いた。
「毎年この数日は過ぎるのが早いな」
「えっ!」
「?」
 思わず声を出して驚いた私を見て降谷さんが首を捻る。
「ほんとに? いつも時間が過ぎるの早く感じてた?」
「まぁ……」
 降谷さんは訝し気に頷いた。にやにやと緩む口元を隠したけれど、もちろん降谷さんがそれで誤魔化される訳がない。手のひらで頬を挟まれて「言え!」と脅し紛いに詰め寄られる。何度か頷くとようやく手を放してくれた。
「大好きな時間ほど一瞬で終わっちゃうでしょ? 逆に言えば嫌いな時間は永遠に続くみたいに思えちゃう」
「確かにな」
 釈然としない降谷さんの態度に、ここまで言ってもわからない? と問い詰めても曖昧に首を傾けるだけだ。降谷さんは本当に変なところで疎い。
 ひまわり畑のお世話をしてくれているおじいちゃんがくれた、小さなひまわりの花束を降谷さんに押し付けた。
「だから、降谷さんは私と過ごす夏がずっと大好きだったってこと!」
 生まれたばかりだと思っていた水鳥のヒナはすぐに成鳥になるし、水浴びをしていた川辺は秋めいた色の葉が舞い、そのうち鮮やかな紅葉の落ち葉が流れる。ビーチに打ち寄せる波は冬に近付くにつれて透明になっていくし、ひまわりはあっという間に枯れていくのだろう。
 大好きで大切でかけがえのない夏が、今年も終わる。



2020/4/20 発行 「短い夏の秘密」



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