- ナノ -

オドント・グロッサム

「あっ、なまえ!」
 移動教室の帰り、お手洗いに寄ってから教室に帰っていると、後ろから自分の名前を呼ばれて足を止めた。友達との会話を止めて振り向くと、「財前見んかった?」とプリントをひらつかせる白石先輩が立っていた。わざわざ二年の教室のある場所まで来るなんて珍しいな、と思いながら首を振ると、「そっか、どこにおるか分かる?」と困ったように頬をかいた。
「いや、分からないです。何か伝えときます?」
「や、急ぎの用でもないし部活の時にでも話すわ! お友達待たせてしもて堪忍な」
 白石先輩は少し後ろで待っていた友人に向かって笑いながら軽く会釈をして去っていった。「あの気遣いどっから出てくんのやろ」と赤らんだ頬を抑えて呟いた友人に「あの人に惚れたら苦労するよ」と呆れた視線を向ける。
「なまえ〜!」
 数メートルも進まないうちに続けて聞こえてきたのは、正面から廊下を小走りで駆けてくる謙也先輩の声だった。白石先輩よりもハリのある声。それなのに周りを気にせず大きな声で呼びかけてくるもんだから、周りの視線を感じて急に居心地が悪くなる。
「人多いのに走らないでください」
「すまんて! 財前見んかった!?」
 またか。さっきの白石先輩とはうってかわって、少し焦った様子を見せる謙也先輩に首を振る。
「いや、見てないですけど」
「まじか〜!? どないしよ、この間から電子辞書貸りっぱのままなん忘れてた! 今日の午後使うて言うてたのに……」
 そう言いながらチラ、と視線を向けてきた謙也先輩に思わず深いため息がこぼれる。
「なんで朝渡さないんですか……はぁ、返しときますよ」
「よっしゃ! なまえならそう言うてくれると思ってたで〜!」
 ほんまおおきに! とバンバンと力の加減もせずに背中を叩いてくる謙也先輩の手を遮って、なんとか電子辞書を受け取る。「頼んだで〜!」と手を振ってまた小走りで廊下を駆けていく謙也さんの背中を今度は何も言わずに見送った。
「光、絶対直接返しに来いって怒りそうだけど」
「それ、教えてあげないでよかったん?」
 苦笑する友人に頷き、へたくそな光の似顔絵らしきものと「おおきに!」と吹き出しの落書きが描かれた黄色い付箋が付いた電子辞書を落とさないように抱える。
 中学一年の時に東京から四天宝寺に転校してきてから早くも数年が経ち、あの時同じ目標に向かって打ち込んだかつての仲間たちは全員が全員同じ道を辿ることはなく、それぞれがぼんやりと浮かべた将来の為に決めた自分の道を進んだ。
 親しい部活仲間のうち、同じ高校に進学したのは白石先輩と謙也先輩と小石川先輩、それから光と私だけだった。今でも別の高校に進学した小春先輩達や同級生とはたまに会うし、まだ中学生の金ちゃんも一緒に遊んだりするけれど、それでも四天宝寺が付属学校だったらもう少しみんなと一緒に過ごす時間が長かったのかもな、と考えては少し寂しくなるときがあった。
 高校を卒業したらきっとその先はそれぞれの将来に向けて、本当にバラバラになる。謙也先輩は家を継いで医者になると言っていたから、もしかしたら東京に進学するかもしれないし、白石先輩だって光だって、ずっと大阪にいるとは限らない。金ちゃんだって、越前くんを追いかけてアメリカに行くって言い出してもおかしくない。
 毎日早足で駆けていく時間の流れの中で、考えるたびに思う。決断しなければならない日は、もうすぐそこまできていた。過去を振り返ってばかりいる自分が将来の選択なんてできるのか、分からないまま。


 教室に戻ると、光は窓際の自分の席に座っていた。なんだ、いるじゃん。謙也先輩だけなら面倒だからと探さず私に声をかけたのかもしれないけど、白石先輩も声を掛けてきたからきっと教室くらい見てるはずだし、タイミングが悪かったのかもしれない。
 机に肘を付いてだらける光の背後に近寄り、その頭にこつん、と謙也先輩から預かった電子辞書をぶつける。光は後ろに立つ私を見上げるように振り返った後、手に持つ電子辞書に視線を移し「なんでなまえが持ってんねん」と言いながらそれを受け取った。
「謙也先輩に託されたから」
「……あの人にもう二度となんも貸さん」
 もう何度かその言葉を聞いた気がするけど、とは口に出さなかった。断固として断る光の姿も、それに縋って拝むように手を合わせる謙也先輩の姿も、結局根負けして嫌々貸し出す光景も簡単に想像できる。光の後ろの自分の席に座ると、光が半身を捻りながら振り向いた。
「今日帰りツタヤ寄らん?」
「駅前の方? いいけど、じゃあちょっと気になるカフェあるから付き合って」
 頷いた光にやった、と笑うと、光も薄く笑ってすぐに前に向き直った。
 時々、思い浮かべては切なくなる。もし光が別の学校に進学していたら、私は毎日どうやって過ごしていたのだろうか。あの時よりもずっと高くなった光の目線。それなのに並んで歩いても足が痛くならないのは、光が私の歩くペースに合わせてくれているからだった。


 あっという間に訪れた放課後は、中学の頃に比べて部活の日数も程々で、自由な時間がかなり多かった。バイトや勉強に使う生徒が多い中、私と光は部活がない日はこうしてどこかにふらっと足を運んだり、みんなで集まってストリートテニスに向かったりしていた。
「光、ちょっと職員室寄りたいから先に行ってる」
「そしたら下駄箱んとこおるわ」
「おっけ、すぐ終わると思う」
 じゃあまた後で、と手を振り、教室を出ようとしたところで「あっ……みょうじさん!」と声を掛けられて顔を上げる。教室の扉の横、隣のクラスの男の子が少し緊張した様子で立っていた。
 確かに自分の名前を呼ばれたけれど、何となく顔を知っているだけで彼の名前も知らない。戸惑っているのが顔に出ていたのか、彼は少し気まずそうに視線を落とした。
「えっと、私?」
「うん、あの……ちょっと話したいことあんねんけど、この後時間ある?」
「あ……ごめん、用事があって……」
 ドアを塞ぐ形で立ち止まってしまったせいで、帰ろうとしていたクラスメイトが気を遣って前のドアに向かう様子を横目で見る。
 今までにこういったことが全く無いわけではなかった。ラフにこられるのも困るけど、こうして緊張を全面に出されるとこっちまでその緊張が移りそうになる。
 もし想像通りの話だとして、ほとんど話したこともない人と突然お付き合いを始めるつもりはなかった。気を持たせるつもりもない。どうしようかと思わず苦笑いをこぼすと、その気配を察したのか、彼は焦ったように手を伸ばしてしどろもどろに言葉を繋げる。
「いや、ほんとにちょっとなんやけど! そんな十分もかからんと思うし、なんなら三分くらいで……」
「なまえ、はよせんとカフェ閉まるで」
 耳に馴染む声に振り向くとすぐ後ろに光が立っていて、肩が光の胸元に軽くぶつかる。まだ陽も沈んでないのに店が閉まるわけがない。光が冗談を言うのも珍しい。
「ごめん、すぐ行くから」
 じっと私を見下ろした光は、何を思ったのか私の頭を掴んでぐしゃぐしゃと髪を乱した。
「な、なにすんの!?」
「ぶっさ」
「はあ!?」
 乱れた髪を直している間、光が呆然と立ち尽くす彼を目を細めてじっと見つめていたことには気付かなかった。髪を手櫛で整え、仕返しに光の脇腹を小突く。
「職員室に何しに行くん」
「レポート出すの忘れてて……」
「……はぁ、早よ行くで」
「え、ちょっと!」
 肩にかけていた私の鞄を持ち上げた光は、私の声を無視してさっさと歩いて行ってしまった。取り残された私と彼の間に気まずい空気が流れる。
「ごめんね、また今度でも大丈夫?」
「あ、いや……やっぱ大丈夫、なんでもないっちゅうか……忘れて!」
 逃げ込むように隣の教室の中に戻って行った彼に一瞬ぽかんとしたものの、光の存在を思い出して追いかけると、光は階段の前で壁に背を預けて待っていた。「遅い」と不機嫌そうに言われて、その理不尽な物言いに口を尖らせる。
「みーてーたーでー、財前!」
 突然階段の踊り場から顔を覗かせた白石先輩と謙也先輩に目を瞬かせる。にやにやとした笑いを浮かべた謙也先輩は、すすす、と井戸端会議をする主婦の如く光に近寄った。
「かわいらしいとこあるんやなあ」
「ぶん殴りますよ、電子辞書の件もあわせて」
「げっ、忘れとった!」
 顔を引き攣らせる謙也先輩の後ろから一歩遅れて近くにきた白石先輩が「なまえに用があったあの子は良かったん?」と首を傾けた。謙也先輩に絡まれていた光の視線がチラ、と私に向いて、謙也先輩がまたニヤつきながら光を見る。
「あぁ、なんか忘れてって言われちゃいました」
「せやろなぁ、あーあ、誰かさんのせいでぇ……いでっ!」
「ぶん殴りますよ」
「殴ってから言うな!」
 光と謙也先輩のやりとりに白石先輩とニコニコしていると、そういえば、と白石先輩に腕を引っ張られて光と謙也先輩から数歩離れたところに移動する。白石先輩は口元に手を当てて内緒話のポーズをとり、私の耳元でこそこそ話し出した。
「二人、ほんまにまだ付き合ってないん?」
「付き合ってないですけど……」
「なんや、財前が意地張って隠しとるだけかと思ってたんやけど」
 付き合い始めたら絶対教えてな、と笑う白石先輩に顔が熱くなった。謙也先輩にダル絡みされていた光が私を見て、怠そうに深くため息を吐く。犬を払うみたいにシッシッ、謙也先輩を手で払った光は、「もう行くんで」と挨拶もそこそこに私の手を引いて階段を降り始めた。
「すみません、それじゃあまた!」
「週末またみんなでなぁ、詳細は連絡するから」
「はい!」
 先輩たちの姿が見えなくなった途端、私に合わせてゆっくり歩く光に困ったように笑うと、「なに笑ってんねん」と頬を軽く摘まれる。
 光と同じくらい素直じゃないから、口にできない。でも自惚れたい。光の隣に立って、誰よりも光と仲が良い人が、私以外になるなんて耐えられなかった。
「光が告白される時も邪魔してあげる」
「そらどーも」
「最低!」
「どっちが」
 下心で繋がれたままの手を振り解かずにいると、下駄箱でするりとお互いの手が離れる。ほんの少し寂しい気持ちを抱いたまま靴を履くと、待っていた光がもう一度私の手を取って歩き出した。
「どうしたの?」
「さっきのやつに見せつけたろと思って」
 私たちの教室の隣の窓を見上げた光は、しれっとした顔で私と繋がれた手を軽く持ち上げ、馬鹿にするように舌を出した。
 同じ中学以外から進学した女の子たちの噂の的になっている光にもやもやしていたから、私にとっても都合がいいけれど。思わず期待のこもった目で光を見上げる。
「……やきもち?」
 駅までの道、放課後に入ってから少し時間が経ったからか、歩く生徒はまばらだった。
 光は何も答えず、わざとらしく視線を逸らした。面白くなくて、意気地なし、と光にだけ聞こえるような小さい声で呟く。ゆっくりと足を止めた光に釣られて足を止めると、珍しく表情を固くさせていた。さっき、私の目の前にいた隣のクラスの男の子みたいに。
「……分かってるんやったら妬かすな」
 ぶっきらぼうな物言いが光らしくて思わず笑うと、光は耳を赤くさせて思いっきり舌打ちをした。それがまた面白くて、つい声に出して笑ってしまう。再び歩き出した光に引っ張られるまま、光の隣に並ぶ。繋がれた手は、いつの間にか指先が絡んでいた。

2022/1/15 発行 「夜伽」



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