- ナノ -

太陽がようやく死んだ

 人がまばらに乗った電車の中。揺れる車内に身を預けながら、正面に座る人と人の間から見える窓の外の景色を無感情に眺めていた。家が立ち並ぶ住宅街、ひらけた景色に見える河川敷、田植えの為にならされている畑。一瞬で消えていく景色の中、突然目前に広がった鮮やかな景色に目を奪われる。
 桜が似合う人だった。風に吹かれる髪は太陽に透けるとまるで人形のそれみたいで、綺麗な顔が余計に雰囲気を人間から遠ざけていたように思う。だからだろうか。あの日、赤めいた夕光が差し込んだ教室で、彼を見たとき。
「……あ、」
「……みょうじさん?」
 あまりにも綺麗で、思わず声を漏らしてしまったのは。
 夕陽のほの暗い逆光は、彼を神様に思わせた。開きっぱなしのカーテンが柔らかい風で緩やかにはためき、もうじき散りきってしまう桜が風に乗って教室に入り込んでくる。
 窓際から一番後ろの席にいる彼の手に、薄紅の花びらが落ちた。そんなことすら彼が起こした奇跡みたいに感じてしまうのは、彼に惹かれていたからだろうか。今となってはもう、わからないけれど。
 淡いコーラルピンクの紅が塗られた指先をそっと撫でる。風のように流れる車窓の外の景色に、もうあの桜は無かった。


 * * *


 午前八時、設定したアラームがけたたましく鳴り響く。三月も終わりに近付き、もう桜も少し前に満開を迎えているというのに、朝方はまだ少し寒い。
 閉め切ったカーテンを開けることもしないまま、寝起きのせいか少し重たく感じる身体をぐっと伸ばすと、パキリと軽快な音が鳴る。そこでようやくすっきりとした目覚めを感じるようになってしまったことにほんの少し気分が沈んだ。毛布を蹴飛ばしてベッドから這い出る。
 充電コードに差しっぱなしのスマホがチカチカと通知を知らせているのに気付いて手に取ると、少し前からやりとりを続けている山辺という男性からの返信が来ていたようだった。
前に話してたおすすめのお店、よかったら金曜日にどうですか?
 掛けるだけ掛けて満足した壁のカレンダーに目を向ける。二月のままめくられていないそれにひとりで苦笑して、予定も確認せずに「是非。楽しみにしています」と返事をした。すぐに返信を知らせる着信があったけれど、そのままスマホをベッドに放り投げる。
 自分で入れた予定のくせに、こんなにも憂鬱になるのは、自分に余裕がないからだった。吐き出したため息の重さに嫌気が差す。いつもよりずっと気分が重たいのは、懐かしい夢を見たからだろう。
 昔の夢を見た朝は、理由もないはずなのにどうしてか悲しい気持ちになる。だから綺麗な思い出は綺麗なままなのだろう。


 花の香りは心を落ち着かせる。チューリップが蕾を広げる頃。ちょうどこの時期は毎年近くの小学校が入学式の為にチューリップの仕入れの注文にくるから、今年ももうじき先生の姿が見えるのだろう。
 表に並べている花束のかすみ草を指で撫でながら、小さな背に鮮やかなランドセルを背負った子供たちの姿を思い出して頬を緩めた。
「なまえさん、こんにちはー!」
 元気な声に振り向くと、近所の小学校に通う仲良し五人組が揃っていた。今日は珍しく澄まし顔の哀ちゃんもいるみたいだ。リーダーっぽいコナンくんは今日もどこか呆れたような顔で元気な三人を見ている。同い年のはずなのにコナンくんと哀ちゃんはどこかお兄さんお姉さんみたいで、見ていて微笑ましい。
「こんにちは。春休み中でも一緒なんて、みんなほんと仲良しだね」
「博士んちならいつでも集まれるからな!」
「今日は皆でクッキー作りしたの! これ、なまえさんの分だよ!」
 ハートや星、猫やうさぎの形のマーブルクッキーがたくさん入った包みを差し出される。えっ、と思わず手を差し出して受け取ったけれど、今日は別に私の誕生日や特別な日ではないはず。「私に?」と確認すると、みんなは「もちろん!」と満面の笑顔を見せる。
「最近なまえさん、疲れた顔してるから……みんなで話してプレゼントしようって決めたの!」
「顔に出ちゃってた? ……嬉しい、ありがとう。大事に食べるね!」
 よかったー! とはしゃぐみんなに頬をかく。まさか子供に心配されるほど酷い顔してたなんて。そんな顔で店に立ってたなんて気づかなかった。ちょっとショックだ。
「何かあるならいつでも話してください、ボク達でも話を聞くくらい出来ますから!」
「なんてったってオレ達は少年探偵団だからな!」
「元太くん、女性の悩みはそう簡単なものじゃないんですよ!」
「あはは! ありがとう、ただ金曜日が来なければいいなーって思ってただけだから大丈夫」
「えー! オレ金曜日大好きだぜ! だって一日頑張れば次の日から休みだからな!」
 皆の元気な声に鬱々とした気分が吹き飛ばされるみたいだ。
「でも、本当に顔色悪いよ。ちゃんとご飯食べてる?」
「睡眠も足りてなさそうね。最低でも六時間は寝ないと、人間は電池で動いてるわけじゃないのよ」
「あはは、哀ちゃんお医者さんみたい。私よりみんなの方がずっとしっかりしてるね」
 一瞬顔を引きつらせたコナンくんと哀ちゃんに首を傾げつつ、クッキーを会計用の小さなカウンターの内側に置いて小さめの白いガーベラを手に取る。それからマーガレットも付けたして、添え花は淡いピンク色のかすみ草にしよう。
「クッキーのお礼に進学祝いの花束作ってあげる」
「えっ! ほんと!?」
「こんにちは、……あれ、小さなお客さんがいっぱいですね」
 突然割り込んできた落ち着いた声。聞き覚えのある声に顔が引きつりそうになりながら振り返ると、今一番会いたくない人が困ったように笑いながら立っていた。
「驚かせてしまってすみません。金曜日が待ちきれなくて、顔を見に来てしまいました」
「あっ! 金曜日って……」
「元太くん!」
「なまえさん、ボク達お店のお花見ててもいい?」
「うん、もちろん。ごめんね、ちょっと待ってて」
 元太くんの口を歩美ちゃんと光彦くんが慌てたように塞いで、哀ちゃんとコナンくんが店の奥に押し込むようにみんなの背を押す。本当に出来た子達だ、こんなことまで気を遣わせてしまうなんて。
「すみません、押しかける形になってしまって……近くに用があったので、少し顔を見たくて」
 照れたようにはにかんだ彼……山辺さんは、三ヶ月ほど前に店の前で盛大に鞄の中身をぶちまけて絶望していた。惨状に見かねてあちこちに散らばった物を拾うのを手伝ったところ、すっかり懐かれてよく店に来るようになったのだけれど、あまり得意なタイプでなく、どうあしらうかほとほと困り果てているのがここ最近の悩みの種であった。
「この後時間ありますか? 昨日お話ししてたおすすめのお店、今日がとっても良さそうなんです!」
「今日が……良さそう?」
「ハムサンドがおいしいって評判なんですけど、今日ならそのレシピの考案者の店員さんがいるらしいんです! どうせなら一番美味しいものを食べてほしくて!」
「ねえ、それってもしかしてポアロのこと?」
 足元から急に聞こえてきた声に驚いて身を引くと、コナンくんが「ごめんなさい、話聞こえちゃって!」とおどけたように笑った。
「そうだよ! 知っているのかい?」
「うん! ボク達もこれから行こうって話してたんだ。一緒に行ってもいい?」
「えっ……もちろん……」
「やったー! ありがとうお兄さん!」
 コナンくん達がいるならまあいいか。影で歩美ちゃん達が私に向かってピースサインを出していた。なるほど、確かに子供に頼まれたら断り辛い。ありがとう、と口を動かすと、みんなが嬉しそうにハイタッチをした。


 * * *


 思い出の中の彼女は、ずっと綺麗なままだった。
 桜が似合う人だった。いつも一緒にいる友人たちとは違う、傷んでいない艶のある髪に目を引かれた。笑った顔に小さくえくぼが浮かぶこと。照れるとすぐに耳が赤くなること。声が落ち着いていて、とても心地がいいこと。目立つようなタイプではないけれど、密かに視線を集めている。彼女はそんな人だった。
「みょうじさん、彼氏とかいんのかな」
 クラスの男子生徒がひそひそとそんな話をするたびになぜか気になってしまう。そんなことも露知らず、彼女はいつも花がほころぶように柔らかく笑っていた。視線が彼女を追いかけてしまうのは、自分も彼女に惹かれていたからだろうか。今となってはもう、わからないけれど。
「こんにちは!」
 聞き馴染んだ声に合わせて軽やかなベルの音が響く。振り向くと、コナンくん達の後ろに立つのはたまに店に来る男性、それから。
「……え?」
 少したれ目がちな丸い目を軽く見開いた彼女が、驚いた様子で僕を見つめる。彼女が僕の名前≠呼ぼうと口を開きかけた時、僕が静止するよりも早くコナンくんが声を上げた。
「ほら! この人が安室さんだよ!」
「そう! 安室さんのサンドイッチはパン屋のおじさんもおいしいって言うんだよ! すっごくおいしいんだから!」
「あ……安室さん?」
「……初めまして、安室透です」
 釣られて子ども達が僕を紹介したおかげで不自然にならなくて済んだ。彼女の後ろで、誰にも見えないようにコナンくんが呆れたように笑う。また彼に小さな借りができてしまった。まだ困惑気味の彼女は時折僕の顔を見ては何か考えを巡らせている。
「注文はハムサンドですか?」
「そう! 安室さんのハムサンドをなまえさんに食べてほしくて来たの!」
「そうだったんですね。それじゃ、とびきり美味しく作らないと」
 やったー! とはしゃぐ子供たちをやさしい目でみる彼女に胸がじわりと熱を帯びる。同じように彼女を見つめる男もまた、彼女のことが好きなのだろうか。
 子ども達は随分なまえさんに懐いているみたいで、次々に話しかけられる内容に笑いながら返事をしているようだった。ハムサンドにカフェオレ。まだブラックコーヒーは苦手らしい。人知れず小さく笑って、出来上がった料理を先に運ぶ。
「へえ、花屋ですか?」
「はい、すっごく綺麗なんです!」
「母の日の時とか友達の誕生日とか、なまえさんが作ってくれた花束をプレゼントするとみんな喜んでくれるの!」
「そうなんですね。僕も今度お店に行っていいですか?」
「もちろんです。ていっても小さいお店なんですけどね」
 照れたように頬をかいた彼女に子供達が「えーっ!」と声を上げて詰め寄る。
「大きさなんて関係ないよ!」
「そうですよ! 米花町イチの素敵なお花屋さんです!」
「あはは、ありがと」
 はにかんだ彼女の耳がほんのりと赤らむ。大人っぽい顔つきに浮かぶ口元のえくぼ。顔つきもあの頃に比べて随分大人っぽくなったのに、笑い方は少しも変わっていなくてどこかあどけない。
 記憶が波のように押し寄せて溺れそうになる。視界の端に、桜の花びらが舞ったような気がした。


 彼女は綺麗な人だった。
 教室に一人。遅くまで活動している部活動の喧騒が開いた窓の外から聞こえてくる。桜ももうじき落ち切って、青い葉がつき始めるのだろう。不意にゆっくりと教室のドアが開く音が聞こえて振り向く。夕陽がじわじわと教室の奥まで満ちて、膝よりほんの少し短い丈の彼女のスカートをオレンジに染めた。
「……あ、」
「……みょうじさん?」
「教科書、忘れちゃって……」
 彼女の席は窓際の前から二番目にあった。引き出しの中から教科書を取り出した彼女が振り向いて口を開く。
「……降谷くんは帰らないの?」
 沈黙を少し気まずく思ったのか、ぽつりと呟くような声で問いかけた彼女を見ると、ぱちりと目線が重なる。今まで盗み見るようにしか見ていなかった彼女と話すのはこれが初めてだったし、こんな近くで彼女を見ることが初めてだったから、思わず机の上の手元に視線を逃がしてしまった。手の甲に落ちている桜の花びらに気づいて指で摘む。
「桜を見てたんだ。もうすぐ散り始めるだろうから」
「放課後の教室でお花見か。いいね、桜の木いっぱいあるし。それに静かだし、誰にも邪魔されないし……なにより上から見る桜って結構新鮮かも」
 窓枠に手をかけて桜を眺める彼女を見て、思わず「みょうじさんは桜が似合うね」と口にしてしまっていた。口を噤んでももう遅い。驚いた顔をした彼女は、照れたように笑って髪の毛を耳にかける。
「……私もそれ、降谷くんにおんなじこと思ってたの」
 はにかんだ彼女の口元に、小さなえくぼが浮かんだ。外から風に踊って飛んできた桜の花びらが、彼女の前髪にふわりと落ちる。髪から覗く耳の縁と頬のてっぺんがほんのりと赤く色づく。じわりと胸の奥が熱を帯びた。


 * * *


 昼休みが明けた五限目。綺麗な黒板に白いチョークで将来の夢、とだけ書かれた文字をじっと見つめては、手元に配られた原稿用紙とにらめっこをする。
「現実的でも非現実的でもなんでもいいから、とりあえず自分のやりたいこと≠頭に浮かべてみればいい。営業マンでも、無難な生活をしたいでも、ケーキ屋でも先生でもなんでもいい。その夢を実現するために必要な進路が本当に今の希望の進路なのか、ゆっくり考える時間だから。常識の範囲内なら友達と相談するのも許可するから、一回じっくりゆっくり考えてみな」
 教卓に肘をついてにかっと笑った担任に教室のあちこちでくすくすと楽し気に笑う声がした。前の席に座る友人の楓が椅子を傾けて私の机を覗き込む。
「なまえは何か考えてんの? 私全然思い浮かばないんだけど……この際海女でも目指してみるか?」
「おーい川崎、いいけどそれ本当にやりたいことか?」
「げっ! 盗み聞き反対!」
「でけー声でしゃべっといて盗み聞きはないだろ……」
 どっと笑いが起こる教室内にちぇっと拗ねた様子を見せた楓が「で、何かやりたいこと決まってんの?」と一転してワクワクした表情に切り替わる。
「うーん、あんまりピンと来ないんだけど……でも、花が好きだから。お花屋さんとか開いて、誰かが大切な人に渡す花束を作る手伝いとかしたいな」
「…………」
「……とか、やっぱダメかな?」
「いや、すっごいいいと思う。びっくりしただけ!」
 わしゃわしゃと髪を撫でられて慌てて手櫛で整える。そろりと後ろの席に目を向けると、一瞬だけ降谷くんと視線が絡んだ。すぐに机の上に視線を戻す。髪、ぐしゃぐしゃなところ見られたかな。窓に映る自分の頬がほんのり赤く染まっていて、冷たい手のひらで覚ますように頬に添える。真っ赤に染まった耳には気付かなかった。


 花の手入れをしている時間が好きだった。同じ花でも一輪ずつ個性があるし、昨日より少し表情を変えるひとつひとつの花全部が愛おしく感じられるから。店内にしまっていた花たちを店の外に出してやると、太陽を浴びた瞬間に元気になったようにすら思える。
 花束用の包み紙の準備、栄養剤の補充、種の発注。そういえばようやく小学校からチューリップの仕入れの依頼が来たんだった。手入れの合間にもやることはたくさんある。そろそろ外に遊びに出る子供たちの声で一段と街が華やぐ頃だろうか。
 花に影がかかる。振り向くと紙袋を手にしたこの間の喫茶店の店員……確か安室さんが「こんにちは」と言って軽く会釈をした。
「いらっしゃいませ。えっと……安室さん、でしたっけ」
「はい、お久しぶりです。これ、よかったら」
「ありがとうございます。わ、シュークリームだ! あとは……レシピ?」
「はい。この間のハムサンド、気に入っていただけたみたいなので」
「え、あ……ありがとうございます」
 ……やっぱり、降谷くんにすごく似てるんだよなぁ。とても気になるけど、まじまじと見るわけにもいかない。遺伝子が強い親戚か、生き別れの双子か。声も、さり気ない言動も似ているように思える。ジロジロ見すぎるのも失礼か、ともらったレシピを折りたたんでエプロンに仕舞う。
「……夢、叶えたんだな」
「え……」
 驚いて再び安室さんの顔を見る。くすぐったくなるくらいやさしい表情で私を見つめる安室さんに、心臓がどきどきと脈打っていた。口を開くより前に、聞き慣れてしまった声が耳に届く。
「あれ……安室さん?」
 顔が引き攣りそうになるのをぐっと堪える。仮にもお客さんなんだからこの顔はきっと良くないよな、と口元を引き上げて振り返った。
「この間会ったばかりなのにもう打ち解けたんですね!」
「はい。実はアプローチしてたんです」
「え……」
「お恥ずかしながら一目惚れで」
 わざとらしく私の左手を持ち上げて、持っていたガーベラの花に唇を落とす。顔がいい人間というのはにこやかに笑うだけでどこか凄みが出るのだから呆れもする。けれど山辺さんをどうあしらうか少し悩んでいたのも事実なわけで。
 思わずその手を振り払わずにいると、山辺さんは「そう、ですか」と店に踏み込んでいた足を外に戻した。
「それじゃあ俺、お邪魔ですね。また……花を買いに来てもいいですか?」
「えっと、はい、もちろん」
「あはは、よかった。えっと……それじゃあ、またいつか」
 踵を返して店を出て行った山辺さんの背中を見送る。少しだけ罪悪感で胸が痛い。
「……子ども達から話聞いてたから。余計なことしたかな?」
「いや……困ってたのは本当だから。ありがとう」
 取られたままの左手をゆっくり引き戻そうとすると、遮るように力を籠められて捕まえられてしまう。触れる手が空の薬指を撫でる。真っ直ぐに見つめてくる目に耐えられない。
「ここ、埋まってなくて安心した」
「……意味、分かって言ってるの?」
 悪戯をする子供みたいな表情で笑うだけで、はっきりとした言葉にしてくれない降谷くんに反発心がふつふつと胸に沸く。
「ついこの前再会したばっかなのに」
「顔を合わせて数か月経たないと恋をしちゃいけないルールでもあるのか?」
「……理屈くさい男はそんなに好きじゃないんだけど」
「僕はずっと好きだったよ。恋じゃなくて憧れだったかもしれないけど、ずっと君を見てた」
 ぐっと言葉を飲み込む。言い合いで勝てる気がしない。降谷くんは「気付いてなかった?」と他人事のように笑う。
「こんなチャンス、もうないかもしれない」
「私、安室さん≠ニお付き合いする気はないよ」
「迎えに行く、絶対。後悔したくないんだ。……待ってて欲しい」
 待っててほしいなんて、無責任な言葉。そのくせに真っ直ぐ見つめてくるから逃げられなくなる。
「安物でもなんでもいいから……指輪のひとつくらい寄越して、ちゃんと繋いでおいてよ」
 なんてかわいくない返事なのだろうか。それでも解りきってるみたいな顔で降谷くんが表情を和らげるから、ばつが悪くて顔を少しだけ背けた。
「やっぱり、桜が一番似合う」
 頬に触れた手が目元を優しく撫でる。思わずぎゅっと目を瞑ると、降谷くんが小さく笑う気配がした。私に触れるひとつひとつの仕草が壊れ物を扱うかのように優しいから、どうしようもなく恥ずかしくなる。いくつになっても大事にされるのは照れくさくて、それから……少しだけ、嬉しい。
「綺麗だよ、……ずっと前から、変わらず」
 耳元で内緒話をするように呟かれた言葉のあと、米神に唇を寄せられる。ふわりと香るどこか甘い匂いに頭がくらくらする。
 頬に少しひんやりとした手が添えられてそっと瞼を持ち上げると、額が触れそうな距離で降谷くんが笑っていた。わざとらしく寸での距離でじっと私を見つめる降谷くんの頬を摘む。
 降谷くんはただずっと、黙ったまま私を待っていた。本当に意地が悪い男だ。頬を摘んでいた手を放して首に回す。もう一度目を閉じて、背伸びをした。



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