- ナノ -

もしも魔法が使えるなら

※本編後


 伸ばしっぱなしになっていた髪を切りに行こうと思い立ったのは、春を感じる間もなく勢い任せに訪れた夏の気配のせいだった。アラームをかける前に寝落ちたせいで思い切り寝坊して、朝ごはんを食べる余裕もないまま行った美容院から駅までの帰り道、不意に取られた腕のままに足を止める。驚いて振り向いた先、もうすっかり見慣れてしまった姿を目に留めてぐっと眉を寄せた。
「……よく会いますねえ」
 太陽の光をきらきらと反射させる明るい髪が眩しい。高い位置にあるその綺麗な顔をじとりと睨みつけると、その人はわかりやすく苦笑いを浮かべた。行き交う人がちらりと一度は振り返るような甘い顔立ちの割に、意外と意地の悪いことをもう知ってしまっている。
「今日はほんとに偶然だから」
「今日はって、やっぱり今までの全部わざとだったんですか。私が今までどれだけぐちぐち言われたか……」
 シャルさんの言う「ほんと」ほど嘘くさいものはない。掴んでいた腕を離したシャルさんは私の責めるような視線を受けても「まあまあ」と軽い調子で笑うばかりだった。
「それに全部ではないって、最初もほんとに偶然だったから」
「むしろ最初だけ!?」
「おい、誰だよそいつ」
 シャルさんの横にいたガラの悪い男の人が訝しげな顔を隠しもせず、私をじろじろと見下ろしては眉間の皺をさらに深くさせる。前にシャルさんが言ってた、圧の強い知り合いがいるかと聞かれたら真っ先に名前をあげるような人。警戒心の強い犬みたいにじろじろと私を見続けるその人を気にも止めず、シャルさんが明るい表情のまま私に手のひらを向ける。
「この子、なまえちゃん。で、こっちはフィンクス」
「お前の女か? にしては態度わりいな」
「え、なんかすみません」
「ちげーよ。もっとこう、普通ならくねくねしたり高い声で話したりすんだろ」
「いや別にあなたの好みとか知らないんですけど……」
 この人の女に対するイメージは一体なんなんだ。謝って損した。思わずちょっと引いた目を向けると、フィンクスだと紹介されたその男は良いとは言えない目付きをさらに鋭くさせた。一見人当たりの良さそうなシャルさんの横に並ぶと余計にガラが悪く見える。なんかちょっと怒っているように見えるせいかもしれない。
「ああ!? そうじゃねーよ! こいつが連れてる女がそういうのばっかなんだよ!」
「オレだって別にタイプなわけじゃないって。でもほら、その方が手頃だから」
「うわ……それも別に聞きたくなかった……」
 顔を顰めた私にシャルさんが「こういうのどうでも良さそうなのに」と目を瞬かせる。どんなイメージだ。シャルさんの方がよっぽどえげつないギャップ持ってるくせに。
「自分に関係ないからどうでもいいっちゃどうでもいいんですけど……でも別に好んで聞きたいわけでもないですし。知り合いのそういう話は特に」
「へー。どうして?」
「知らない方がいいこともあるんですよ。それに、私はやっぱり誠実な人の方がいいので」
「ふうん。でも現実と矛盾してない?」
「それなんですよね。ほんとなんでだと思います?」
「オレに聞かれても」
「さっきから何の話だよ」
 突然不服そうな顔で話に割り込んできたフィンクスさんにシャルさんと顔を見合わせる。けたたましい音を鳴らしながら過ぎるバイクの音を聞き流してから、シャルさんが「まあいいけどさ、そういうことだから団長の前でオレの女とか絶対言わないでね」と肩をすくめた。
「はあ? ンだよそれ、…………ああ!? まさかお前!!」
「うるさっ! ちょっと恥ずかしいから大声出さないでください!」
 往来のど真ん中で突然大声を出したその男が驚愕の表情を浮かべながら思い切り私を指差す。その声に驚いた周りの人の視線が一斉に集まって冷や汗が流れた。ていうかダンチョーて誰だ。
「ね、せっかくだしちょっと喋ろうよ。どうせ暇でしょ?」
「どうせ暇ですけど、言い方なんとかなりません?」
「まあまあ、奢ってあげるから。フィンクスが」
「なんでだよ!」
「え、やった! 朝も昼も食べてなくてお腹空いてたんですよね」
「遠慮ってもんを知らないよね。嫌いじゃないけどさあ」
 そこでいい? と指で示された店は二階に位置するチェーンの洋食屋で、ご飯が食べれるならどこでもいいと頷いた。人の波を遮りながら二階に続く外階段に向かう。
「フェイタンはいいのかよ」
「まだ合流まで一時間以上あるしいいんじゃない?」
「ご飯食べるの早い方なので安心してください」
「変な女だな……本当にこいつであってんのか? 何かの間違いだろ」
「今度聞いてみたら? 会ったって知ったら絶対面倒なことになるけど」
「おい! じゃあなんで声かけたんだよ!」
 人の目の前でよくこんな派手な陰口叩けるな。陰口っていうか本人に聞こえてたらただの悪口なんだけど。
 段差の高い階段を登りきってすぐ見えたドアを開けると、軽い鈴の音に出迎えられる。奥から顔を覗かせた店員さんに三本立てた指を見せると、すぐに窓際の四人がけのテーブル席に案内された。正面に並んだ体格のいい男二人が少し狭そうでなんだか申し訳なくなる。
「もう決まりました」
「オレも。あ、お姉さん、注文いい?」
「はい!」
 頬のてっぺんを微かに赤く染めた店員さんが注文用紙を片手にテーブルに近づいてくる。この光景にもすっかり慣れたけど、さっき変な話を聞いてしまったせいでなんかちょっと気まずい。だから知り合いのそういう話は聞きたくないのに。見透かしたようにシャルさんの隣からにやにやとした視線が向けられているのも鬱陶しい。
「えっと、カルボナーラに温玉トッピングで。あとアイスティーお願いします」
「オレはアイスコーヒー」
「オレも」
「かしこまりました」
 店員さんが去ったことでようやく詰まっていた息を吐き出す。まだ昼には少し早い時間だからか、店内はところどころに空席が見えた。
「シャルさんもフェイクスさんも、なにも食べないんですか?」
「誰だよ!」
「混ざってる混ざってる。フィンクスね」
 あれ。じゃあフェイなんとかはなんだと首を捻ると「フェイタンってのはさっき言った、この後オレたちと会うやつだよ」とシャルさんが笑いを堪えながら教えてくれた。
「……実は私、人の名前覚えるの苦手なんですよね」
「だろうね」
 だろうねって。そんな風に思われてたのか。当たり前のように失礼な相槌を寄越したシャルさんは無視して話を進める。
「故郷の一般的な名前の付け方とかなり違うから、本当に覚えられなくて」
「それ、仕事ではどうしてるの?」
「意外と雰囲気で乗り切れます。それに最初にお互い名乗ることが多いので」
「へえ、仕事できなさそ〜」
「そ、そんなことないですし……ちゃんとしてますし……」
「分かりやすく落ち込むなよ」
 だって似たような名前や複雑な発音の名前ばっかりで頭に入ってこないんだもん。覚えられないもんは仕方ない。
「じゃあノブナガとかはすぐ覚えられそうじゃない?」
「めっちゃ和! 覚えやす! どなたですか?」
「仲間のひとりだよ。こう、ここで髪結ってるやつでさ」
 握りこぶしを頭からぐっと伸ばす仕草をするシャルさんには悪いけど、それじゃああんまりよくわからない。ポニーテールとはちょっと違うような。
 失礼します、と可愛らしい声とともに店員さんがトレイに乗せていた三人分のドリンクをテーブルに並べた。アイスティーひとつとアイスコーヒーふたつ。人数分のガムシロップとミルクもテーブルに置かれたけど、フィンクスさんが片手でかき集めて全部私の方に寄せた。どう考えてもこんなに使うわけない。山の中からひとつだけガムシロップを摘む。
「なまえちゃんってさぁ」
「はい?」
「オレたちのこともう聞いた?」
 シャルさんの言うオレたちのこと≠ェなにを指しているのか、検討がつかないほど馬鹿じゃなかった。
「直接は聞いてないですよ。でもちょっと色々あって、それから後でなんかの記事で見ました」
「ふうん。それでもいいんだ?」
 試されているわけじゃなさそうだけど、心の内を探るようなシャルさんの視線が居心地悪い。アイスティーにガムシロップを割り入れて、ストローでかき混ぜながら言葉を探す。
「それでもいいというか、うーん……どっちでもいい、じゃないですけど……いやもういっか、つまりどっちでもいいんですよね」
「諦めんの早ェな!」
「こういうの言葉にするの苦手で……ていうか、今さらそんなこと言われたってもう遅いんですよ」
「遅い?」
「だって、そういうのはもっと早く言ってくれないと。それでもいいのかって言われたって……今さら嫌いになるとか忘れて生きていくとか、絶対無理じゃないですか」
 クロロを含めたこの人たちがいったいどういう関係で、なにを目的にああいうことをしているのか。もちろんネットの隅に転がる記事にそんなことが書いてあるわけもなく、当人たちからも聞いてないから結局分からないことだらけだ。それでも、全部なかったことにして生きていくには、かさねた時間が重すぎる。
 シャルさんのただでさえ大きな目がまんまるになったかと思うと、すぐにその口元がにや、と上がって意地の悪そうな笑顔になる。その横で黙って聞いていたフィンクスさんの顔も。二人を顔を見てようやく自分の言った言葉を深く考えた。やばい。だからちゃんと言葉を選びたかったのに。クロロがいないからってちょっと喋りすぎたかもしれない。
「へえ〜」
「……なんですか」
「顔、赤いよ」
「うるさっ! ああもう最悪、今の絶対言わないでください」
「なんで? 言えばいいのに」
「絶っっ対いやです」
「素直じゃないなぁ」
 焦りと恥ずかしさで変に喉が乾いて、氷の浸かるアイスティーを思い切り喉に流し込む。半分ほど中身の減ったグラスをテーブルに置くと、やけに真剣な表情を見せるシャルさんにじっと見つめられた。
「いつかこっちのゴタゴタに巻き込まれるかもよ?」
「それは……そうかもしれませんね」
「碌な死に方しないかも」
「せめて痛くないといいんですけど……贅沢は言えませんから。なんならその前に蔵匿罪とかで捕まるかもですね」
 言葉にすると重みが増したような気がする。汗をかいたグラスから垂れた水がテーブルに水たまりを作っていく様子をぼうっと見つめながら、ほんの数秒のうちにたくさんのことを頭に思い浮かべた。当たり前に過ぎるなんでもない毎日から、咽せるような濃い血の臭いと、クロロと離れた一年半。それからあの日、すべてを捨てるつもりで追いかけて掴んだもの。
「でも、もう選んじゃったので」
「選んだ? なにを?」
「一生後悔しない方を」
「だからなにそれ?」
「それは内緒〜」
「ここまで喋っておいてそれは無しでしょ!」
「喋ったんじゃなくて喋らされたんです〜」
 本当はここまで話すつもりなかったのに。話の誘導がうますぎて自分でも気づかないうちに色々溢しすぎてしまった。自分の弱みばっかり握られてしまったようでなんだか腑に落ちない。
「私ばっかり喋らされてなんかむかつくのでシャルさんとフィンクスさんも恥ずかしいことひとつずつ喋ってください」
「なんで?」
「言うわけねーだろ!」
「あるにはあるんだ……」
「フィンクスの話ならいくらでもいいよ。いつ頃の話がいい?」
「てめっ、シャル! 売ってんじゃねえ!」
 首に回した腕でシャルさんを締めようとするフィンクスさんに、シャルさんが慌てて抵抗する。仲良いな。なんか兄弟みたいに見えてきた。
 そこで鞄に入れていた携帯が小気味良く震える。メールかと思ったら着信のようで、振動が収まらないそれを手に取って未だにじゃれつく二人を見た。
「すみません、ちょっと電話いいですか?」
「どーぞ」
 快諾を受けて電話に出ると、喧騒を背後に聞き慣れた声が耳に届く。そのタイミングで店員さんがパスタを運んできてくれて、なんとか会釈だけでお礼を伝えると、伏せられた伝票がテーブルに置かれた。
「もしもし? 今ちょっとお昼食べて……え? うん、駅前のところだけど……あー、うーん」
 ちらりと正面の二人を見る。そこでシャルさんがハッとしたように固まって、それに気付いたフィンクスさんが怪訝そうな顔を浮かべた。
「いや、そうじゃないけど……ちょっと人といて。……え、男だけど……いや違うって! シャルさんとフェイ……じゃない、フィンクスさんって人」
 次の瞬間、シャルさんが顔を引き攣らせながら勢い良く立ち上がる。それをぽかんとしながら見上げると、シャルさんは慌てたようにフィンクスさんの腕を掴んだ。
「なんだよ急に!」
「いいから早く行こう。やばいって!」
「ああ? なにがやばいんだよ」
「そうだな、せっかくならゆっくりしていけよ」
 耳に当てていた携帯越しのものよりはっきりした声が聞こえて、あれ、と目を瞬かせる。頭を小突かれて顔を上げると、なぜか電話の向こうにいたはずのクロロが立っていた。
「あれ、近くにいたの?」
「偶然な。お前たちと違って」
 クロロの視線が正面の二人に向けられる。頬杖をついて寛ぐフィンクスさんはおっす、と軽く手を上げて挨拶をしたのに、シャルさんは手や首を勢い良く振って相も変わらず慌てていた。
「今回はほんっとに偶然! じゃなきゃフィンクス連れてる訳ないじゃん!」
「おい!」
 シャルさんの様子にクロロの中では納得がいったのか、深く問い詰めずにため息だけ溢した。かと思うと今度はその目が私に向けられる。もう見すぎてそのうち夢にまで出てきそうな呆れた顔。
「お前も何を呑気に寛いでるんだ」
「え、ご飯奢ってくれるっていうから」
「ほら、オレだけのせいじゃないって。躾が足りてないんじゃない?」
「また言ってるよこの人……」
「また?」
 クロロの言葉にげっと顔を強張らせたシャルさんに小さな声でばか、となじられた。なんでだ。恐る恐る顔を向けた先、すっと目を細めて笑うクロロに薄らとした緊張感を覚える。
「そうか、前はいつ話したんだろうな、なあなまえ」
「えっなに……こわ……」
 ぐいぐいと奥に押しやられてクロロが隣に腰を下ろしたせいで、通路側を陣取られて逃げられなくなってしまった。クロロの視線を受けて、立ち上がっていたシャルさんもため息混じりにソファに腰を下ろす。
「さっさと食え。五分で出るぞ」
「まだ来たばっかりなんだけど……」
 カトラリーケースからフォークとスプーンを取り出す。せっかく温玉までつけたから味わって食べたかったのに。待たせるのも居心地悪いし、と半ば諦めて急ぎ目に食べ始めると、正面に座っていたフィンクスさんがからかうようににやにやとした顔を浮かべながら私の手元を指差した。
「パスタ食うのにスプーン使うのはガキがやることらしいぜ」
「……別にいいですもん。こっちの方が跳ねないし食べやすいし」
「拗ねんなよ」
「別に拗ねてないですし」
 けらけらと笑うフィンクスさんの方がよっぽどガキっぽい。それでも最初に感じたガラの悪さは少しばかり薄らいで、気のいい兄ちゃんみたいな、シャルさんとはまたベクトルの違うとっつきやすさを感じ始めていた。そう考えるとこの人、見た目と態度の第一印象で損をしすぎている。
「随分仲良くなったんだな」
「え、今のやりとりほんとに見てた?」
 さっきから変なところで突っかかってくるクロロに眉を寄せる。しかもなんかちょっとズレてるし。
「あー! やっぱりオレたちもう行かないと! フェイタン待たせて怒らせたら面倒だしね!」
「おう。なまえ、今度は名前間違えんなよ」
「はい。……たぶん」
「聞こえてんぞ!」
 最後までわざとらしく視線を合わせないまま席を立ったシャルさんとは対照的に、気のいい笑顔を見せたフィンクスさんにぐしゃぐしゃと頭を撫でつけられて、乱れた髪のまま呆然とする。顔を青くさせたシャルさんがフィンクスさんを肘で打って、結局最後は二人揃って怒りながら店を出て行った。やっぱりめちゃくちゃ仲良いな。
「で、なにを話したって?」
 二人の背中が見えなくなった途端に投げかけられた質問にぎくりとする。二人に聞かれたあの小っ恥ずかしい話は、クロロにだけは知られたくない。焦りから上擦りそうになる声をなんとか抑えて、なんでもないように装う。
「んー、いろいろ。私が人の名前覚えられないとか、仕事できなさそうとか、ノブナガっていう和っぽい人が知り合いにいるとか」
「他は?」
「他は……ていうか喋ってたら食べれないんですけど……」
 クロロに私なんかの陳腐な誤魔化しが通用するとははなから思ってないけど、あんな話を知られたらそれこそ恥ずかしくて顔も見れない。パスタに集中するふりをして無視を貫いていると、クロロは諦めたのか懐から取り出した本を開いた。
「お前は隙がありすぎる。誰にでも気を許すな」
「隙は……そりゃあクロロよりはあるかもしれないけど。でも誰にでもってわけじゃないし……ちゃんと人、選んでるよ」
 本から目を離したクロロの手が伸びて、髪に触れる。もう当たり前になってるけど、この手を避けないのだってそうだ。梳かすようなその手つきに、そういえばフィンクスさんに髪をぐちゃぐちゃにされたんだっけと思い出した。幸い端の方の席で周りも空席が目立つ。直してくれるならいいかと大人しくその手を受け入れた。
「前にも言っただろう」
「見る目がないって?」
「分かっててこれか?」
「だってクロロの好きな人たちでしょ?」
 髪を梳く手が止まったのに、なにも返事が返ってこない。もう一度クロロを見上げると、なにやら微かに眉間に皺を寄せたまま、どこか険しい表情を浮かべている。
「え、嫌いなの? 実は仲悪いとか?」
「どうしてそう極端に……、いや、もういい。いいからさっさと食え」
「ええ……」
 さっきまでのどこか肌を刺すような雰囲気はいつの間にかなくなっていた。どんな関係かはわからない。わからないけど、お互いを大事に思ってることくらい、私にだってわかるよ。
「さっきシャルさんに素直じゃないって言われたんだけどさ、クロロも大概だよね」
「へえ。その話、聞いてないな」
 横から刺された言葉に肩が揺れる。やば。めちゃくちゃ墓穴掘った。そういえばこれ、あの恥ずかしい話に紐付く話だったっけ。痛いほどの視線をなんとか受け流しながら、誤魔化す術を必死で考える。
「そうだっけ? でも大した話じゃなかった気がするし。もういいじゃん」
「いいと思うか? で、どんな話だって?」
「あー! ほらもう食べ終わった! 帰ろ帰ろ!」
 本当は少し休憩しようと思ってたけどこの際もうどうでもいい。開いていた本を無理やり閉じさせてその肩を通路に向かって押し返すと、クロロは諦めたようにため息を吐きながら伝票を手に立ち上がった。
「あ。そういえば奢ってくれるって言ってたのに」
「今度なにかお礼を返してもらわないとな」
「うわ……ご愁傷さま……」
 人をからかうだけからかって颯爽と帰って行ったあの二人を思い返して心の中で手を合わせる。会計を済ませて店を出ると、ちょうど昼の時間を迎えた太陽が頭の真上でじりじりと街中を照らしていた。駅までの道を進もうとしたところでクロロに腕を引かれて、「帰る前に寄りたいところがある」と駅とは逆の方に足を向ける。
「本屋以外ならいいよ。本屋は読み出すと長いから嫌」
「そうか。その素直じゃない話とやらを話すか、付き合って待つか。二つに一つだな」
「待ちます……」
「本当に、なんの話をしたらそうなるんだ?」
「絶対言わない、クロロにだけは死んでも言わない」
 死んでも、ねえ。怪しい声色で繰り返すクロロに嫌な汗が背中を伝う。そっと横顔を覗き見て後悔した。絶対なにか良くないことを企んでいる。
「……この世には隠し事を聞き出せる能力がある、と言ったらどうする?」
「能力ってなに!? 怖いこと言うのやめてよ!」
 そんな超能力があってたまるか。顔を青くさせる私に、クロロは目を細めて笑う。
「お前には想像もつかないようなことが、この世には山ほど転がってるんだ」
「へえ、面白いこと?」
「ああ。知りたいか?」
「うーん。知りたい……けど、ちょっと怖い気もする」
「怖い?」
「うん。自分が知らないことを知るのって怖くない?」
 同じ世界に生きてこうして隣を歩いているときでさえも、クロロを遠く感じることがある。でも、その理由がクロロの言う、私には想像もつかないようなことってやつで、それを知ることでまたひとつクロロに近付けるなら、どれだけ得体の知れない怖さを纏っていようと悪くないとも思った。
「今はいいさ。いつか、知らざるを得ない時が来るかもしれないからな」
「クロロのせいで?」
「まあそうだな」
「クロロのせいじゃ仕方ないかぁ。天災みたいなもんだしね」
「お前、そんなこと思ってたのか」
 やばい。またやってしまった。責めるようなクロロの視線から逃げるように、口を引き結んでそっと顔を背ける。
「なあ、なまえ」
 一本先の大通りを通る車のクラクションや駅前の広場から聞こえてくるストリートライブの声に紛れながら、不意に投げかけられたクロロの声が私を呼ぶ。
「もしひとつだけ魔法が使えるとしたら、お前はなにを選ぶ?」
「なにその質問」
 その頭の中でどんな思考が巡っているのかはわからないけど、クロロから脈絡のない言葉が出てくるのは一度や二度じゃない。それにしたって非現実的なたらればの話は今までしたことがなかった気がする。突飛な質問に目を瞬かせる私に対して、クロロはいたって真剣な顔で「どうなんだ」と私の答えを促す。
「うーん、絶対にひとつだけなの?」
「そうだな、基本は」
「基本はってなに……? でもそうだなぁ、やっぱ空飛んでみたいかも」
「空? どうして?」
「通勤が楽そうだから。空なら人混みも関係ないし」
「……お前らしいな」
 それ絶対褒め言葉じゃないじゃん。空飛べたら超便利なのに。通勤と人混みの煩わしさが解消できるなら万々歳だ。そこでふと思い付く。
「ていうかそれならどこでも好きなところに瞬間移動できる魔法とかいいかも。ゼロ秒で会社着くじゃん!」
「……なるほどな。悪くない。ただ普通だと大した移動距離にはならないだろうから、その制限をどう越すか……」
「なんか着眼点おかしくない?」
 魔法なんだから制限とかないでしょ。そんな現実的な魔法とか嫌すぎる。顎に手を当てて考え込むクロロを横目に、他に魔法が使えるならなにがしたいか思い浮かべる。
「あとは……そうだなぁ、楽しい予定がある日は絶対晴れになる魔法とか」
「インドアには必要ないな」
「駅に着いたと同時に電車が来る魔法とか」
「時刻表を見ろ」
「いいじゃん魔法なんだから! じゃあクロロはどんな魔法選ぶの?」
 人のアイデアに横からケチばっかりつけてくるクロロを見上げた先、私を見下ろす柔らかい双眸と視線が絡む。言葉にしない代わりに、ちょっとした仕草や視線が前よりも柔らかく感じることが増えたような気がする。クロロが「そうだな」となにかを辿るように口にして、それからふっと笑った。
「他人の魔法を奪って自分のものにできる魔法」
「はあ!? せこい!!」
「せこくはないだろ」
「そんなの反則じゃん! 三つ願いが叶えられるって言われてひとつ目に無限に願い叶えさせろってお願いするやつとおんなじ!!」
「なんだその例え」
「流れ星にお願いするときにいくつも願いを叶えさせてって三回唱えないでしょ!?」
「だからなんだその例えは」
 さっきまでの柔らかい表情なんてどこへやら、いつもと同じ呆れ顔になったクロロに負けじと唇を尖らせる。
「それがありなら私だってそれがいい」
「お前には無理だろうな」
「選べるんじゃないの!?」
 さっきからひとつだけ魔法を使えるならというテーマからズレた返答ばかりでわけがわからない。珍しく肩を揺らして笑うクロロが「発想は悪くない」と褒めてるんだかそうじゃないのか分からない言葉を口にする。
「いつかその時が来たらお前がなにを選ぶのか、楽しみにしておくよ」
「……え、例えばの話だよね?」
 クロロは私の問いかけには答えずに、「着いたぞ」と一軒の古書店に足を踏み入れた。いつの間にか駅からずいぶん離れたところまで歩いてきていたらしい。店内に他の客の影はなく、半二階の奥にあるカウンターに置かれたレジではうたた寝をする妙齢の女性だけが背中を丸めて座っていた。
 例えばの話、瞬間移動の魔法にしちゃったら、今みたいなだらだらと歩きながら喋る時間はなくなるんだろうか。空を飛ぶ魔法も、私だけ空を飛べたって意味ないし。古い紙のにおいとインクのにおいが肺を満たす。早速本で埋め尽くされた壁際の棚に沿って一冊の本を手に取るクロロに近寄り、BGMひとつない静かな店内に配慮して顰めた声で話しかけた。
「ねえ。さっきの魔法の話、もうひとつ思いついたかも」
「ほう。何だ?」
「クロロがなに考えてるのかわかる魔法」
 どこの国の言語かもわからないような文字が並ぶ本から視線を外したクロロが、隣に立つ私を見下ろす。いくらその目を見つめてもやっぱり考えてることがわからなくて、浅く笑うその表情からは少しだけ楽しそうな雰囲気が伝わるだけだ。
「なんだ、そんなことか。魔法なんてなくたって教えてやるのに」
「え、ほんとに? じゃあ今は?」
 これは予想外だ。本当に教えてくれるらしいクロロが身を屈めて、それに合わせて内緒話を受けるように耳を寄せる。次の瞬間、視界に入るはずのないクロロの顔が近くに迫った。
 一瞬だけ触れた唇に何かをいう間もなく、離れる間際に唇を舐め取られて、そのざらついた感触に肩が跳ねる。一拍遅れて理解した瞬間に頭が沸騰しそうなほどの熱を帯びて、私の顔を覗き込んだクロロがどこか憐れむような顔を浮かべた。なんだその顔。誰のせいでこんなことに。
「悪いな。つい」
「ついじゃない……! あ……、ありえない、こんな、こんなとこで……!」
「どうせ誰もいない。それに、」
 言いながらクロロの顔が近付く。なにをしでかすつもりかわからないクロロを警戒して身を引こうとするよりも早く、今度こそ耳元にクロロの息が触れた。
「なにを考えてるか、分かったか?」
「わかるか馬鹿!!」
「おい、声がでかい。悪かったよ」
 悪かったとか、そんなの絶対思ってないくせに! クロロの冷たい手のひらが熱を冷ますように頬を滑る。親切心からだろうけど、こんなの余計に熱が上がってしかたない。やっぱりこの男がなにを考えてるのか分かる魔法だけは絶対無しにしよう。心臓がいくつあっても足りやしない。



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