- ナノ -



正しさの定義



 クロロはなまえの目の下にくっきりと残っている痕を指でなぞった。基本的になまえからの連絡がないと、クロロからなまえに連絡することはほとんどなかった。大抵の用事は家に上がり込んだ時に済む。別件で離れていた一ヶ月の間、珍しくマチやシャルナークにすら連絡が入らないと聞いたときに、なんとなくこうなっているんじゃないかと想像はしていた。
 目の下を撫でた指で触れた頬は、いつもよりもずいぶん冷たい。それこそクロロよりも。熱を分け与えるように頬に手を当てて、慣れたようにオーラを当てる。
「……クロロ?」
 驚いた様子で目を開けたなまえは、目を閉じているときよりも更にやつれて見えた。体を半分起こしたなまえに、クロロは静かな声で尋ねる。
「何日目だ」
 口を噤んだままのなまえに、クロロは深く息を吐いた。
最近、ペースがはやいの。この間は一ヶ月も経ってないのにもう次が来たし
 少し前に愚痴り半分でそう言っていたなまえの言葉を思い出す。クロロは壁にかかったカレンダーに目を向けた。最後に来たのはシャルナークだったか。あれは確か、一ヶ月半も前だった。
「内容は?」
「たいした内容じゃないよ」
「だからか」
 ただ、それが長期間続いているのだとしたら。面倒事の予感にクロロは再びため息をつくと、なまえは気まずそうに俯く。なまえが考えそうなことだと思った。態度はでかいくせに変なところで気を回そうとする癖がある。長いようで短い三年という時間で、クロロとなまえはお互いのことを思っているより理解しあっていた。
「とりあえずもう寝ろ。いつにもまして顔が酷い」
「ひとこと余計なんですけど……わっ」
 顔を上げて恨めしそうにクロロを睨んだなまえの目元を手で覆い、そのまま押しやってなまえの体ごとベッドに沈めた。鼻まで覆ったクロロの手が退かされると、そこには目を瞬かせるなまえがすっかり冴えた目でクロロを見上げている。
「寝ろ」
「そんなこと言われても……」
「子守唄でも歌ってやろうか」
「え、なにそれうける。じゃあお願いしようかな」
「黙って寝てろ。馬鹿」
 シンプルな悪口……自分で言ったくせに……。負い目でもあるのか、もごもごとそう小さく言い返したなまえに、クロロはもう一度早く寝ろとぶっきらぼうに繰り返した。




 昼過ぎにようやく目を覚ました私に、ベッドに座って本を読んでいたクロロがおそよう、と言った。いつもはソファにいるくせに、なんでこんなところで本なんか読んでるんだろう。あと冗談なのか本気なのかわからない嫌味はやめてほしい。
 クロロには最後まで黙っていたけれど、今回の夢は途中でしっぺ返しが起こることもなく、十六日間も続いていた。内容は虫やらオバケやらのしょうもない内容だったけど。しっぺ返しが起こらなかったのは家から出なかったせいだろうか。いくらしょうもない夢とはいえ、このまま悪夢を見続けていたらそのうち家が爆発でもしたのかもしれない。
 こんなに長い悪夢も初めてだったけど、なによりこんなに目覚めのいい朝は久しぶりだった。シャワーを浴びて一層すっきりした顔を見せる私に、クロロは不健康の塊だとか辛気臭い顔だとか文句を言いながら不機嫌そうに眉を寄せた。今日のクロロはいつもより表情豊かだ。悪い方に。もちろん褒めてない。鏡に映る自分の顔色が睡眠をとっただけでもだいぶマシになっていることに喜んだ私に対して、クロロは気に食わないといったような表情を浮かべて私を外に連れ出した。


 十六日分の悪夢のしっぺ返しはその日のうちに起こった。クロロが私を外に連れ出したのは昼食をとるためだった。その帰り、家までの道を歩いている途中で、ブレーキの効いていない車が左右に揺れながら歩道に乗り上げ、そのまま真っ直ぐ私目掛けて突っ込んでくる。チラリと見えた運転席の男性は天を仰いで口の端から泡を垂れ流していた。心臓発作かもしれない。賑わっていたストリートが逃げ惑う人々の悲鳴に変わる。
 私のせいで亡くなったかもしれない男の人に胸を痛める暇もない。ここまで派手なしっぺ返しは久しぶりのことだった。前に起こった、たった一晩ぶんの最悪の悪夢のしっぺ返しを思い出す。それでもあれとは比べ物にならないくらいマシだ。
 迫る車を前に、どうすれば一番被害が少なくて済むのかを考えた。多少なりとも周りの人間を巻き込んでしまう罪悪感はいつも心のどこかに抱えていた。せめて、最初から最後まで私ひとりだけのものであればよかった。
 私のその考えも知っているはずのクロロはそんなことはお構いなしに、悪党らしく私を小脇に抱えてその場を飛び退いた。背後にあった商店の前に立っていたおばちゃんが慌てて逃げていくのを視界の隅に一瞬だけとらえて、それから轟音が響く。夢の内容と長さを考えるとまだ足りない。通りに面した近くのマンションのベランダに降り立ったクロロが私を降ろす。お礼を言おうと顔を上げた瞬間、店に突っ込んで止まったその車は派手な音と閃光を撒き散らしながら爆発した。
「……酷いな」
「ごめん……」
「あの時よりはマシだろう」
 たぶん、同じあの日のことを考えていた。それもそうか。凄まじい量の煙と炎を吐き出すあの店の入り口を眺めていると、クロロが私の頬をつねった。いきなりなにするんだと怪訝な顔でクロロを見上げると、クロロはすぐに私の頬から手を離した。視界の端で時折パチパチと火の粉が爆ぜて、クロロはそれを気にもとめず口を開く。
「オレには優劣がある」
「……私にもあるよ」
「お前と知りもしない人間だったら、……オレはお前を取る。それだけだ」
 少しだけ迷いながらそう言ったクロロは、それだけ言って私を抱えなおし、マンション横の路地に降りた。思っていたより柔らかく地面に降ろされる。クロロは私の家に向かって歩き始めていた。その後ろを着いて歩く私をときどき振り返りながら。
 クロロにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。クロロの中の優劣のてっぺんにいるのは私ではない。もしこの先、その一番上にあるクロロにとっての大切なものと私を比べる必要に駆られたとき、私はきっと切り捨てられる。それでもいい。
 私があの日、クロロ以外の人たちを自分の意思で切り捨てたとき。私はずっと、そういう言葉が欲しかった。間違っていなかったんだと思いたかった。
 クロロと他の人たちを比べて、私はクロロをとった。おんなじだった。


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