- ナノ -



かわいげのない男



 濡れた髪から垂れた水滴がラグに染みを作っている。髪も乾かさないままソファで黙々と読書に勤しんでいたクロロを放置してシャワーを浴び終えたところで、戻ってきた頃にはすっかりそのまま眠りこけていた。あまり人に隙を見せない人だから、その姿に少しだけ驚く。
「本折れるよ」
 胸の上に開かれたままの本を取り上げてテーブルに置き、その寝顔を上から眺めてみる。いつもは自分より高い位置にあるその顔を見下ろすのもなんだか新鮮だった。ソファの背もたれに頭を持たれて眠る様子から、誰が普段のクロロを想像できるのだろうか。それでもその普段の態度のせいで、本当に寝ているのか無視されているのかわからない。
 放置されていたタオルを濡れた髪に当てる。まだ起きる様子はない。これ以上ラグをダメにされるわけにはいかないし、起きたら起きたでベッドに移動させよう。遠慮なくタオルでがしがしと水分を拭う。やっぱり髪を下ろしているといつもよりちょっとだけ幼く見える。こっちの方が可愛げがあってよっぽどいい。ぽろっと溢した暁には盗賊に可愛げなんていらないと一蹴されそうだけど。
「……もっと丁寧にできないのか」
「起きてるなら自分でやってよ」
「…………」
「寝たふりするな!」
「……冷たい」
 濡れたままの私の髪がクロロの頬に当たっていたらしく、僅かに目を開いたクロロの視線と絡んだ。クロロの頬をくすぐっていた髪の一房を指先で掴まれて、そのままくい、と軽く引っ張られる。
「なに?」
 寝ぼけているのかもしれない。逆さまの目はいつもより覇気がない。昨日の夜中に見たクロロも、薄らとしか見えなかったけどこんな目をしていたような気がする。珍しさにじっとその目を見つめ返していると、クロロはなにも言わずに体を起こしてそのまま寝室に向かって歩いていった。濡れた髪のままもたれていたせいで、背もたれは湿っている。
 ご丁寧に私の分のスペースを空けたつもりのクロロはベッドに寝転んでさっさと寝息をたてた。やっぱり寝ぼけているのか。いや、クロロのことだからわざとかもしれない。広いはずのベッドの三分の二以上も占領しているクロロに顔が引き攣る。こんな狭いスペースで寝られるか!




「あ、起きたかも」
 聞き慣れた声。鼻に掠めた安っぽいコーヒーの香りは、家に置いているインスタントコーヒーの匂いだろう。薄らと目を開けると、カーテンの向こうはもう明るくなっている。まだ昼には差し掛かっていないようだった。
 伸びをしようとしたところで隣にいたはずの男がいなくなっていることに気付く。シーツを手のひらでなぞる。もう熱はない。誰かさんのせいで狭い空間で寝ることを強いられたからか、体の節々が痛い気がする。
「うるさくなるからまだ寝かせておけ」
「人の家のコーヒー勝手に飲んでおいてよくも……」
 反射的に文句を返したところで、横から伸びた手が私の頭のてっぺんに触れた。クロロの声はリビングの方からした。また昨日と同じようにソファで寛いでいる様子が目に浮かぶ。パッと横を向くと、私の頭に片手を伸ばしたままのシャルがベッド脇にしゃがんでいた。思っていたよりも近い距離にいて思わず体を引っ込める。てっぺんあたりの髪が引っ張られるような感覚に目を瞬かせていると、シャルは「これ、寝癖」と私の髪を摘んだまま笑った。
「びっくりした……早いね」
「そう? まあ確かにちょっと眠いかも」
「少し寝る?」
 この間シャルが私にしたみたいに、横の空いているスペースをぽんぽんと叩いてみる。シャルは一瞬固まった後、ちらりとクロロを見た。その様子にハッとする。
「あ、ごめん。新しいシーツにする?」
「人を汚物みたいに言うな」
「だって気にするかなって」
「大丈夫、そんなに長居はしないし。フィンクスとフェイタンがこっちにきても困るでしょ?」
「すごくすごく困る。すごく」
 いたって真剣にそう返したのに、シャルは吹き出すように笑ってもう一度私の寝癖を手のひらで撫でつけた。これのせいでどんなに真面目でもふざけているように見えるのかもしれない。撫でつけたそばから跳ねるらしい髪を諦めてベッドから降りる。今度は足をぶつけないように気をつけて。
「シャルもコーヒー?」
「じゃあもらおうかな」
「うん、ちょっと待ってて…………え、待って、嘘でしょ」
 想像していた通りソファで寛ぐクロロのすぐそばのカーペットに、昨日見た染みが薄らと痕を残していることに気づいた。その染みを作った本人はどこ吹く風でコーヒー片手に朝っぱらから本を読み続けている。
「染みになっちゃってる!」
「何かこぼした?」
「ううん、昨日ここでクロロが髪びちゃびちゃのままうたた寝してて……水だし平気だと思ってたのに」
「早く乾かせばよかっただろう。雑なくせに遅いからこうなる」
「はあ!? ほんっとにどの口が言ってるの……ていうか待って、ソファは? ちょっとどいて!」
 昨日と同じ場所に腰を下ろすクロロの肩をぐいぐい押しのける。クロロは嫌そうな顔をしながら渋々といった様子で横にずれた。その背もたれの頭の部分にできた染みを見て「ああ!」と思わず絶叫する。
「やっぱり染みになってる!!」
「朝からうるさい。これよりいいもの盗ってきてやるから静かにしろ」
「そういう! 問題じゃ! ない!」
「じゃあこれはオレのものにする。それでいいだろう」
「どこが!? なにが!?」
 色も形もサイズもこれが気に入ってたのに! すっかり気落ちしてしまって、黙ってシャルの分のコーヒーを淹れてからベッドに戻った。シーツから柔らかく香るクロロの香水の匂いにさえイラっとする。いつもはわりと好きな匂いなのに。香りを飛ばそうと毛布をバサバサと扇いだ。
「鬱陶しいな……」
「謝ったら?」
「オレが? なまえに?」
「…………」
 今日は悪夢なんて見てないはずなのに。むしろしっぺ返しの前借りを支払ったようなのだ。もう今日は絶対起きない。


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