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足跡の向く方



 農業が盛んな山あいにある小さなこの街は、気候や環境のせいか穏やかな人が多い。一年ほど前、軽く旅をしながら住みたい街を探していたときに出会ったこの街は、前に住んでいたあのパドキアの穏やかな街並みによく似ていた。あの街の雰囲気を忘れられずにいた私は、後先考えず街のはずれに空き家を借りた。街の人は突然引っ越してきた私をとても歓迎してくれて、薬屋を営むと伝えると病院が少ないからありがたいとさらに喜んでくれた。行き当たりばったりすぎてリツさんには呆れられてしまったけど。


 クロロたち以外の念を使える人を、私はリツさんしか知らなかった。クロロに教えてもらってから一度もかけていなかった番号に電話をかけると、リツさんは「また怪我したの?」と言いながらすぐに出てくれた。
 おじいちゃんが悪夢を見ても自分で起きることができると話していたのは、多分念のことだとすぐに見当がついた。事情を話して私に念を教えてほしいと頼み込むと、リツさんは渋々ながらも了承してくれた。有料で。後払いでも可という約束で。その上クロロには黙っていてほしいと伝えると追加で上乗せされた。無情にもほどがある。
「そもそもなまえちゃん、念は使えるでしょ?」
 その言葉の意味がわからなくて返事に迷っていると、リツさんは「もしかして気づいてないの?」と驚いていた。リツさんが言うには、私が使っている血の能力がそもそも念能力というものらしかった。全く自覚はなかったけど、いつかにクロロが念についてやけに話を振ってきたことを思い出した。
「だからそのおじいさんが使ってたっていう能力も念の一部だろうし。習得するだけなら一週間もかからないんじゃない?」
 軽い口調でそう言ったリツさんの言葉はもちろん叶うわけもなく、諦めろだのセンスがないだのと言われ続けながら、半年ほどかけてようやくその能力を使えるようになった。リツさんは最後まで「もっとお金になる能力にしたらよかったのに」とごちていたけど、私が一人で生きていくためには欠かせない大切な能力だった。


 街の薬屋だけじゃ儲からないだろうと、リツさんはときどき私のお店を自分のお客さんに紹介してくれた。リツさんからしたらただ早く稼いで借金を返してほしかっただけだろうけど、やっぱりその筋の人は大金を積んでくれる。そのせいで強面で屈強な男の人がたまにお店を出入りするところを街の人に見られて、借金があったり脅されたりしてるなら相談しなさいとものすごく心配されてしまった。借金はしてるけど相手は強面のマフィアからじゃなくてやさしい顔した自称医者からだなんて言えるはずもなく、ただのお客さんだと説明するのに少しばかり苦労した。
 クロロのそばを離れてから、悪夢を見る頻度はある程度落ち着いた。一度は二週間にまで縮んだ間隔は時間をかけてようやく二ヶ月まで伸び、今は三ヶ月に向けて記録更新中だった。私の中からあの人の存在が消えない限り、きっと悪夢は見続ける。それでいい。忘れてしまうよりずっと。


 平日の昼下がり、店のドアにかけた鈴がチリンと転がる音がする。この時間にお客さんがくるのは珍しい。ときどき街の子どもたちがお菓子をねだりにやってくるけど、あの賑やかな声はない。棚に視線を向けたまま、薬を数えながら「ちょっとだけお待ちくださいね」と声をかける。
「ああ。いくらでも待つよ」
 鼓膜を震わせるその声は、ずっと焦がれていたものだった。棚に伸ばしかけたまま不自然に止まった手が小さく震える。それがバレないように、そっと自分の体の影に隠した。
「毒も薬も作ってもらえるんだって?」
「はい、まあ、一応」
 毒の話を振ってくるということはただのお客さんとして来たわけじゃない。リツさんからの紹介か、どこかから薬屋の噂を聞いたのか。リツさんだとしたら今度会ったときに絶対お詫びをしてもらわなければならない。
 大丈夫。バレるわけない。この人の頭の中には私の存在のひとかけらも残っていないはずだから。ゆっくり振り返る。黒いコートに身を包んだクロロは、あの変わらない瞳のまま、カウンター越しの私をじっと見ていた。懐かしくて泣きそうになるのをぐっと堪える。少しずつ過ぎ去る時間に思い出を溶かしてきたのに、これじゃまるで意味がない。上擦りそうになる声を抑えて、いつも通りの笑顔を浮かべる。
「リツさんからの紹介ですか?」
「ああ、そう、奴から聞いた。どんな薬でも作れるんだろう?」
「ええ、多分。でも、やってみないとわからないものもあります」
「そうか。じゃあ、どうしようもない馬鹿を治す薬とかも?」
「は、」
 表情ひとつ変えずに言ったクロロにぽかんとする。なにに使うんだその薬。またいらないことばっかりしてるに違いない。あんなに切ない気持ちでいっぱいだったのに一瞬で吹き飛んでしまった。思わず笑いそうになって、棚を弄るふりをしてクロロに背を向けた。笑いが堪えきれなくて、肩が震えそうになるのを必死で我慢する。
「……えと、それは……初めての試みなので、作ってみないと……」
「へえ。ちょうどいい、そのまま自分で試してみたらどうだ、なまえ」
 焦がれた声が自分の名前を呼ぶ。その音の響きを理解した途端、心臓が止まるかと思った。勢いよく振り向くと、いつの間にかカウンターの中に足を踏み入れていたクロロがすぐそこに立っていた。今まで感じたことのない圧に思わず足を引く。半歩もしないうちに背中に棚がぶつかって、もうそれ以上下がれなかった。顔を見なくたってわかる。ものすごく怒っている。
 夜が来るたびに恋しくて仕方なかったあの冷たい手のひらが私の頬を包んで、ぐっと上を向かされる。無理矢理合わさった視線。瞳の奥は相変わらず深い。悔しいのか嬉しいのか悲しいのか、感情が目まぐるしくてどういう顔をすればいいのかわからない。
「なんで、どうやって」
「それは記憶のことか? それとも居場所を見つけたこと?」
 クロロの声のトーンが少し落ちて、その不気味さに身震いする。
「ど、どっちも」
「そうか。理由はどっちも同じだ。お前の詰めが甘すぎる」
 記憶はわからないけど居場所については見当がついた。リツさんに売られたんだ。ありえない。あんなにお金を詰んだのに! 顔を青くさせる私に、クロロの顔がぐっと近づく。思わずその顔を手のひらで遮った。
「ま、まって、なんでそうなるの」
「……相変わらずうるさいな」
 遮った手をクロロの手に捕まえられて、触れた場所だけ熱くなっている気さえした。口調は変わらず乱雑なのに、額や頬に次々に落ちてくる唇がやさしくてくすぐったい。なんで。なんなの。クロロがすぐそばで動くたび、あの香水の匂いが頭の芯まで染みていくような感覚がしてくらくらする。首筋に顔を寄せたクロロが突然ふっと笑って、その吐息が首元をくすぐった。
「心臓の音までうるさいのか」
 顔を上げたクロロが、上目で私を見据える。
「お前のことだから、余計なことでも考えたんだろう」
 クロロの顔が近づいて、掬うように唇を重ねられる。その口付けはやけに甘い。
「忘れてやろうか。お前がそうしたいなら」
 唇が食まれたと思った瞬間、一瞬の痛みが上唇に走った。血の味に驚く隙もないまま、クロロの舌が私の血を掠め取っていく。
 おじいちゃんのような強さがないから、大切な人を亡くす覚悟なんてできなかった。あの日、激しく揺れて傾く飛行船の中で他の誰よりもクロロを選んだ日。とっくに私のすべてが変わっていた。もう手遅れだった。だから離れる選択をしたのに、たった一度触れ合っただけで、いとも簡単に崩れてしまう。クロロを見上げる。その唇はいつかのように赤く滲んでいた。条件は揃っている。たったひとこと、言えばいいだけだ。言えばいいだけなのに。
「忘れないで」
 堪えきれずに溢れた涙が大粒のまま頬を滑り落ちた。いつの間にか縋るように掴んでいたクロロの腕が、支えるように後髪にやさしく触れる。
「馬鹿な女」
 呆れたような声色に、あんたにだけは言われたくない、とぐずぐずになった声で返した。
 そんなの分かってる。私が一番、誰よりも。その馬鹿な女に唇を寄せるクロロだって、馬鹿じゃないなら一体なんだというの。理屈や道理でこの感情がどうにかなるなら、初めからクロロなんて好きにならなかった。


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