- ナノ -



影を泳ぐ



 広いベッドの端に丸まって眠るなまえを見て、クロロはあの日のなまえの姿を思い出していた。いくつもの涙の跡とかぶれて赤くなった口元。高熱に魘されるその顔は土のような酷い色で、少し目を離した隙に呼吸を止めていたっておかしくはなかった。伝えた通り薬を届けに来たシャルが珍しく焦った表情を浮かべて「これ平気なの?」と聞いたときも、クロロはなにも答えなかった。
 次の日の夕方に目を覚ましたなまえは意識がはっきりしている様子だった。まだ体に力は入らないようで、喋る元気があるわけでもない。それでも見違えるほど良くなった顔色だけが、僅かな焦燥感につままれていたクロロの心を穏やかにした。
 寝息に合わせて胸を緩く上下させるなまえの顔を覗き込み、その首に手を添える。一定のリズムを刻む穏やかな脈の感覚が指に伝わり、クロロはそっとその指を離した。
 なまえがはっきりと涙を流す姿を見たのはあれが初めてだった。燃え尽きた怒りと憎しみの中に諦めが混ざったような表情も。クロロの姿を認めた瞬間に変わった目の色も。
「んん」
 ベッドについていたクロロの手に、寝返りを打ったなまえの頬が触れる。あの日と違ってその肌はあたたかい。悪夢を見ているわけじゃない。それなのに、クロロはなまえの頬を柔らかく撫でた。
「……クロロ?」
 冷たい指が触れた感覚にぼんやりと意識を浮かせたなまえが、蕩けた声でクロロの名前を呼んだ。寝惚けているだけだと分かっているはずなのに、その声がやけに頭の中に響いて眩暈がしそうにだった。
 本当ならこんな女、側に置いておく必要なんてなかった。うるさいし鬱陶しいし口答えもしてくるし、その上面倒ばかり引き寄せる。ただの気まぐれや暇つぶしのはずだった。ほんの小さな興味本位でもあった。それだけだったはずなのに。
 クロロがなまえを見つめたまま返事をしないでいると、夢の中とでも勘違いしたのか、なまえはなにも言わずに再び眠り始めた。あんな目にあったくせに警戒心のかけらもない。目にかかる髪を指先でそっとはらう。こんな女、本当だったら。


 * * *


 朝起きるとクロロは既に出かける準備をしていた。今日はどこかに行く用事があるらしい。それじゃあ外に買い物でも行って、ついでに黙ってバーガーショップにでも行ってこようかと頭の中で計画を立てていたのに、クロロはまだふかふかのベッドを満喫する私に向かって「出かけるぞ」と言った。
「私も? どこに?」
「あと五分で支度しろ」
 だったらもっと早く起こしてくれたらよかったのに。あの家に二度と戻るなと言いつけたクロロがわざわざ持ってきた何着かの服から手首の包帯が隠れる無難なものを選び、寝癖を治す時間はなかったから軽くとかした。もちろん化粧なんてやってる暇もない。体感五分で支度を終えてクロロの元に行くと、クロロはソファに座ったまま私を見上げて本を閉じた。
「六分二十七秒。時間も計れないのか」
「…………」
 怒るな。こんなことで怒ってたらキリがない。クロロの曲がった性格を真っ直ぐに戻すよりこっちの胃に穴が空く方が早いのは考えなくたってわかる。クロロの家の居候になってから早数日、この男のこういう小さな理不尽に少しずつ慣れ始めていた。最初は絶対譲らないと思っていたのに。自分が全て正しいという顔を崩さないクロロを見ているとこっちがおかしくなりそうだった。つまり降参だ。
 結局どこに行くのかもわからないままクロロの後を着いて歩く。窓の外の景色からわかってはいたけど、あの部屋はマンションの一室のようだった。エレベーターに乗り込んだクロロが地下一階のボタンを押す。他に同乗者はいなかった。
「ねえ、そういえばここってどこなの?」
「ヨークシンを少し東に下ったあたり」
「え。そんなに近くて大丈夫なの?」
「どこに居たってたいして変わらないだろう。それにもともと同じ場所にずっと居続けるわけじゃない、いくつか拠点がある。ここはそのうちのひとつだ」
 家のこと拠点って言う人初めてみた。そんなに変な顔でもしていたのか、私を一瞥したクロロが「それにもうじきここを離れる」と付け足した。そっか。クロロはここを離れるのか。そうなると私はいい加減次の家を探さなければならない。相手がクロロだったとしても、人と四六時中一緒にいる生活に慣れてしまったから少し寂しく感じた。次はペット可物件とかにしてみようかな。それから会話は途切れて、数秒もしないうちにエレベーターは地下一階に着いた。
 そこは一フロア丸々薄暗い蛍光灯で照らされた駐車場だった。真っ直ぐ歩いて行くクロロの後を慌てて追いかけると、不意に立ち止まったクロロの前に黒い車が停まっていた。今日はこれで移動するのか。連れてきたと言うことは私も乗れということなんだろう。クロロはなにも言わずに運転席に座った。後部座席のドアを開くと、クロロは「なにしてるんだ」と言いながら訝しげな顔を向けてくる。助手席に座れということらしい。それならそうと言ってくれたらいいのに。黙って助手席に乗り込む。
「……ああ、箱入り娘だったな」
「それやめてよ」
 反射的にむすっとした顔をして、少し子どもっぽかったかとすぐに表情を戻した。こういうところをつつかれるから隙を見せると面倒くさい。クロロはふっと一瞬だけ口元を緩ませてエンジンをかけた。なにも言ってこない。今日は珍しく機嫌が良さそうだ。


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