- ナノ -

 折れた骨が治った時に強くなるように、心も変わるのだろうか。
 陽の光の入りにくい屋敷の端っこ。一日にたったの数時間だけ、部屋の角に陽が入り込む六畳の部屋。そこが私の世界だった。くすんだ焦茶色の机。使い古されたぺたんこの座布団。壁に掛けられた唯一のカレンダー。金曜日にもなると薄い布団は埃の臭いが鼻につくようになる。月に一度、一冊だけ与えられる本を毎日毎日繰り返し読んだ。
 朝起きたら廊下に用意されている朝食をひとりで食べて、食器をまた廊下に戻すといつの間にか音もなく消えている。夜になると月明かりしか部屋に入ってこないから、日が暮れたら寝て、朝日が登ると起きる。この毎日が私にとっては当たり前だった。
「なにしてんの?」
 襖を開けていたのに、人が来る気配に気付かなかった。大人たちとは違う、少し高い声。パッと振り向くと、私と同じくらいの背丈の男の子が不思議そうな顔で私をじっと見つめていた。
 昔、どうしても外に行ってみたくて、お母様に内緒で近くの公園に行ったことがあった。カラフルなジャングルジム、揺れるブランコ、ゾウの鼻みたいなすべり台。全部、本の中でしか見たことがなかったものだった。砂場に残ったお城の跡を見つけて近寄ると、薄茶色の砂に混じってキラキラと光るものを見つける。ビー玉だった。それを手に取って砂を払うと、今まで見たことのある中で一番綺麗な光を放っていた。
 この男の子の瞳は、そのビー玉を空に透かせたときとおんなじ色をしている。
「聞こえてる?」
 私が返事をせずに固まっていたからか、その男の子は訝しげな顔で私を見ていた。いつの間にか外縁に腰を下ろしている。
「……聞こえてる……、!」
 久しぶりに出した声はか細く掠れていて、男の子まで届いたか不安になって少し俯く。そういえば、最後にお母様が来て少しだけお話ししたのは、もう一ヶ月以上も前だ。男の子はすぐに「ふーん」と言ったから、聞こえていたのかとほんの少し安堵した。
「で、なにしてんの?」
 懲りずにそう問いかけてくる男の子に、また黙り込んでしまう。だって、何をしてるかと聞かれたって、むしろ何もしていないんだから。それに、たまにお母様とお付きの人と話す以外は人と話すことなんて無かったから。同い年くらいの子と会うのは、これが初めてだった。言葉の話し方を忘れてしまったみたいに、喉がやけに乾いて張り付いた。
「……まあいいや。じゃあね」
「あ……」
 男の子は外縁に掛けていた腰を持ち上げると、そのままどこかに行ってしまった。たとえ外縁でも、私がこの部屋から外に出ると他の人の目に触れることを嫌がる大叔父様から怒られてしまうから、その背中を追いかけることも、見送ることも出来なかった。


 * * *


 珍しいことが起きたからだろうか。久しぶりにあの日の夢を見た。
 きらきら光るそのビー玉をこっそり隠し持ってそうっと屋敷に帰ると、屋敷の人はばたばたと大騒ぎしながら私のことを探していたらしい。いつもは私のことなんて見向きもしないのに。使用人の女の人が私の姿を見るなりどこかに駆けていって、それからすぐにお母様が早足で現れて、振りかぶった腕が私の頬を思いきり叩いた。
「……こんなこと、もう二度としないと誓いなさい!」
 静かに、諭すように私を叱るお母様は何度も何度も見たことがあったけれど、こんなにも怒りを露わにするお母様は初めて見た。私はひとつ、ゆっくり頷き、誰もいなくなった六畳一間の私だけの小さな世界で、口の中の血の味の不快感も頬の痛みも堪えたまま、静かに畳を濡らしたのだった。


 障子越しに朝の光が透けて、布団の端に薄い日向を伸ばす。その明かりに目を開けた時、ようやく私に朝が訪れる。いつも通りに布団をたたみ、いつも通りに用意されていた朝食を済ませて、いつも通りに外の空気を入れる為に障子を半分だけ開けようとして、昨日のことを思い出した。
 同じことの繰り返しの毎日の中でたったひとつだけ起きたイレギュラーは、思いの外自分の心を揺らがせていた。懐かしい夢を見るくらいには。ちょうど半分の位置で止まっていた障子を、少しだけ広げる。たったそれだけのことなのに視界が広がった気になって、自分の心臓の音が高く跳ねた気がした。
「ねえ、暇なの?」
 もう何度目かも分からない本を読み、昼食を食べ、日が傾いてきた頃だった。その声が聞こえた時、私は自分でも驚くほど勢いよく振り返ってしまった。昨日と同じようにいつの間にか外縁に座り込んでいた男の子は、その反応を見て驚いたみたいだった。あのきらきらした目を丸くさせるたびに、こぼれ落ちてしまわないかと少し心配になる。
「暇なら付き合ってよ」
「ど、どこかに行くってこと?」
 少しつっかえてしまったけれど、今度はちゃんと声が出た。男の子はやっぱり気にすることなく話を続ける。
「そ。なんかあんたどこも知らなそうだし、いろんなとこ連れてってやるよ」
「どこかに行くのはダメなんだって……」
「はぁ?」
 顔を顰めて振り返った男の子に身体を竦める。怒られることには慣れていたけれど、叱るという行為からではない、不機嫌さを元にした怒りを受けるのは初めてだった。
「なに、地縛? 動けないの?」
「う、うごける」
「じゃあ出たらいいじゃん。ほら、」
「だ……ダメ!」
 私の手を掴んで引っ張ろうとした手を払いのける。ぱしんと思いの外おおきな音を立てた手を見つめてから私に視線を移した男の子は、不思議そうに目をまんまるにさせていた。
「ご……ごめんなさい、でも、お母様が……」
「なにそれ。あんたはどうしたいんだよ」
 私がどうしたいのか。どれだけ考えを巡らせても、でも、だって、と口につくのは言い訳ばかりだった。そんな私を見かねた男の子が、深くため息を吐き出してもう一度口を開く。
「俺はあんたに聞いてるんだけど。自分の意思を言うのにでももだってもいらないだろ」
 あなたは、私と違うから。春に鳥が空をくるくると舞うように自由に外を歩き回れて、雨に打たれた草花のように毎日のびのびと息が出来て、こんな屋敷の端っこの陽の当たらない小さな部屋を見つけられるくらい、自由に生きていられる。
 同じ本を毎日毎日繰り返し読んで、日が暮れたら自分が生きていることを忘れないようにカレンダーに印しを付けて、ほんの少しだけ部屋に入り込む陽の光に安堵する気持ちも分からなければ、人と話すことや声の出し方すら忘れて喉が張り付いてしまうこともないんでしょう。
 それでも、そんな恨み言よりも、勝手に自分の口から飛び出た言葉があった。
「外に行ってみたい。連れてって!」
「……言えんじゃん」
 言い訳なら任してよ、と悪戯っ気に笑った男の子に、自然とつられて頬が綻ぶ。
 羨ましい。嫉ましい。全ての冷たい感情を塗りつぶしてしまうくらい、陽の当たらない部屋から手を引いて、太陽の下に連れ出してくれた彼を、どうしようもなく好きになってしまう。

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