I am wrapped in the scent of you.
りん子が芥辺探偵事務所でバイトを始めてから実に2ヶ月が過ぎた。 最初の方こそ事務処理と掃除だけだったが、次第に簡単な依頼ならりん子一人に任せてもらうまでになった。そのことに少し嬉しさを覚えてきた頃、ついに芥辺は事務所の秘密をりん子に教えた。
「まさか悪魔探偵だったなんてね……」
まあ実のところ、お金さえしっかりもらえれば悪魔だろうとなんだろうとりん子にとってはさして問題ではないのだが。
「それにしても、あの人随分深く切ってくれたなぁ」
あのアザゼルとかいうセクハラの激しい悪魔と契約をさせられた際に芥辺に切られた指は、思った以上に出血が多かったためあの後病院へ行くことになってしまったのだ。 余計な出費は抑えたかったが、自分ではどうしようもないため、泣く泣く病院へ行ったのだ。指には包帯が巻かれている。傷跡が閉じるまでは包帯は取れないので、少し不便だ。
「りん子ちゃん、指の怪我大丈夫?」
ああ、あかねちゃんは優しいな。 友達の少ない私と一緒に食事をしてくれるばかりか、指の心配までしてくれるなんて。
「見た目ほどひどくないからもう大丈夫だよ」 笑顔でそう返すが、実はまだ傷口が痛かったりする。だが、この優しいあかねに心配はかけまいと気丈に振る舞う。
「そっか。でも大変だったね、バイトで切っちゃったんだよね?」
「そうなの。私って結構ドジだったみたい」
はははは、と乾いた笑いを浮かべる。
「そういえば! りん子ちゃんのバイト先って探偵事務所なんだよね。どんな人がいるの?」
う、なんて答えよう……。正直に悪魔みたいな上司と悪魔の同僚です。なんて言えないし。
「雇い主の人は、すごく怖いかな。優しいところもあるんだけどね。同僚は……セクハラオヤジって感じ」
「へー、退屈しなさそうだね!」
「そ、そうだね」
あかねちゃんは、なんていうかちょっとズレてるところがある。 りん子は、あかねの恋人も探偵事務所を経営してると言っていたことを思い出した。
「あかねちゃんの彼氏さんも探偵業やってるんだよね? どんな人なの?」
「えっとね、すっごく優しいよ。バイト先に迎えに来てくれるし、私のことをいつも守ってくれるの」
幸せそうな顔でそう話すあかねを見て、いいなぁとりん子は思った。
(芥辺さんとは大違いなんだろうな)
りん子がふと時計を見るともう事務所に行かなければならない時間だった。もう少しあかねと話していたかったが、仕方が無い。遅れて給料が減りでもしたら大変だ。
「ごめんあかねちゃん。私仕事だから先に失礼するね」
「わかった。気をつけてね、りん子ちゃん」
ばいばーいと手を振るあかねに後ろ髪を引かれながらも、りん子は足早にその場を後にした。
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りん子と別れた後、あかねはバイト先へ向かった。今日は木曜日なので、近くの喫茶店でのバイトだ。あかねはマスターと仲が良く、そのおかげでバイトとして雇ってもらえることになったのだ。
「るーるーるるるー♪ るるーるるるるー♪」
今日はマスターの事情で早く店じまいをした上に、店のケーキを貰ったので、ウキウキのあかねだった。
「えへへ。芥辺さんと食べるの楽しみだなぁ」
(今日は早かったからびっくりするかな?)
あまり見ない芥辺の表情が見れるかもしれないと、一層心が踊る。 足音を立てないように慎重に階段を登る。
「あっくたべさーん! ただいま帰りました! うわ!」
ドアをバーンと勢いよく開けると、部屋の中には案の定芥辺がいた。芥辺は多少の驚きを含んだ目であかねを見ると、読んでいた本を置いてあかねを抱きしめた。
「芥辺さん、どうしたんですか? 荷物置きたいんですけど……」
離してくれますか? と言おうとしたあかねに「ちょっと黙って」と芥辺は言い、首筋に顔をうずめた。
「ちょ、芥辺さん! くすぐったいですよぅ」
すんすんと匂いをかぐ芥辺に、そういえば今日は暑かったから汗たくさんかいたんだった! と焦りだすあかね。 しかし、芥辺は体をよじって逃げ出そうとするあかねにかまわず思う存分あかねを堪能した後、ようやく解放した。
「な、なんだったの……?」
どこか満足気な芥辺は、再び椅子に座ると読書を再開した。
(最近不機嫌だったりかと思えば今みたいに抱きしめてきたりしてる。そういえば昨日は部屋がすっごく臭かったし。なんなんだろう)
あかねは小首をかしげながら、もらってきたケーキを食べる支度をした。
「芥辺さん、ケーキもらってきたので一緒に食べませんか?」
そう言えば、芥辺はのそりと立ち上がりダイニングにある椅子に腰掛ける。 あかねは芥辺にモンブランを、自分にはショートケーキを出して椅子に座った。
「芥辺さん、美味しいですか?」
そう聞くあかねに芥辺が「美味しい」と答えると、あかねは幸せそうに笑った。
「良かった」
その顔を見た芥辺も、自然と(かすかにではあるが)微笑んでいた。それは、普段の彼を知っている者が見たら本当に芥辺なのかを疑うほどに優しい微笑みだった。
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