「…………」
小屋に入ってからみんな無口になった。もともと潔癖のペチュニアおばさんは、倒れてしまいそうなくらい顔色が悪い。バーノンおじさんもまさかここまでひどいとは思っていなかったようで、先ほどまでの笑顔が崩れていた。
小屋には入ってすぐの部屋にソファがあり、奥の部屋に二つのベッドがある。奥の二つをダーズリー夫妻が使うとして、残るソファはもちろんハリーではなくダドリーが使うことになった。ハリーは床で寝ることになったのだが、背中に当たる床板は湿っていて硬く、おばさんが探し出した毛布はカビ臭くて薄かった。
ガタガタと小屋全体を揺するような風が吹き荒れていて、ハリーは眠ることができなかった。ガタガタと震えながら何度も寝返りを打ち、なんとか楽な姿勢になろうとしていた。室内に雷の音とダドリーのいびき、ハリーのお腹の音が響き渡った。
ハリーはもはや寝ることを諦めて、朝になるのをじっと待っていた。ソファーからはみ出しているダドリーの腕時計を見ると、あと十分でハリーの誕生日になる。
ぼーっと時計の針が動くのを見つめていた。
(リーマスなら、祝ってくれるかな……そもそも誕生日教えてないから祝ってもらえるわけない、か)
もちろん、リーマスがハリーの誕生日を知っていて、さらにはプレゼントをどうしようかと頭を悩ましているなど、ハリーは知る由もなかった。
「ふぅ、あと一分か」
(手紙、もう来ないのかな……)
カチ、カチ、カチと時計の針が動くのを目で追う。あと三十秒。誕生日は何か特別なことが起こるといいな。……三……二……一……。
ドーン
小屋中が震えた。ハリーはびっくりしてその場から動くことができなかった。その後もドーン、ドーンと音は続いている。誰かがドアをノックしている。
ドーン
もう一度、凄まじいノックの音が聞こえた。
ダドリーが跳び起きた。
「なに? 大砲? どこ?」
ダドリーの声を聞いてやっとハリーは立ち上がり、ダドリーの寝ていたソファの後ろに隠れた。奥の部屋からネグリジェ姿のおばさんと、ライフル銃を持ったおじさんがすっ飛んできた。おばさんは、寝ぼけ眼のダドリーを抱きしめ悲鳴を上げた。
「誰だ。そこにいるのは。行っとくが、こっちには銃があるぞ!」
おじさんが銃を構えてそう言い放つと、それに応えるようにノックの音は止んだ。
そして……。
バターン!
扉が轟音を上げて床に倒れた。
その場にいた全員が一斉に先ほどまでドアがあったところを見ると、そこには大きな男の人が立っていた。ぼうぼうの長い髪ともじゃもじゃの荒々しいヒゲに隠れて、顔はほとんど見えない。ハリーは毛むくじゃらの中の、真っ黒で黄金虫のようにキラキラと輝いた瞳と目が合った。
巨人と言うには小さいが、それでも人とは思えないほどの背丈のあるその男は、よっこらせと窮屈そうに部屋に入ってきた。
男はソファに座りキョロキョロと辺りを見回した。そしてその目がハリーに止まると、
「オーッ、ハリーだ!」
とキラキラした目をくしゃくしゃにして笑った。ハリーはといえば、その声の大きさに驚いて固まっていた。
「最後におまえさんを見たときゃ、まだほんの赤ん坊だったなぁ。父さんそっくりの髪、母さんそっくりの目。間違いなく二人の子だ。大っきくなったなぁ」
男はハリーの頭をワシワシと(まるで犬を撫でるみたいに)撫でた。ハリーは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、なすがままになっている。力強く撫でる手は、外から来たというのにとても暖かかった。
(なんだろう。この声、聞いたことがあるような気がする……)
少し考えている間に、おじさんの銃が使い物にならなくなった。どうやらあの男の人が何かしたみたいだ。おじさんは相当驚いたようで、奇妙な声を上げている。踏みつけられたネズミのような声が小屋中に響いた。
「なにはともあれ……ハリーや、誕生日おめでとう。おまえさんにちょいとあげたいモンがある……」
「えっ」
今、この人はなんと言ったか。
おめでとう、と言ったように聞こえたが、ハリーは一瞬わからなかった。幼い頃からずっと望んでいた言葉は、あまりにも唐突にハリーに告げられたのだ。気がつけばハリーの目からは、大粒の涙が流れていた。
(なんで泣いてるんだろう、私)
大男はハリーに背を向け、大きくて黒いコートの内ポケットから、少しひしゃげた箱が出てきた。
「どっかでおれが尻に引いちまったかもしれんが、まあ味は変わらんだろ。ハリー?」
止めよう止めようとは思っていても、そうはいかないもので、結局ハリーの涙が止まったのは少ししてからだった。
「もう落ち着いたか?」
「……ごめんなさい」
泣いている間、その大きな膝に乗せてくれていた男にハリーは謝る。
「なに、気にせんでいい」
男はそう言って気さくに笑うとガシガシとハリーの頭を撫でた。
「ほれ、おまえさんの誕生日ケーキだ」
渡された箱をハリーが開けると、一人で食べるには大きなホールケーキが入っていた。
緑色の字で〈HAPPEE BIRTHDAE〉と描かれているのに思わず笑ってしまった。
「お、やっと笑ったなぁ。お前さんは母さんに似て美人さんだ」
「あの、おじさんは、だれなんですか?」
いろいろと聞きたいことがたくさんあったが、ハリーはとりあえずこの男の正体をはっきりさせようと思った。
「そうだ、まだ自己紹介をしとらんかった。おれはルビウス・ハグリッド。ホグワーツの鍵と領地を守る番人だ」
自らをハグリッドと名乗る大男は、巨大な手を差し出し、ハリーの腕をブンブン振って握手した。
「お前さん随分冷えてるじゃないか。お茶でも飲んで体を温めにゃならんぞ」
ハグリッドはハリーを膝から降ろしてソファに座らせると、次に火の気のない暖炉へ向かった。何やらモゴモゴと言っているのが聞こえた後、ハグリッドが身を引くと暖炉には轟々と火が起こっていた。ハリーは、これも魔法なのかと思ったが、ダーズリー家での長年の習慣により黙っていた。
火は湿った小屋の中をチラチラ揺らめく明かりで満たし、ハリーは暖かい湯にとっぷりとつかったような温もりが体中を包むのを感じた。
ハグリッドがハリーの隣に座ると、ソファが重みで沈んだ。彼はひしゃげたソーセージを焼きながらお茶の準備を始めた。太くて柔らかそうな、少し焦げたソーセージが六本。そのうちの一本をハリーへ渡した。
ハリーはどうしたものかと逡巡したのち、火傷をしないように慎重に一口かじった。
(美味しい……! 今まで食べたものの中で一番美味しい!)
空腹の限界がきていたハリーにはとてつもないご馳走のように思えた。
ハリーが嬉しそうにソーセージを食べているのを見てハグリッドは安心したように笑った。
「そんなにうまかったか。慌てんでもいっぱいあるぞ」
美味しそうな匂いが部屋に充満し始めると、とうとう我慢しきれなかったダドリーがハリーにソーセージを寄越せと言ってきた。
「俺にもそれ寄越せよハリー!」
殴られる前にとハリーはソーセージを渡そうとしたが、渡す前に男に止められてしまった。
「あんなデブチンにお前のをやらんでもいい、ハリー」
「おいハリー! さっさと寄越せよ!」
二人に言われたハリーがどうしたものかと思っていると、今まで固まっていたバーノンおじさんがダドリーに一喝した。
「ダドリー!」
ダドリーはしぶしぶ引き下がったが、顔は不満げだ。
「あの、私、あなたのことまだよくわからないんですけど……」
食べるのも一段落したハリーは、戸惑いがちに言った。
男はお茶をガブリと飲んだ。
「ハグリッドって呼んでくれ。さっきも言ったが、ホグワーツの番人をしている。……ホグワーツのことはもちろん知っとろうな?」
さも知っていて当然かのように問いかけられるが、生憎ハリーは知らなかった。
(ホグワーツ? もしかして、リーマスが言ってたところ?)
「あの……えっと、いいえ」
結局、知ってることなど無いに等しいので、ハリーは知らないと答えた。
ハリーの答えを聞いたとき、ハグリッドは信じられないというような顔をした。ハリーは何か変なことでも言ってしまったかと、不安になった。
「ごめんなさい」
思わずハリーが謝るとハグリッドはショックを受けたようだった。
「ごめんなさいだと?」
ハグリッドの吠えるような声に、ハリーはビクリと肩を震わせた。
(どうしよう。私、何か気に障るようなこと言っちゃったのかな)
そういえば、昔からダドリーたちも私が話すとムカつく、と言っていたことを思い出した。
ハリーが軽くパニックに陥っていると、ハグリッドはダーズリー一家を睨みつけた。
「ごめんなさいはこいつらのセリフだ。お前さんが手紙を受け取っていないのは知っとったが、まさかホグワーツのことも知らんとは思ってもみんかったぞ。なんてこった! お前の両親がいったいどこであんなにいろんなことを学んだのか、不思議に思わんかったのか?」
もうハリーは泣きそうだった。
「い、いろんなことって何ですか?」
思わず聞いてしまったが、ハリーは後悔した。またしてもハグリッドの雷のような怒声が響いたのだ。彼はダーズリーたちに詰め寄って、噛み付くようにこう言ったのだった。
「この子が……この子ともあろうものが……なにも知らんというのか……まったくなんにも?」
ダーズリー夫妻はすくみ上がって壁に張り付き、ダドリーなんかは目に涙を浮かべている。ハリーは、なんとかハグリッドの怒りを鎮めようと必死に言葉を紡いだ。
「私、少しなら知ってます。あまり成績は良くないけど、算数とかそんなのったらわかります」
しかし、ハグリッドは般若のような顔のまま首を横に振った。
「我々の世界のことだよ。つまり、おまえさんの世界だ。おれの世界でもあるし、おまえさんの両親の世界のことだ」
ハグリッドはこういっているが、ハリーには何のことだがさっぱりわからなかった。思わず聞いてしまっても仕方がないことだ。
「なんの世界?」
「ダーズリー!」
ハグリッドは火山が噴火したかのように吠えた。おじさんは真っ青な顔で、モゴモゴとなにか言っていた。
「ひっ」
ハグリッドはくるりとハリーの方を向くと、ハリーの肩を掴み燃えるような目で見つめた。そして、期待を込めた声でこう言ったのだ。
「じゃが、お前さんの父さん母さんのことは知っとるだろうな。両親は有名なんだ。お前さんも有名なんだよ」
「ご、ごめんなさい。お父さんとお母さんのことは、よくわからないんです」
そう言われてハグリッドはやっとハリーが半泣き状態にあることに気づいたのだ。
「ハリー!? す、すまん。ハリーに怒ってるわけじゃねぇんだ」
「ごっ、ごめんなさっ……」
ハグリッドは困ったという顔で目線を彷徨わせると、ハリーを抱き上げた。
「ほれ、ほれほれ。もう怒ってないぞ? ベロベロバー」
変な顔をして笑わせてくれるハグリッドに、ハリーは優しい人なんだなと思った。
「おまえさんには笑顔でいてほしいんだ」
慈愛に満ちた表情でそんなことを言われ、ハリーはどこかくすぐったいような気持ちだった。
「急に泣いたりしてごめんね、ハグリッド」
「いんや、ハリーが謝ることはねぇ」
ハグリッドはハリーを降ろすと、ハリーはここで待っていろと言い残しておじさんたちを引き連れて奥の部屋に入っていった。
「おいハリー、もう食べないのかよ」
「え? ああ、ソーセージ……」
正直ハリーはお腹が空いたどころではないので、ハグリッドには悪いがダドリーに残りのソーセージをあげた。
「ふん、まあまあだな」
全てのソーセージをたいらげると、ダドリーはソファに寝転がる。あんなことがあったのに寝れるとは、神経が太いのかなんなのか。途端にイビキをかいて眠るダドリーを見て、ハリーは急に現実に戻されたような気分になった。
ハグリッドのことも、いや、もしかしたらリーマスとのことだって全てハリーが見た夢だったのではないかとさえ思えてくる。
そうハリーが思いはじめた頃、隣の部屋にいっていたハグリッドが戻ってきた。
「あの頭がコチコチのマグルめ! なんと言おうとハリーは魔女なんだ!」
肩を怒らせて大きな足音を轟かせながらソファーにどかりと座る。
「ハグリッド。マグルとか、魔女って何?」
ハリーは、聞きなれない言葉への疑問を口にした。しかし、ハリーの声は小さすぎてハグリッドの耳には入らなかったようで、ハグリッドは依然(恐らくバーノンおじさんとペチュニアおばさんに対して)憤っていた。
「ハ、ハグリッド!」
なのでハリーは、ハグリッドの袖を引っ張って先ほどよりも大きな声で呼んだ。
「すまんなハリー。どうも腹が立ってしまってな。で、なんだ?」
「ううん、いいの。多分おじさんとおばさんがハグリッドに失礼なことを言ったんだと思うし。それより、マグルとか魔女とかって、何?」
ハグリッドのような人は、おじとおばの最も嫌いな部類に入ると思うし、二人はそういう人にはかなり失礼になるとハリーは知っているからだ。
「そうだった。ハリーに話さにきゃならんことがあるんだ。俺には荷が重いんだがなぁ。誰かが話さなきゃな」
ハグリッドは一呼吸おいてからハリーに話した。
「ハリー、お前は魔女だ」
「……私が?」
「それも、訓練さえ受けりゃそんじょそこらの魔法使いよりすごくなる。なんせ、ああいう父さんと母さんの子だ。さて、手紙を読む時がきたようだ」
ハグリッドが懐から例の手紙を取り出してハリーに手渡した。ハリーは未だに信じられないような心地だったが、恐る恐る手紙に手を伸ばした。
「…………ホグワーツ魔法魔術学校」
「世界一の魔法使いと魔女の名門校だ。七年もたてば、見違えるように立派な魔女になるぞ」
「でも、私、入学って……どうして」
「心配せんでもハリーの名前は生まれた時から入学名簿に載っておる」
ドキドキが止まらなかった。これから、まだ見たことのない世界に足を踏み入れるのだ。
リーマスと同じ魔法使いになれるのだ!
瞳をキラキラとさせ、興奮して頬を微かに桃色に染めるハリーを見て、ハグリッドはここまで来た甲斐があったなと思った。一方でハリーは、手紙を読み進めてふと気になったことがあったので、なぜか微笑んでこちらを見ているハグリッドに聞いてみた。
「あの、これ。ふくろう便を待つってどういう意味ですか?」
「おっとどっこい。忘れるとこだった」
ハグリッドはおでこを手でパチンと叩いてコートのポケットからふくろうを取り出した。
(生きてる、よね?)
少しもみくちゃになってはいたが、生きてる。本物だ。それからハリーが絵本でしか見たことのないような長い羽ペンと羊皮紙の巻紙を取り出した。
ハグリッドが走り書きをするのをハリーが横から覗き込んで読むと、明日は入学に必要なものを買いにいくという趣旨の内容がダンブルドアという人あてに書かれていた。
(変わった名前の人だなあ)
ハグリッドは手紙をふくろうのクチバシに加えさせ、戸を開けて嵐の中に放った。そのことにハリーが驚いていると、まるで電話でもかけたかのように当たり前という顔で、ソファに戻ってきた。
「さて、どこまで……ん? どうしたハリー」
「こんなひどい嵐の中を飛んでてフクロウは大丈夫かなって思って」
チラチラと外を見ているハリーの言葉を聞いてハグリッドは笑った。
「はははっ、こんな嵐でどうにかなるようなヤワな育て方はされておらん」
ハリーは優しいなぁと言われ、複雑な気持ちだった。別に優しくないよ、とハリーは心の中で呟いた。
「そうだった。魔法界のことを説明するところだった。ほれハリー、これを読め」
ハグリッドはハリーに、例の手紙とは別の少しクシャッとなった手紙を渡した。
俺は説明が苦手だからマクゴナガル先生が書いてくだすったんだ、と笑いながらハグリッドは言う。ハリーはマクゴナガル先生って誰なんだろうという疑問を抱きつつ手紙を読む。
手紙には、魔法界のこと、ホグワーツのこと、闇の帝王だというヴォルデモートのこと、そして……ハリーの両親がそのヴォルデモートに殺されたということが簡潔に書いてあった。
ペチュニアおばさんもバーノンおじさんもハリーの両親は自動車事故で死んだと言っていた。でも、それは嘘だったのだ。たしかに、お前の両親は悪い魔法使いに殺されたんだよとあの2人が言うわけがないのだが、それでもやっぱり嘘をつかれたことにはショックを受けた。
「……ヴォルデモートが、私のパパとママを殺したの?」
「その名を呼ばんでくれ! たしかに、『例のあの人』はお前さんの両親を殺した。だがな、ハリー。お前さんのことは殺せなかったんだよ。何人もの魔法使いや魔女を殺してきた奴がだ。お前さんは奇跡の子なんだ。魔法界の希望だ」
ハグリッドは優しさと敬意に輝く眼差しをハリーに向けてきた。くすぐったくて温かい、不思議な気持ちがハリーの胸に広がった。
「さぁて、ちぃとばかし寝るか! お前さんも眠いだろう? かく言う俺も夜通し走っとったから眠いんだ」
ハグリッドは大きな声で言った。
「明日は忙しいぞ。街へ行って、教科書やら何やら買わんとな」
そう言ってハグリッドは大きなあくびをした。正直に言うとハリーは興奮して寝るどころではなかったのだが、ハグリッドが貸してくれたコートの暖かさに負け、気がついたら眠りについていた。