朝、目が覚めた。起きた途端に不思議な痛みがハリーの体に広がる。筋肉痛に似たような軽い痛み。
「私、昨日の夜何をしてたっけ」
確か、動物園から帰ってきた後、部屋で静かにしてて……その後、夜になってから公園に行って……それで、えっと……。
「うーん……」
ハリーはなかなか思い出すことができなかった。しばらくして、そのうち思い出すだろうと高を括ったハリーは、おばさんにどやされる前にキッチンへ向かった。
「ひっ」
キッチンへ入った途端、おばさんの甲高い声が響く。ダドリーはハリーがきたので、少し機嫌がいいみたいだ。鬱憤を晴らす相手がやっときた、という顔をしている。
「おい小娘。そのメガネはどうした」
新聞から目を離したおじさんは、ハリーの新品同様になったメガネを見つけた。確かハリーのメガネはヒビが入っていてボロボロだったばず。そう思って発したバーノンの言葉を聞いて、ハリーはやっと昨日のことを思い出した。
(そうだ! 公園でリーマスにあって、その時メガネを直してもらったんだ!)
でも、どうやって直したんだろうか。
考えようにも頭に白い靄(もや)がかかっているような感じがしてうまく考えられない。
「ハリー?! 何とか言ったらどうなんだ?!」
「うぁ、えっと、いつもと変わりないよ? いつも通りボロボロ!」
ほら! とメガネを外してぶらぶらと手で振ってみると、おじさんはまだ不振そうな表情だったが、新聞に視線を戻した。
(ふぅ。なんとか誤魔化せた……かな? それにしても、思い出せないってことは今は思い出す必要がないってことだよね。とりあえず、メガネのことは考えないでおこう)
「ハリー! 朝食を食べたら買い物に行くよ! 遅れたら承知しないからね!」
「一緒に行ってもいいの?!」
「うるさいよ。いいからさっさと支度をおし!」
あのおばさんが、私を連れて買い物に?!
ハリーは信じられなかった。だって今まで一度だってハリーを連れて買い物になんて行ったことなどないのだから。初めての買い物に期待を膨らませながら、ハリーはお情け程度の朝食を急いで食べた。
◆
おばさんに連れられて来たのは、古着屋だった。ビルとビルの間にポツンとあるその店は、贔屓目に見ても客が来るような店には見えなかった。おばさんも知らなかったようで、
「あら、こんなところがあったの。ハリーの服を買うならここでいいわね」
と言っていた。
でも、よくよく見るとそこは尋常じゃないくらいに寂れていた。雨風にさらされて店名が見えなくなるほどボロボロになった看板。壁にはこれでもかというほど苔が付着していて、見るからに怪しい雰囲気だ。
店に入ると、妙に甘いようなどろりとした空気が体にまとわりつく。店主の男の人はニヤニヤと下品な顔をして笑っている。ヤニで黄色くなった歯が嫌に目立つ。
潔癖症のおばさんは耐えられるのかと顔を伺うと、顔を真っ赤にして何かを懸命に堪えている顔をしていた。ハリーとおばさんの意見が初めて一致した瞬間だった。おばさんは店内を走り回って一着の服を持ってきた。
「これを試着室で着なさい。そこのあなた、この子が着替えをすませたら私を呼んでちょうだい」
最後の一言は店主に向けたものだ。おばさんは少しもこの空気を吸いたくないようで、ちょっと失礼、と言って外に出て行ってしまった。
(外に出るならそもそもここで買わなきゃいいのに)
そこまでして安く済ませたいのか。ハリーは思わず苦笑いをしてしまった。
「お嬢ちゃん、名前は?」
先ほどの店主が試着室へハリー連れて行く際に尋ねてきた。この店の試着室はどうやら店の奥にあるらしく、服と服の間を縫うようにしてハリー達は歩いた。途中にあった扉を開ける際にレディーファーストをしてくれたので、この店主は案外紳士なのかしれない。
「ハリーです」
「なんと!それは素晴らしい名前をもらいましたな!」
(そんなにすごい名前でもないと思うけど……)
ハリーだなんて平凡な名前のどこが素晴らしいというのだろうか。
店主のおじさんはハリーが名前を言った時から何かを見極めるように見てくる。鋭い視線は居心地が悪かったが、ハリーにはそれよりも気になっていることがあった。
(暑い……)
この店の中は空調が聞いていないのか、妙に暑いのだ。あの妙な香りも気になる。早くこの店から出ないと、そんな風に思わせる何かがあった。
「ふぅ」
あまりの暑さに前髪を少しかきあげる。ふと視線をおじさんに戻すと、おじさんはびっくりした顔でこちらを見ていた。
「あの、どうかしましたか?」
「あなたは……! もしやポッターさんじゃないですか?!」
「え、どうして私のファミリーネームを知っているんですか?」
おじさんはハリーの問いかけには答えずに、「ポッターさんが来たぞ!」と大声で言った。すると、さっきまで感じていたどろりとした甘い空気が一気に無くなり、店の雰囲気も変わった。何があったのかは皆目見当がつかないが、なんにせよこれで少しは楽になった。
「ポッターさん、握手をしても?」
「うへぁ!?」
急に物陰から人の声がした。びっくりして変な声が出てしまい、ハリーは顔を赤くしてしまった。
「ど、どどどなたですか?」
どもってしまった。ああ恥ずかしい。穴があったら入りたい。そうハリーが思っていると、
「おお! ディグルの旦那! 注文の品はもう届いてるよ!」
「ジーン! この子がポッターさんかい?」
急に出てきた男の人(ディグルさん?)はおじさんから包みを受け取ると、少し興奮気味でそう言った。おじさんは、なぜか得意気に「そうさ!」と大きな声で言う。まるで、周りの人に言っているように妙に大きな声だった。
「なんと! ポッターさん、お会いできて光栄です! ぜひ握手をさせてください!」
「それは、かまわないですけど……?」
彼は急ぎ気味にそれでもしっかりと握手をしてからすぐに帰った。
「もう少しお話ししたかったのですが、急いでいるのでこれで失礼します。ではポッターさん、よい一日を」
そう言うやいなや、ボンっという音を響かせて急に消えたディグルさん。
彼が消えた跡をハリーが呆然と見ていると、
「ディグルの旦那、こりゃ帰ったらまた大騒ぎするな」
と笑いながら店主のおじさんは言った。
迷って初めて笑い顔を見たときは嫌な笑い方だと思ったが、今は笑うとえくぼが出て愛嬌のある顔だとハリーは思った。全体の雰囲気もどことなく汚らしいものだったが、今はガテン系の人の雰囲気をまとっている。
「俺がはじめと全然違うんで驚いたんでしょう?」
「え、なんでわかったんですか?」
「そう顔に書いてありやしたから。実は、この店は魔法族・スクイブ専用のマグル服専門店でしてねぇ。ここに店を構えてると、たまーにマグルの奴がふらふら〜っと来ちまうんですよ。こちとらマグルに売る服なんかねえですからね、俺の魔法でマグルがこの店を出ていきたいってぇ思ようにしてるんでさぁ。だからその魔法がかかってる間は俺がすごーく嫌な奴に見えたってぇわけですよ」
「魔法使い……マグル……魔法………?」
俺の魔法すごいでしょう?
と聞いてくるおじさんだったが、ハリーは何かを思い出しそうでその問いかけに気がつかなかった。
(魔法使い……どこかで聞いた気がする。どこでだっけ。たしか、昨日……)
……………そうだ! 思い出した! リーマスが魔法使いでメガネを直してもらったんだ!
わかったわかった! とスッキリしたハリーに、おじさんは笑って問いかけてきた。
「ポッターさんのとこにはもう手紙が来たんですかい?」
(手紙……そういえば、リーマスはそんなことも言ってた気がする)
「まだです」
「そうですか。でも、昨日フクロウが飛んでるのを見たんで、きっと明日には届いてるんじゃあないですかぃ?」
リーマスもそう言ってた。本当に手紙が来るのだろうか。
ハリーがうんうん唸っている間に、試着室に着いたようだ。シャーっとカーテンを開けると、中にはたくさんのダンボールが積まれていた。
「汚くてすいやせんねぇ。なにしろ普段なかなか使う機会がないもんで。じゃあ、その服に着替えたらさっきの通路を通って出てきて下せえ。俺は奥様を呼んでくるんで」
「はい」
おじさんが手早くひょいひょいとダンボールを抱えると、人が二人着替えても平気そうなほどの大きさの試着室になった。おじさんは先程通ってきた道を戻って行く。特に複雑な道でもないので、おそらくハリーだけでも戻ってこられるだろう。
「おじさんも魔法使いなんだ……」
人は見かけによらないとはよく言ったものだとハリーは思った。
ハリーはカーテンを閉めて、おばさんが選んだ服を着た。一応ダーズリーの家の子供として学校に行くわけだから粗末な服は選ばなかったらしい。くすんだ灰色のワンピースは型の古いものだったが、いつもダドリーのお古を着ているハリーにはとても可愛く見えた。
(スカートなんて初めてだ。かわいいなぁ)
着替える前に、ハリーは自分の前に服を持ち上げ、じっくり眺める。見ているだけで笑顔になってしまう。嬉しくてたまらなかった。
とはいえ、あまりゆっくり見ているわけにもいかない。おばさんを待たせたらまた怒られてしまう。
ハリーは素早く着替えて自分の服を持っておばさんのところへ戻った。
「あの、終わりました……」
やはりおばさんはここに居たくないらしく、できるだけ外に近いところに立っている。
「おお! よくお似合いですぜ、ポッターさん」
「本当ですか?! えへへ、ありがとうございます」
お世辞でも褒めてもらえたのが嬉しかった。自然と頬も緩む。ハリー自身も、初めて着たワンピースを気に入っていた。ハリーは、いつもダドリーのお古の大きな服(Tシャツにズボン)を着ていたので、よく男の子と間違われていたのだ。流石に何年も間違われ続けるとあまり気にしなくなるが、それでもやはり男の子と間違われることはハリーのコンプレックスだった。
「サイズは? これからずっと着るんだからもっと大きくてもいいんじゃないかい?」
「奥様、心配しなくても大丈夫でさぁ。この服はよく伸びるんで何年たっても着れますぜ」
おじさんはチラリとこちらを向いてウインクした。
(もしかしてこれにも魔法がかかってるのかな?)
おじさんとハリー、二人だけが知っている秘密。そんな感じがして、ハリーはなんだかくすぐったいような気持ちでいっぱいだった。
「ふん。じゃあさっさと帰るよ」
おばさんはさっさとお金を払って外へ出て行ってしまった。
「あっ」
(行っちゃった……)
まだ着替えていないのに。早く着替えてペチュニアおばさんの元へ行かないとまた怒られてしまう。
ハリーは急いで先ほどの更衣室へ戻り、着た時よりも早く着替えた。
「ポッターさん! 袋に入れますかい?」
「大丈夫です!!」
店の出口目指してハリーが走っていると、後ろから店主のおじさんの声がした。ハリーは申し訳ないと思いながらも、走る足を止めずに答えた。
(そうだ! 名前!)
走るのをやめ、くるりと振り向く。おじさんは急いでいたのにどうしたのだろうという顔をしていた。
「あの! おじさんの名前は!」
「ああ。そういやぁ自己紹介がまだでしたねぇ。俺はユージーン・グローヴァーってぇ名前でさぁ」
「ユージーンさん……ありがとうございました!」
最後にお礼を言ってまた走る。
おばさんの甲高い声が聞こえる。急がなくては。ユージーンさんの「ジーンでいいですよー!」という声をバックに、おばさんの元へ戻った。
「ハリー、遅いじゃないの! 全く、ボロい店だから服も安いと思ったけれど、そんなことないじゃない! こんなところもう二度と来たくないわ!」
おばさんはヒステリックにそう言った。おばさんには悪いが、ハリーはまた来ようと思っていた。
「私はすごくいいお店だと思ったよ?」
そうハリーが言うと、おばさんは形容し難い顔で、まぁ! と言い、その日はずっとハリーと口をきかなかった。