わたしは誰だったでしょう。荒れ狂う波の音だけが中身の無い応えを返す。黒く狂暴な海の底は見えない。髪をかき上げると潮風でべたついていた。白むこともない吐息が、虚空に消える。遠くに灯台が建っている。光は無い。昼の海を照らすわけがなかった。無限に続く灰色の雲。わたしは誰だったでしょう。わたしには分からない。
 アスファルトは踏みつけても文句を言わない。踏みつけている、とわたしが思い込んでいるだけなのかもしれない。足が無ければ踏むことも無い、それはとても素晴らしいことだ。きっと雲の果まで浮かんで行ける。立ち止まって、天に向けて手を伸ばす。棒切れのような腕は、ちっとも雲との距離を縮めない。足はしっかりとアスファルトを踏みつけている。わたしの体重を支えている。支えてしまっている。凶暴な波の音が絶え間なく続いている。
 テトラポッドにぶつかった波が飛沫を上げている。灯台守はいなかった。誰もいない。ならば、誰にもならない。朽ち果てた錠を拾って撫でる。愛おしむように。触れる度、錆が潮風に攫われていいく。さよなら、さよなら。そうしているうちに手のひらから何も無くなって、わたしはつるつるとした自分の手を撫でた。息絶えた灯台へ、足を踏み入れる。
 灯器は無い。空っぽの灯ろうまで、波の音が聞こえていた。それしか聞こえない。灰色の雲と黒い海が、世界の端で交わっている。その隙間にあなたはいる。
 カモメが鳴く。
 渡り鳥の声。それはとても近くから聞こえる。顎と胸の間、皮と骨の間が震えて、鳴いている。叫んでいる。呼んでいる。あなたの名前を、それだけを。豊かな翼なんて無い。それでも、わたしはカモメになる。海の向こう、雲の果て、あなたの下へ、辿り着くために。わたしは誰だったでしょう。わたしはカモメ。飛び出したわたしを、あなたは見つける。必ず。





カモメ
200915
イメージソング:カモメ/9mm Parabellum Bullet



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