悪いことをしている、というただの事実で浮き足立つ程度に平凡な心を持っていた。朝、いつも通り電車に乗って、気の迷いで学校の最寄り駅を通り過ぎた。下り方面の各駅停車は止まるたび乗客が減って、大きな鉄橋を渡る頃には車両から誰もいなくなってしまった。数年前まで住んでいた町への電車賃は、女子高校生の小遣いで足りただろうかと思案する。片道分は問題ないはずだ。帰りのことは、考えるのをやめた。
 懐かしいローカル線の改札はいつの間にかぴかぴかに改装されていて、私は唇を噛んだ。運賃表を見れば、目的地までの金額が記憶にある数字と合致してそれが逆に悲しみを助長する。始発のホームで待っていた電車も見たことがない新型車両で、もう泣いてしまいそうな気持ちになったところでずいぶん身軽なおじいさんが向かいの座席に着いたので、私はぐっと涙を堪えた。
 久しぶりに訪れた駅から外に出ると、夏の日差しが容赦なく真上から降り注いだ。蝉の声が大きいのか、それ以外の音が少ないのか、どちらもなのか分からないけどとにかくここは蝉の王国だった。立ち上るアスファルトの熱も感じながら、頼りない記憶をなぞって行く先を決める。いつもは誰か大人が連れ立ってくれたから、一人でその場所へ向かうのは初めてだった。
 急勾配の坂道を上り始めたあたりではっきりと道筋を思い出した。そういえばいつもは車で来ていた。道沿いに続く雑木林の影で直射日光は避けられているけど、相変わらずうるさい蝉時雨と一緒に汗が流れる。遠くから電車の音が聞こえた。昔住んでいた家で、夜中に聞いた音と同じだった。なんとなく音の方へ顔を向けて、広い空き地の向こうに大きな入道雲を見る。そういえば、一度だけ歩いてこの道を通ったことがある。同じような夏の日、母に手を引かれながら、同じような入道雲を見ていた。
 べたつく肌に嫌気が差してきた頃、坂の終わりにたどり着く。狭い駐車場の先にブロック塀が現れた。背の高い卒塔婆がはみ出している。門が開きっぱなしになっていたのに安堵して、小さな墓地へ足を踏み入れた。似たような墓石が並んでいるから目的の場所が分かるかまた心配になったけど、歩みを進めれば直感的に引き寄せられた。お母さんが呼んでくれてるのかな、と思う。女手ひとつで私を育ててくれた母は、骨も無いまま突然死んだと知らされた。お墓の中に母の欠片は無くともせめてそこにいてほしいと思うのは、ただの願望だった。
 直感がそこだと示す墓の前に、見知らぬ男が立っていた。少しくすんだ緑色の髪が目を引く。黒い詰襟の上に髪と同じような緑色の飾りを身に付けた、不思議な装いの男だった。私の足音に気付いた彼が振り向いて、水桶を持ったまま驚いたような顔をした。
「会えはしないだろうと言われていたんだがなあ」
 言葉の意味が飲み込めない。記憶の中にこんな男はいないし、親戚にしても、こんな若い男がいるなんて聞いたことが無かった。
「どちらさまですか?」
「そうだな、君の母を知っているものだ、とだけ言っておこうか」
「お仕事の関係、ですか?」
「まあ、そんなところだ」
 男の答えははっきりしない。でも、なぜだか悪い人とは思えなかった。
「なんで私が娘だって分かったんですか?」
「見れば分かる。よく似ている」
 ほんの少しだけ警戒心を解いて、お墓に近づく。お供え物は無いけど、綺麗に掃除されて水で汚れを流した形跡があった。
「掃除してくださったんですね。ありがとうございます」
「家は大切にするものさ。まあ、供え物はいらないと言われてしまったせいで何も持ってこなかったが」
「誰に言われたんですか?」
 男は急に黙って、お墓を見つめていた。
 そういえばいつの間にか、あんなにうるさかった蝉たちが黙りこくっている。湿っぽい風が私の心を逆撫でした。
「母とは、どんなお知り合いだったんですか?」
 日が陰っている。心臓の鼓動が早くなる。饒舌だった男は途端に何も話さなくなった。真顔で墓を見つめている。私は自分の直感を呪えばいいのか、感謝すればいいのか分からない。どうして母が死んだのかもずっと分からなかった。詳しくはお伝えできません、と政府の役人を名乗る誰かは言った。私は今なにを言えばいいのか、分からない。混乱する私の隣で、男がようやく口を開く。
「母というのは、いつの日も子を想うもの、だそうだ」
 誰にそう聞いたんですか、なんて聞けなかった。もう私は分かってしまっている。
「母は、生きているんですか」
 男はなにも答えない。ふと、彼は顔を上げて手のひらを天に見せる。そのとき私の頬にぽつりと水滴が落ちた。雨だ、と考える隙もなく雫がばたばたとこぼれ落ちてくる。辺りはあっという間に雨の音で埋め尽くされた。湿気で息が詰まりそうだった。
「いい雨だなあ」
 男はなにも聞こえていないようにそうつぶやくから、私はようやく、声を上げて泣いた。





夏蝉
190825 誰かと鶯丸
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#ふと街にたたずむ鶯丸・夏 企画参加



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