弟が結婚するそうだ。久しぶりに呼び出されて、姉弟水入らずで食事がしたいというから彼女となにかあったのかとは思っていたけれど良い意味で予想を裏切られた。照れながら報告する弟は子供の頃のように無邪気な笑顔で、僕はとても懐かしい気持ちになった。それこそ出会ったとき、初めて「兄」と呼んでくれたときのような笑顔だった。たしか弟にとって今のお相手は生涯三人目の彼女だったけれど、付き合いを始めたと報告してくれたときからなんとなく長続きしそうだと思っていたから驚きよりも納得感が強かった。そもそも弟は生真面目な性格だから一人目や二人目の彼女とも誠実なお付き合いをしていたし、いつか自分で家族を作りたいと語っていた。どちらかというと、僕は僕自身がほっとしていることに安心していた。
 僕は弟が好きだった。弟と言っても、僕と彼はたまたま同じ日に児童養護施設へ預けられただけで血縁関係は無い。片や母親に捨てられた僕と、片や不慮の事故で両親を一度に亡くした彼とでは境遇も全く違った。でも同じ日に知らない場所に放り込まれて、同じく心細い思いをしていた僕たちが仲良くなるのに時間はかからなかった。二人とも一人っ子だったからきょうだいに憧れていたのも同じで、そのとき男になりたいと思っていた僕が兄になって、ひとつ歳下だった彼は弟になった。かわいい弟のことを、女としての自分が異性として見ているのだと自覚したのは高校生の頃、弟に初めての彼女が出来たときだった。照れながらも彼女のことを嬉しそうに話す弟を見ながら、僕は自分の恋心と一緒に、弟が僕のことを女としては見てくれないことをはっきりと理解した。そもそも男であろうとしていたのは僕自身だった。弟が恋愛で悩んでいるときはどんなにつらくても最善策を一緒に考えて、弟が恋人と上手くいかなくなったときは僅かな希望を見いだしてしまう自分を必死に抑えながら一緒に悲しんだ。僕と弟は本当に「兄弟」だった。まわりも驚くくらいに、仲の良い兄弟だった。
 兄弟愛という重しを載せていた恋心はもうずっと昔にぺしゃんこになって、残骸があるだけだった。弟が僕にとって唯一の家族であることには変わりがなくて、そんな弟に心の底から想いあえる相手がいることは嘘偽り無く嬉しかった。気付かぬ間に恋心がまた膨らみ始めることだけが恐ろしかったけれど、結婚というひとつの節目を知らされても素直に祝福できたことで、ようやく僕も弟をただ弟として愛していけることが出来るのだと感慨深くすら思う。その一因には、いま目の前でティーカップを傾けている男も間違いなく噛んでいる。
「そういえばね、鶯丸」
「なんだ」
「弟が結婚するんだって」
「ほう、それはそれは」
 鶯丸と付き合い始めたのは大学生の頃、弟に二人目の彼女が出来た頃だった。進学をきっかけに男であろうとすることを止めていた僕は、ちゃんと女として、弟の「姉」として生きるために、いよいよ自分の恋心を完全に潰してしまおうと決意して、でも一人で抱えているだけでは爆発させてしまうような気がして、たまたまそのとき仲の良かった彼に洗いざらい吐いたのがきっかけだった。つい最近までは男になろうとしていた上に、血の繋がりが無いとはいえ弟のことが好きだなどと暴露した女に向かって鶯丸は「では俺にしておけ、俺はお前が好きだ」と宣った。流石にその場ですぐにとはいかなかったものの、なんやかんやで付き合い始めた自分を現金な女だと思わなくはなかったが、結局それから数年付き合いは続いているのだから悪い選択肢ではなかったのだろう。そもそも、ずっと隠していた気持ちを話すことが出来ると思う程度には心を許していた。
「大丈夫だったか」
「なにが?」
「お前の心持ちだ」
「うん、思っていたよりも大丈夫だったよ。ほっとした。なんだか今の子とはうまく行きそうな気がしてたし」
「そうか」
 そんな酷い始まり方をした僕たちでも、今ではちゃんとお互いのことを好きあっていた。鶯丸は本当にあの頃から僕のことを気にかけていたようだし、付き合いたてのときはまだ不安定だった自分を辛抱強く受け入れてくれた鶯丸に僕も惹かれていった。弟への恋心は身を焼かれるような思いがしたけれど、鶯丸への想いはじわじわと足元から温められていくようだった。
「お前はしたいと思うか」
「え?」
 ちょうど自分のティーカップを持ち上げたところだったから、鶯丸本人からは完全に意識が離れていた。おかげで頭の中は話の文脈も途切れさせてしまって、思わずまた聞き返す。
「なにを?」
「結婚だ」
 今日はこの後どこに行きたいか? とでも聞いているような口ぶりで鶯丸はそう言った。いつもと変わらない表情の鶯丸を、僕はただ見つめ返した。
「俺はお前と結婚したいと思っている。まあ、いつか先の話だがな。仕事のこともあるし、プロポーズはちゃんとするつもりだから気が向いたときにでも少し考えておいてくれ」
 そのとき僕はなんて返したのか覚えていない。ティーカップに沈んだ茶葉だけがなぜか印象に残っていた。

 幼い記憶にしか存在しない母親なんて大抵美化されるものだけど、例に漏れず僕の母も綺麗な人だった。たぶん、贔屓目を抜きにしても綺麗な顔をしていた。父親は知らない。母は今なにをしているのか、僕を捨てたときよく家に来ていた男と一緒になったのか、はたまた別の男に身を寄せたのか、知る由もないけれどなんにせよ母が愛していたのは男で、僕ではなかった。どうして僕を産んだのか分からないくらい、母は僕のことなど見ていなかった。僕が自分のことを僕と呼び始めたのもそのせいだった。初めは俺、と言ってみたらぶたれたからやめた。僕、と言ったとき部屋に来ていた男が「男の子なら外に出してもいいだろ」と言い放ったお陰で僕は寒空の下で一晩を明かした。翌朝母は機嫌が良かったから、僕は僕でいることにした。施設に置いていかれたときも、僕を女として扱おうとする大人たちのなかで僕は男だと叫んでいた。弟だけが僕を「兄」と呼んでくれた。そのときから僕の拠り所は母ではなく弟に代わっていたのだと思う。男であることをやめる、と宣言したときも弟はすんなりと「姉」を受け入れてくれた。僕が奥底では男になりきれていないことを分かっていたのかもしれない。
 それからは女に戻ることだけに必死だった。なんせ思春期のあいだずっと男の振りをしていた。正直に言うと鶯丸の告白を受け入れたのは、女として男と付き合えば女らしさをより身につけられるのではないか、と考えたのが理由のひとつだった。鶯丸もそれが分かっていて、からかいながらも僕の試行錯誤に付き合ってくれていた。弟も決意を伝えたその日から「それは女らしくない」だとか指摘がうるさくなっていたけれど、それはあくまで家族としての目線であって、男の目で僕を女にしてくれたのは鶯丸だった。もし鶯丸と別れて他の男と付き合うことになっても、僕はそれなりの「女」であれると思う。その点で鶯丸には感謝しきれない。では、鶯丸とずっと付き合うとしたら、どうなるのか。考えたこともなかった。
 あれから鶯丸はとくに結婚の話題を出すこともなく、会えばいつも通りに接してきた。僕はふとした折に結婚、という言葉が浮かんで思考が停止してしまう。話を聞き返すことが多くなっているだろうに、鶯丸は気にする様子もなく繰り返していた。僕がこうなることを見越して、本当のプロポーズをする前にあんなことを言ったのかもしれない。とすればプロポーズは存外遠い未来の話ではないのかもしれない。たしかに僕も鶯丸もそろそろいい年齢と言われる頃だった。まして歳下の弟が結婚するのだ。おかしな話では、ない。
 鶯丸はごく一般的な家庭で育ったらしい。大包平という弟がいることは聞いている。両親との関係も良好なようで、たまに実家へ帰っている。僕の弟は「家族を作りたい」と言っていた。鶯丸もそんなふうに自分の家族を作りたいと思っているのだろうか。僕は施設以外に帰る場所も無ければ顔を合わせる両親もいない。弟だって生まれたときから一緒にいるわけではない。家族を作るということは、子供がほしいのだろうか。僕は母親を知らない。僕の母は子供を産んだだけの女だった。母は男がいなくては生きられないようだった。僕はどうだろう? 仕事は母と違うけれど、女としてあることに精一杯なのは、もしかすると同じなのかもしれない。

 金曜夜、今日は鶯丸がうちに来る日だった。互いに一人暮らしをしているから、金曜日の仕事帰りにどちらかの家へ向かってそのまま土曜日までだらだら過ごすことはよくあった。そういう日の夕飯は一緒にお酒を飲むことに決めている。家主が好きなお酒を用意して、訪ねる側がつまみを調達してくる約束だ。二人とも料理をしないわけではないけれど、一週間あくせく働いたのだから一日くらいサボったって神様は許してくれるはずだ。
「ただいま」
「おかえり」
 先に帰宅していた僕が鶯丸を出迎える。合鍵を持ってるとはいえここは僕ひとりの家であって鶯丸の家ではないから、細かい指摘をするなら彼は「お邪魔します」とか言うべきなのだろうけど、月に一度くらいのペースで来ているのだしなんでもいいだろう。なぜか玄関で棒立ちになっている鶯丸に声をかける。
「どうしたの?」
「ああ、いや、スーパーでローストビーフが安くなっていたから買ってきた」
「おお! それは楽しみだ」
 特別贅沢をするわけではない。自分がつまみを買うときも大抵近所のスーパーで値引きシールがついた惣菜から選び始める。いい大人ではあるから休日のデートでそれなりの金額を出してもっとおいしいものを食べに行くこともあるけれど、自宅での食事なんてこんなものだ。鶯丸も僕も見栄を張りたがるタイプではないし、お互いがいれば満足するような付き合いだった。
 僕が冷蔵庫に入れておいたサングリア(これだって安い量産品だ)を取り出しているうちに鶯丸はあたためたつまみをテーブルに並べる。その間とくに会話は無いけれど、つけっぱなしにしていたテレビの雑音がほどよく流れている。食器も持ってテーブルへ向かうと、安っぽい柄つきのプラスチック容器に載ったローストビーフが中央に鎮座していた。
「この間おいしかったサングリアの赤を買ってみたよ」
「いいな」
「でしょう? よし」
 注いだグラスをひとつ鶯丸に渡して手を合わせる。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
 鶯丸もちゃんと手を合わせて僕に続く。僕はさっそくローストビーフに箸を伸ばした。
「うん、おいしいよ」
 飲み込んで視線を上げると、鶯丸は箸も持たずにこちらを見ていた。
「なに?」
「いや、なんでもない。俺もいただこう」
 どう見てもなにかある様子だったけれど、ローストビーフをつまんだ鶯丸が結構うまいな、と嬉しそうにしていたので気にしないことにした。

 食事も終わってテレビの前でだらだらと過ごしていたときだった。そろそろお風呂入ろうかなあと思ったところで、隣に座る鶯丸が口を開く。
「さっき」
「ん?」
「お前に『おかえり』と言われて、嬉しかった」
 隣を見れば、鶯丸はぽけっとテレビを見ながらそう言ったらしい。
「ふうん」
 僕もテレビに向き直るけど、無難な旅番組は特段面白いところもなかった。抱えているクッションに顔を半分埋める。
「お前と結婚できたら、毎日お前の『おかえり』を聞いて、毎日お前がうまそうに飯を食っている様子を見られるのかなあって」
 テレビに映った景色は綺麗だった。旅なんてしばらく行っていない。それどころか女としてちゃんと生活を始めてから行ったことが無かったかもしれない。僕はどうすればいいんだろう。
「それは、プロポーズなの?」
「いや、そうだったらいいなと思っただけだ。願いは口にすれば叶うと言うだろう」
 鶯丸を盗み見ても、やっぱり彼はテレビを眺めているままだった。画面の中では知らないタレントが楽しそうに会話している。
「僕はどうしたいかとか、聞かないんだね」
「俺が言いたいだけだからな」
 声の向きが変わったことに気付いて顔を上げれば、鶯丸が笑っていた。鶯丸はよく笑う。でもその笑顔が綺麗であればあるほど、本音は違うのだということを僕は知っていた。
「そんな顔させたいわけじゃなかった」
 そうつぶやくと鶯丸は驚いたように口角を下げた。僕は今度こそクッションに顔を埋める。化粧品のCMが耳障りだった。頭に大きな手が乗せられてわしゃわしゃと髪をなでた。
「すまん」
 辛うじて首は振ったけれど顔を上げられない。番組が変わったのか、軽快な音楽がテレビから流れる。突然それが途切れて鶯丸がテレビの電源を切ったのだと分かった。
「俺もお前を苦しめたいわけじゃない。嫌だったら遠慮せず言ってくれ」
 僕はさっきよりも大きく首を振った。嫌なわけじゃない。それだけ僕を想ってくれるのは嬉しい。頭ではわかっている。
「君は、家族がほしいの?」
 クッションを強く抱きしめる。言葉を発するときに口元だけ離したから聞こえてはいると思う。
「そうだな、いずれはほしいと思う」
「なんで?」
「なぜって、そうだな、家族が好きだったから、かな」
「……僕はだめだよ」
「なぜそう思う」
「話したでしょう、僕にとって家族は弟だけなんだよ」
「大切な弟だろう」
「そうだけど、そうじゃなくて」
 久しぶりに顔を上げると鶯丸が真面目な顔でこちらを見ていた。
「俺は、お前の側にいたい」
 特別大きな声だったわけではないのに、静かな部屋で鶯丸の声は際立っていた。
「側にいるだけなら、今のままでもできるのかもしれない。だが先のことなんて俺にも分からない。もしかすると、いつかどちらかの心が離れてしまうのかもしれないし、やっぱりお前は男になりたいと思い直して、お前を女として扱う俺とはいられなくなるのかもしれない。子供ができないかもしれないし、できても愛せないかもしれない。そもそも二人とも長生きできるかだって分からないだろう。でも、いま俺が少しでも長くお前の側にいたいと思っていることだけは確かだ。どんな未来があったとしても、いつかお前が俺のことを信じられなくなったとしても、あのときの俺は間違いなく本気でお前を想っていたのだと、それが分かる証を残したい」
 鶯丸がこんなに話すのは珍しかった。僕はなにも言えずに、その長い言葉を反芻していた。
「明日はどこに行きたい」
「え?」
 急に振られた質問は予想外で、やっぱりすぐ答えることはできなかった。
「明日は休みだろう。まあ、一日家にこもっていてもいいが」
「とくに、考えてなかったけど……」
「そうか。まあ俺もそうだ。なんでもいい」
 鶯丸の手が僕の頬に伸びる。
「お前といられたら、それでいいんだ」
 お母さんは僕を置いていった。膝丸とは恋人になれなかった。家族が隣にいてくれる時間は終わってしまった。僕は誰かと一緒じゃなきゃ生きていけないのかもしれない。だけど思い返せば、お母さんには知らない男がいたし膝丸にもかわいい彼女がいた。今度はお嫁さんになるかわいい子。そして鶯丸は、僕と一緒がいいと言う。
「泣かせたいわけでもなかったんだがな」
 そう言って笑う鶯丸の顔は、私が好きな眩しい笑顔だった。






190227 髭切♀と鶯丸(現パロ)
イメージソング:光/宇多田ヒカル



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