何も聞こえなかった。いや、聞こえてはいた。それが頭の中で文章として成り立たなかった。アナウンサーのはきはきと、しかし暗いトーンで吐き出される言葉らしきなにかが俺のまわりにぐるぐる巻き付く。「お兄ちゃん」連絡なんていくら待っても来ない。しつこいくらいにメールも電話も入れた。父さんも母さんも、いつからこんなずぼらになったんだ。父さんは確かにものぐさだけれど、母さんはいつも俺のこと叱るくせに。ひどいじゃないか。「お兄ちゃん」
「お兄ちゃんってば」
「……ごめん、なあにロッタ」
「おてて、いたい」
「ああ、ごめん」
「うん」
 いつの間にか強く握りすぎてしまったらしい。よく見るとロッタがとても暗い顔をしていた。これは我慢をしている。泣き虫のくせに、ただならぬ気配を感じ取ったのだろうか。
「……ごめんよロッタ」
 抱きしめたロッタが、ようやく声を上げて泣き始める。ごめん。ごめんよ。

「困ったわねえ」
「どうしたの?」
「今度ボランティアでペシに行くでしょう?参加する予定だった人が、急に行けなくなっちゃったのよ。力仕事を頼めるから助かってたんだけど」
「父さんに頼めば?」
「家のことはどうするの?」
「俺だって少しくらいならできるよ」
「ご飯もお掃除もお洗濯も?しかもちゃんと学校に行って、ロッタの面倒みながらよ?」
「うーん、がんばる」
「あら、珍しい」

 俺のせいだ、と思い込めればいっそよかったのかもしれない。俺が余計な気を回さなければ、父さんが巻き込まれることはなかったかもしれないし、もしかすると母さんだって事故に遭った列車には乗っていなかったかもしれない。そう考えて自分だけを責めて、塞ぎ込めればよかったのかもしれない。でもいくら後悔したところでこの悲しみは消えないし父さんも母さんも戻ってこない。ロッタを慰めることもできない。どうにかしたいのに、どうにもできない。この状況をただ受け入れるしかない、その事実がどこまでも残酷だった。

 大人たちが入れ替わり立ち替わり家にやってきた。一組目の話を管理人室で聞いたあと、二組目からはマンションのエントランスホールで面会した。知らない誰かが父さんの席に座って、気が滅入る話をするのが嫌だった。でもあるとき、長く話を聞いたあと部屋に戻るとロッタが玄関で待ち構えていて、俺の姿を見るなり泣き出した。よかった、お兄ちゃん帰ってきた、と。お家で待っててね、という言いつけは守っていたらしい。その次からはロッタを連れてエントランスへ向かった。
 父さんの遠い親戚がやって来たのはその頃だった。厳格な家で育ったものの、ふらふらとほっつき歩いていた父はいよいよ実家から縁を切られていたらしい。
「でも、あなた方に罪はないわ。子供だけで生きていくのも大変でしょう。我が家は広いし、近い年齢の息子もいるわ。大丈夫、難しいことはなにも考えないで、大人に任せればいいのよ」
 恰幅の良い女性だ。よく喋る。
「もしついて行くとしたら、どこで暮らすことになるんですか?」
「郊外のお家よ。ここから車で二時間くらい。こんなコンクリートに囲まれた街より、羽を伸ばして過ごせると思うわ」
「学校は」
「転校すればいいわ」
 どう言葉を続ければいいか考えていると、シャツの裾が引っ張られる。不安げなロッタの視線がこちらを見上げていた。
「お兄ちゃん、ロッタたち、違うお家に行くの?」
「ええロッタちゃん、おばさんたちと一緒に、みんなで暮らしましょう」
 俺の代わりに答えた女性と俺の顔を交互に見やり、シャツにしがみついたロッタはふるふると首を振った。
「ロッタ、ここのお家がいい」
「あら……困ったわねえ。ジーンくん、なんとか説得できない?」
 目の前にフィルターがかかったようだった。一瞬止まったような胸の鼓動が、気付いたときにはとくとくとスピードを上げる。
「……すみません、ありがたいお話ですが、僕も少し考えさせてください」
「え?本気で言っているの?あなた、子供だけで生活することがどれだけ大変か、分かってる?」
 その女が続ける言葉は追い打ちにしかならなかった。湧き上がる気持ちを抑えなくてはならない、と考える冷静さは残っていたけれど、本当に抑えられていたのかは分からない。
「――いま、この状況の、どこが大変じゃないって言うんですか」
 その大人はあからさまに慌てた様子で、口元で手を所在なさげに泳がせてた。
「そう、そうね……私ったら、ごめんなさいね」
「とにかく、時間をください。遠いところわざわざ来ていただいて、すみません」
「いいのよ。連絡先を渡しておくから。気になることがあればなんでも聞いて……それから将来のことをよく考えるといいわ。あなただけじゃなく、ロッタちゃんの将来もよ」
 テーブルの上で差し出された紙を無言で受け取った。顔を上げると、彼女は真剣な表情でこう言った。
「次は、迎えに来るわね」

 ぐずるロッタを寝かしつけて、家事をやっと終わらせた頃には遅い時間になっていた。
『困ったわねえ』
 同じ言葉でも、あんなに受け取る気持ちが違うなんて知らなかった。誰もいないダイニングテーブルに座る。目の前の椅子はしばらく空っぽだ。自分の部屋に移動しても落ち着かなかった。ロッタがぐっすり眠っていることを確かめて、玄関を開けた。
 遠くへ行ける時間ではない。こんな時間でもエントランスホールの明かりは消えず、煌々と光っている。それもそのはずだ、共用部分の明かりを操作するのは管理人の仕事だし、いまこのマンションにそのスイッチがどこにあるか知っているのは自分だけだった。ソファに座って天井を見上げる。昼間と何も変わらない天井。
「子供は早く寝ろ」
 振り返るとマンションの住人である男が立っていた。このマンションが出来てすぐに入居した古参の男。
「子供なんかじゃ」
「ティーンエイジャーだな、お前は若い」
 返す言葉も無かった。男が向かいのソファに座った。片手にはアルコール。もう片手に、火のついていない煙草。彼は酒の缶をテーブルに置いて、懐からライターを取り出した。
「……早く大人になりたい」
「大人の時間の方が長いんだ、そう焦る必要も無いさ」
 カチ、と火が灯る。ライターをしまって携帯灰皿を代わりに取り出す。煙を吐き出す動作も無駄がなく慣れた様子だった。
「だが確かに、大人は便利だ。酒が飲める。金を稼げる。煙草も吸える。しかしただそれだけだ。ただの大人なら、このマンションにもたくさんいる。俺だってそうだ。ただの大人なら、誰だって変わらないと思うぜ。俺はな」
 俺が無言になってしまったことなど気にもとめないように男はゆったりと煙草を吸い、たまに酒を飲んだ。大げさな呼気と喉を動かす音が、静かなエントランスホールでやたらと目立つ。
「とりあえず、ここでデリケートな話をするのはやめておけよ」
 男は灰皿に煙草をしまいながらそう言った。そのまま缶を煽って立ち上がる。
「あの」
「なんだ」
「……今度、ください。煙草」
「お前が大人になったらな」
 煙の匂いだけを残して、男はマンションの奥へ戻って行った。

 自分もソファから立ち上がる。自然と視線が向いていた足元を見つめた。父さんが俺に似合うと見つけた靴。母さんがその靴に合わせられると買ったズボン。立っているだけで精一杯だった。ここで崩れてはいけない。部屋でロッタが待っている。もうこれ以上泣かせたくない。俺はちゃんと、父さんと母さんにもらった足で、立っている。
 声を上げて泣いたのは、それが最初で最後だった。






この足よどうか折れずに
180403 ジーン



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