「ニコラス」
「げ」
 逃げ出そうとしたのに、すぐさま俺の腕を掴んだ男の険悪な表情。最悪だ。
「今度ばかりは見逃せない」
「ほら言ったじゃん、俺は知らないよ」
「見捨てるなよハルー!」
 じゃあねー、なんてお気楽な捨て台詞を吐いてハロルドは玄関に向かってしまった。恐る恐る目の前の男に視線を戻す。
「……やあリーヌスくん、ご機嫌よう!」
「…………」
 リーヌスが全く動かない。
「あー、帰っていい?」
「…………」
「へへへ……」
 あ、眉間の皺が増えた。そろそろまずい。
「わーかったよ! やればいいんだろやれば!」
「期日は過ぎてるんだ」
「へいへい」
 面倒な宿題ひとつでこんな躍起になるんだから優等生サマはすごい。提出しなくても俺が先生に怒られるだけで、彼の加点になるわけでもないのに。
「先生に頼まれたんだよ、『全員分集めてくれ、とくにサンドパイパーの分も』って」
 超能力者かこいつは。

 教室の自席に戻ってノートを開く。リーヌスは律儀にひとつ前の席を俺の方に向けて腰掛け、本を開いた。
「見えてるから逃げちゃダメだよ」
「……逃げねーよ」
 先に言われてはふざける気も失せる。
 まだ残っていた生徒たちから時たまちゃちゃを入れられながら、退屈な反復練習を続けているといつの間にか教室には誰もいなくなてしまった。リーヌスはまだ本をめくっている。
「頼まれたからってよく付き合うよな」
「家で読むか教室で読むかの違いだよ。でも早く帰るに越したことはないから、さっさと片付けてね」
「言われなくても」
 外から運動系クラブのかけ声が聞こえてくる。高校生とはかくありき。自分はもっとのんびり過ごしたかったのでクラブには入らなかったけれど、その分ハロルドをはじめとした級友たちとはしゃぐ放課後を謳歌していた(そういう意味で本日は非常に不本意である)。どうせ大人になれば働かなきゃならない。それなら今はテキトーにやり過ごして、青春を楽しまなければもったいない。
「リーヌスはさあ、なんでそんな真面目なわけ」
「不真面目が嫌いなんだよ」
「ふうん」
 答えになっていないような気もするけれど、これ以上続けても押し問答になる予感がしてそそくさと切り上げた。
「かーったりーなあ」
「あと少しだろう、やるべきことはやらなきゃ」
 改めてノートに向き合うと、途端に面倒くささが押し寄せる。優等生な催促は、更にやる気を削いでいくだけだった。
「お前ほんっと真面目だな、少しは肩の力抜けよ」
「力を抜くべきところでは抜いてる」
「へいへい、優等生サマは流石です」
 とはいえ早く帰りたい。帰るためにはこの厄介なモンスターを片付けなければならない。やれやれとシャープペンシルを立てる。
「……学年トップは君だろ」
「あんなのたまたまだよ、たまたま」
 偶然俺よりも飲み込みの早い生徒がいなかっただけ。偶然俺は高校の勉強もすんなり理解出来ただけ。なにを努力したわけでもない。たまたま走るのが速い奴、たまたま人の気持ちを察するのが得意な奴、そういうのと同じだ。
「たまたまで僕よりいい点数取ったって言うのか」
「運が良かったんだ」
「馬鹿にするのもいい加減にしてくれ」
 低い声に顔を上げると、リーヌスは読んでいた本を膝に置いて険しい顔をしていた。
「別に馬鹿にしてるわけじゃ……」
「じゃあなんだっていうんだ」
「いや、なんていうか……」
「もういい、早く終わらせてくれ」
 リーヌスは不機嫌そうな顔で読書に戻る。
「んだよ……」
 悪態にもならないつぶやきを残しても、彼はぴくりとも反応しない。とにかく早く帰りたい。その一心で一気に残りを片付けた。
「ほらよ」
 わざとらしくノートを畳み、筆記具を乱暴に片付け始める。
「お疲れ」
 リーヌスは口でそう言いながら俺に一瞥もくれず、ノートを持って立ち上がる。教室の扉を閉める音が、放課後の校舎にけたたましく響いていた。

「っていうことがあった」
 昼食時の中庭、朝から挨拶もせず、あからさまに避けている俺たちを見てハロルドから昨日のことを尋ねられた。
「そっかあ、それは……うーん」
「意味分かんねえだろ」
「いやちょっと分かるよ」
「嘘だろまじで!?」
「ニックは勉強得意だけど、俺……というか大体の人は、ちゃんと家で復習とかしなきゃ忘れちゃうからさ」
「それは分かるけど、俺は別に願って勉強できるようになったわけじゃないぜ? たまたまラッキーだったのを僻まれたってどうしようもねえよ」
 ハロルドはまたうーん、と考え込んだ。唸っている間に、購買のサンドイッチを食べて紙パックのジュースを飲む。ちなみにハルは親御さんの作った弁当。放任主義な我が家と違って、彼の家は世話焼きな印象がある。こうやって人のことを真剣に考える本人も、まさしくその血を受け継いでいるのだろう。
「そうだなあ、ニックはさ、なにかすごーくがんばったことある?」
「ない」
「返事早いなあ」
 困ったように笑われても仕方がない。それで上手く生きてこれてしまったのだから。
「じゃあ、俺が今から言うこと想像してみて」
「わかった」
 なんとなく、居直してハロルドの言葉を待つ。話はこうだ。
 俺はとても欲しいゲームがある。子供の頃からずっと欲しくて発売を待ちわびたゲームだ。そのゲームを買うためにアルバイトも頑張って小遣いを貯めた。そして発売日、なんとか集まったお金を握りしめて店に並ぶ。ゲームを買えるのはその店だけで、先着順の店頭販売しかしていない。しかもひとつだけプレミア付きの限定版がある。俺はとても朝早くに家を出て、なんとか列の先頭に立った。
「ニコラス、君はいまどんな気持ち?」
「最高に楽しみ!」
「オーケー」
 ハロルドは話を続ける。
 刻一刻と迫る開店時間。俺はまだかまだかと待ちきれない。するとそこに、一人の男がやって来る。年齢は自分と同じくらい。彼は俺が先頭の列には並ばず、なぜか俺の隣に立つ。不思議に思っていると開店時間になって店員がやって来る。俺は喜び勇んで店員にプレミア付きのゲームをくれ、と注文する。
「だが店員はこう言う。『君には売れない。プレミア付きは、君の隣にいる男の子のものだ』」
「なんでだよ!」
「実は彼が特別な優先券を持っていたから。だから列にも並んでいなかったのさ」
「なんでそんなの持ってるわけ、そいつは」
「運が良かっただけ。たまたま家のポストに入ってた」
「反則だろそんなの」
「それがリーヌスの気持ちだと思うよ」
 残り少ないジュースをストローで吸い込む。紙パックがズズっと鳴った。
「……なるほど」
「伝わってよかった」
 にこにこ、という擬音がここまで似合う男もそういないと思う。おっとりしているようで、意外に鋭く人を見る目があるのだ、この友人は。しかしそれでいて斜に構えるわけでもない。
「お前っていい奴だよなあ」
「なんだよ急に」
「なんかそー思っただけ」
「変なの。あ、そろそろ教室戻らなきゃ。そういえば今日の提出物も面倒だったね」
「提出物?」
「……え?」
「え?」

 最悪も最悪、最低だ。二日続けて宿題のせいで居残りだなんて信じられるか。しかもまた無駄に量をこなすだけのかったるいやつ。ツイてない。ツイているならしっかり家でやっておいたのかというとそれはまた別の問題だが、なんにしたって面倒くさい。だらだらと進めていたら、また教室から人がいなくなってしまった。ちなみにハロルドなら誰よりも早く帰っている。こういうところは薄情な奴だ。そんなことを考えていたところで、ガラガラと教室の扉が開いた。
「げ」
「……」
 俺の声に気づいて顔を向けた瞬間、あからさまに彼――リーヌスは嫌悪感を剥き出しにしていた。
「お前もまだいたのか」
「……忘れ物」
 リーヌスは自分の机から荷物を取り出してすぐさま立ち去ろうとした。
「おい!」
 思わず呼びかけておいて、リーヌスが立ち止まったのが意外だった。なにを話しかけるべきかも考えていない。リーヌスの背中は居心地が悪そうにしている。
「昨日は、悪かったよ」
 ひとまず絞り出したのは謝罪の言葉だった。
「なんで」
 低い声には棘がある。だが俺の話を聞く気はあるらしい。
「なんでって……お前のこと、よく分かってなかったなって思って」
「君に僕の何が分かる」
「いや、あんまり分かんねえけど」
 リーヌスがやっとこちらを向いた。相変わらずむすっと怖い顔をしている。
「ていうか、分かるわけねえだろ。お前はお前だし、俺は俺だし。ハロルドと話してちょっとだけ分かったけどさ、あくまで俺の想像でしかないし」
「なにを?」
「悔しかったんだろうなあって。でも俺はその気持ち分かんねえから」
「僕だって、君の気持ちなんて一生分からない」
「うん、だよな」
「だから……」
「ん?」
「だから悔しい。だから腹が立つ。だから……僕は君が羨ましい」
 意外な言葉だった。リーヌスはもう怖い顔をやめている。あの剣幕はどこへやら、声もどこか弱々しかった。
「羨ましい……」
 声に出して反復しても、なかなか実感が得られない。羨ましい。なるほど。唖然としているうちに、リーヌスはまた帰ろうとする。
「リーヌス!」
「なんだよ」
 あ、また嫌そうな顔。だがさっきとは少し違う気がする。ただ、またなにも考えず引き止めてしまった。こういうときどうすればいいか……悩みかけたところで素晴らしい案を思いつく。咄嗟に閃いた自分を褒めたい。これはいける。
「もっと褒めていいぜ!」
 今日のリーヌスは珍しく百面相をしている。こいつの間抜け顔なんて、そう拝めるものじゃない。
「……なんだそれ」
 リーヌスが吹き出した。喧嘩は相手を笑わせた者が勝つ、それが我が家の教えである。






一本取って勝ち
180306 サンドパイパーとカナリー



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