コロレーは私にとって忌むべき土地なのかもしれない。紫色の雲に覆われ、雨の中で甘い香りに包まれる街。物語の分岐点は必ずその街だった。姫が世界を知った街。ジーンが己の出自を知った街。私の人生を決め、私の人生を揺るがした街。
 穏やかすぎる日々だった。昇進してからというもの、週末の休日でさえ持て余すようになってしまっていた。読書に勤しむか、たまにポチャード氏から誘われ劇場へ赴く程度で、随分と緩やかで余白が多い。監察課長として各区の情勢に神経を尖らせたり、王家に忠誠を誓う者としてのつとめを果たしたり、常に気を張り詰めていたときに費やした時間はあまりに濃く目まぐるしかった。旅へ出ようと思い立ったのもただ単に、煩わしい長期休暇をまとめて潰すのにちょうどよいと考えただけだ。行き先すらとくに希望があったわけでもない。しかしそれを考えたとき、ふと頭にその街が浮かんだのはやはりなにかの因縁かもしれない。
 なるべく人目につかぬよう空港へ向かい、なるべくひっそりと搭乗手続きを済ませる。目撃されたところで必要にせまられて致し方なく、と答えればよい話だが、嘘は必要最低限でいい。隣の区であるバードンから飛行機で二、三時間、これといった体調不良などに悩まされることもなく、都市部へ到着した。街は落ち着いた雰囲気で歩く人々もどこか洒落ている。だがその身の内に熱い想いを秘めた人々が多いことを私は知っていた。姫が出会った若者たちや、ACCA本部長が典型的な例だ。そしてこの街はよくも悪くも個人に対してシビアだった。己はなにを行うか、己はどう生きるか。余生の過ごし方もこの街の人々であればスマートなのだろうと、都合の良い妄想に耽った。

「おや」
 立ち寄ったカフェで聞き覚えのある、芯の通った女性の声をかけられた。
「オウルくん。君とここで出会うとは」
「私も驚いています、本部長」
 店に入ってきたのは今しがた思い出していたモーヴ本部長その人。決して大きなカフェではない。観光名所からも少し離れ、大通りから一本横道へ入ったところにある古い店だった。
「折角だ、相席しても?」
「ええ、もちろん」
「バードンからは何日かかった?」
 本部長が美しく口角を上げている。五長官しか知らないはずのクロウについても把握していた彼女だ。監察課の誰もが知る私の“設定”など、調べなくとも耳にしていただろう。
「今回ばかりは、意を決して数時間で到着いたしました」
「ふ、そうか。難儀なものだな」
 モーヴ女史が注文したコーヒーとケーキが運ばれてくると、彼女の顔がぱっと明るくなった。
「このケーキが美味でな。よく通っているのだよ」
 意外にこの女性はころころと表情を変える。そもそも女性というのはそういうものかもしれない。
「そうでしたか。私もちょうど食べ終えたところです」
「それはよい。調べたのか?」
「知人に勧められまして」
「ほう。その知人はなかなか乙だな。このカフェはかつて……」
 ケーキにフォークを入れた女史が、はたと動きを止める。
「どうかされましたか?」
 顔を上げたモーヴ女史は私の顔をしばし見つめ、ふ、と笑みをこぼしながらまたフォークに視線を戻した。
「……いや、無粋な話だ。やめておこう」
 本部長がどこまで私のことを知っているのかはわからない。だがなにか勘づいたのだろう。この近くに有名な学校がある。内向的な王家の人間が留学など、そこかしこで話題になっていた。きっとこの店も例外でないはずだ。姫が通っていた店。スイーツの名店がひしめき、洗練された味に慣れたドーワーの人間が好んで食べたケーキ。
「滞在はいつまで?」
「三日後の朝まで」
「観光する場所は決めているか?」
「いえ、気の向くままに」
「それも一興。私は旧市街の西にある聖堂がおすすめだ。こぢんまりとしているが、祭壇のステンドグラスが美しい。あとはその近くにある赤い屋根のチョコレート屋も一押しだ。区外の知人にはいつも教えている。もし気が向いたら、行ってみるといい」
「ありがとうございます。参考にさせていただきましょう」
 思いの外、女史はよく喋った。この街を愛しているのだろう。街について語る表情はACCA本部庁舎で見かけるときより随分朗らかだった。そしてまた、彼女は顔を綻ばせる。
「ここのケーキは本当に美味しい」

 本部長と別れ、一人旧市街へ向かう。姫の留学は短期間だったこともあり、観光は近場の名所で済ませていた。そもそも、王族の人間がお出ましになるとあれば、施設側もそれなりの対応に迫られる。区民がみな慣れているドーワーとは違う。必然的にそういった準備ができる規模でないと訪問すら難しいのだ。過去の遺物が残る程度で、基本的にはまだ居住地として活用されている旧市街に姫が足を踏み入れることは叶わない……はずだった。ある夜、あろうことか姫は若者たちに連れられこっそりホテルを抜け出し、旧市街を回って歩いていた。姫を怒鳴りつけたのはその一度きり。忘れもしない。月明かりの下、彼女を見つけたのは確かにこの聖堂の前だった。傍らに赤い屋根のチョコレート屋がある。その夜の事件は王族関係者で内密に処理されており世間に出回っていない。流石の本部長でも知る由は無いはずだ。この街はやはり数奇な巡り合わせを引き寄せるのかもしれない。
 祈りの時間でもない聖堂は静かだった。観光客も私以外に見当たらない。地元の住人らしき老婆が一人熱心に祈りを捧げている。祭壇の上から、ステンドグラスの聖女が我々を見下ろしていた。
 ――神には願わない。世界を変えるのは自分自身だ。神はただ、見守ってくださるだけ。
 そんなことを言っていたのは若者たちの中心にいた青年だったらしい。彼らと出会って、姫はより強くなられた。本当なら私の助けなど不要だった。必要だったのは、鳥籠の扉を外から開けることだけ。その役目を終えた私はただ無力だった。あの夜、あの写真の中から姫が私を見つめていた。それはまるで、このステンドグラスの聖女のように。

 チョコレート店は聖堂と同じくこぢんまりとしていたが種類も豊富で魅力的だった。私が入ったときには先客が会計をしていて、ショーウィンドウを眺めている間に新たな客も入ってきた。カウンターにいる店員は一人だったが、この小さな店でほとんど退屈することなく接客をしているらしい。後から入ってきた方の客は「いつもの量で」と注文をつけていた。土産を買うとしても最終日がよいだろう。そもそも自分の記念以外で渡す相手なぞ数えるほどもいないが、バウム氏になにか選んでよいかもしれない。一瞬チョコレート好きの親子の顔が浮かんだが、どうせ息子の方は自分の足で気に入った店へ立ち寄っているのだろう。土産をやるような間柄でもない。姫のお子たちであれば、監察課にまだ在籍していた時期ならあるいは。だがやはり嘘は最低限でいい。今夜のホテルで晩酌のつまみにできそうなものだけ見繕った。
 旧市街からホテルまでは少し距離があったが、散歩ついでに徒歩で移動する。道すがら小ぶりな銘酒を一本購入し、簡単に夕食をとった。レストランを出るとき、入店する男と肩が当たる。
「失敬」
「すまん」
 どこか聞いたことのあるような声だった。振り返ると男は幼い子供の手を引いている。
「おじいちゃん、僕今日はね……」
 店の扉が閉まる。男がこちらの視線へ気付く前に、その場を立ち去った。ジーンと同い年のノットくんは三人の子供がいる。そう考えれば、おかしくない年齢だ。

 ホテルの部屋でチョコレートに舌鼓を打つ。白ワインとよく合う。夕食をとったレストランも庶民向けの質素な店だったがこだわりを感じ取れる味で、やはりここは美食の街だった。脱走した翌日、より厳重な親衛隊の監視下に置かれた姫が、高級レストランでとった昼食ののちこぼした愚痴を思い出す。
 ――美味しかったのに、美味しくないと思ったの。昨日までの昼食の方が質素だけれどずっと美味しかった。
 姫たっての希望で、平日の昼食は学校の食堂で召し上がっていた。そこで仲良くなったのがあの若者たちだった。高貴な身分であられるお方の危うさを、彼らにきつく説いたことも懐かしい。皮肉な思い出だ。かつての若者たちは、今どんな生活を送っているのだろうか。レストランですれ違った男が、本当に若者たちの誰かであったかは分からない。誰であったとしても、我々に再会は有り得ない。アーベントは船と共に沈んだ。ACCA本部の一局員であるオウルと、彼らが出会うことはない。
 朝食はルームサービスを頼んだ。一人の時間は嫌いではない。旅の行程はフロントマンのおすすめを聞こう。姫と訪ねた地を挙げられるならそれはまた一興だ。明日も一人で食べるバタートーストが一日を始める。






コロレーにて
180209 オウル



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