必要な時間なんて計らなくても分かる。完璧主義だからこんな手段を使ったことはないけれど、対象の状態を見ていれば力加減も容易いものだった。
「く、」
 見下ろした柿ピーの顔が歪んでいる。表情が乏しい男の貴重な光景だ。仰向けに横たわる柿ピーの首に手をかけ、圧迫しているのは私。先に弁明しておくと、これは私の意思じゃない。この男が自ら望んだこと。望んだどころではない、私に「首を絞めてくれ」と懇願してきたのだ。
 ぬるい皮と堅い骨の存在が両手から伝わっている。肉の感覚はあまり無い。血管だけが必死に抵抗している。それを邪魔しろと指示したのが、まさに血液を届けようとしている相手だとは露知らず、いかれた脳みそのとんだ我が儘に付き合わされているのだ、かわいそうに。私は慈悲深いから健気な血管に救いの手を差し伸べてやることにした。と言っても実際には手を離すわけだから、おかしな話ね。
「かはっ、が、はっ……」
 柿ピーは酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。自分から酸素を拒否したくせに、身体はそうじゃないんだから笑える。今頃血管も安心して仕事に励んでいるんでしょう。どうせまた数日後、同じ状況になることも知らないで。

 この行為は一度や二度のことではなかった。それどころか、私が一度承諾してしまったのをいいことに、繰り返し何度も付き合わされていた。なぜ私が手を貸してやらなければならないのか、とも考えたけどどうせ他に当てが無いのだろう。柿ピーが赤の他人に働きかけるほどの社交性も行動力も持ち合わせているとは思えないから、必然的に頼るのは身内。でも相棒は一歩間違えば首を折りかねないし、一応弟弟子であるガキに至ってはこれ幸いと事故を装い、本気で息の根を止めにかかるかもしれない。なんやかんや妹分のように世話を焼いているあの女は虫も殺したことがないような人間だからきっと無理。まして崇拝する主人に下衆な頼みを出来るはずもない。
 そう、これは下衆な願いだった。何度かマゾヒストの願いを叶えてやっていると、気付くこともままある。人間は死に瀕する体験をすると生殖本能が刺激される、というのはよく聞く言説だけれど、つまりそういうこと。ある日男の身体の変化に気付いて、私は気持ち悪さよりもまず、その時になってようやく気付いた自分の愚かさに呆れた。確かにこの男が私に不利益をもたらす可能性は低い。まずビジネス上のメリットが無い。そもそも男が興奮しているのは、首を圧迫されるという行為そのものであって首を圧迫している私ではないことなど明白だった。だとしても、気を許しすぎるのはプロとして失格だ。そのことにとても腹が立った。
 不幸なことに、私はその日仕事でくだらないミスをして(もちろんカバーはした)、苛々していた。そしてこの茶番の相手に私が選ばれたのはただの偶然であったとしても、残念なことに私は女でこいつは男だった。更に残念なことに、私もこいつも異性愛者だった。だから私は、目の前にいる私へ全く意識を向けていない男にまで腹が立った。顔だちもスタイルも自信がある。いくらでも利用してきた。それなのに全く興味を示さず、他のことに気を取られている男の態度を女としてのプライドが許さなかった。
 馬鹿にしてやるつもりだった。挑発して、弱みを握ってやるつもりだった。だから首に押し付けていた手を片方離して、その場所に触れてやった。仏頂面がいつも以上に負の感情を垂れ流す様を見たかった。
 なのに期待は裏切られた。男は気持ち悪いくらい綺麗に口角を上げた。その瞬間羞恥心と混乱が体の奥から押し寄せて来て、吐き出しそうになった。咄嗟に、そのまま勢いに乗せて憎たらしい男の唇に食らいつく。ぬるい空気と液体に自分でも解読できない混沌をそのまま吐いて、誤魔化して、考えることを放棄しかけたところでああ、今日は本当についてない、と心底呆れたのを覚えている。陥れるはずが、ずぶずぶと嵌っていったのは私の方だった。そこでむずかしいことはぜんぶやめた。肉体のなすがまま、よりによってこんな男と、普段の私なら卒倒しそうなはずなのにその行為は今まで経験したどれよりも気持ちがよかった。

「M.M」
 合図は決まった。柿ピーが私をわざわざ名前で呼ぶとき。普段は「あんた」なんて呼ばれることも稀なくらいなのに、他の奴らが出払って、しばらく帰ってこないのが分かっているとき、名前を呼ぶ。こんな男と金にもならない行為を続けることに対して馬鹿馬鹿しいと思わないこともなかったが、考えてみれば私も気持ちがいいのは嫌いじゃないし、裏を返せば金もリスクも払わずに快楽を得られるのだから儲けものだ。
 そうしてまた男の首を絞める。殺さない程度に、だけど苦しむ程度に。ちょうどいい頃合いで手を離す。咳き込みながらもとろんとした目で私ではない虚空を見つめる。
「ねえ千種」
 先に名前を呼んだのはそっちだ。だから私も間抜けなあだ名じゃなくて名前で呼んでやる。これはただのごっこ遊び。
「……なに」
 その声色が予想以上に機嫌の悪さを主張していて、思わずどきりとした。たかだか遊びでしょう、真に受けないでよ。
「――なんで私に頼んだの」
「さあ」
「こんだけ金も寄越さずこき使っておいて、よくそんな口が叩けるわね」
 男の扱いには慣れている。思ってもいないことがするすると出てくるのは最早癖だ。面倒事が嫌いで多少は頭が回る千種は、溜め息と共に白を切ることを諦めたらしい。
「……そこにいたから」
「え?」
「やりたいと思ったとき、そこにいたから」
「それ、私じゃなかったらどうしてたのよ」
「さあ……」
「骸ちゃんでも頼んでたわけ」
「骸様がお暇なら」
 消去法でもなかった。本当に、偶然。そう考えた途端急に身体の奥底がすっと冷えた。
「帰る」
「……そう」
 千種は引き留めもしない。それもそのはずだ、男は首を絞められて満足しているし、私に興味も無い。その後の行為は奴にとっておまけでしかない。一人歩きながら、私は自分でも訳がわからないほど苛々していた。

「ねえ」
「なに」
「やんなくていいの、あれ」
 苛々しながら帰った数日後、私と千種がまた二人きりになって、口を開いたのは私だった。千種は読んでいる本から顔を上げない。
「嫌なら頼まない」
「別に嫌じゃないわ」
 ようやくこちらを見る。訝しげにこちらを窺っている。しばし逡巡し、ぱたんと本を閉じた。
「……M.Mがそう言うなら」
 私は嬉しかった。嬉しい、と思ってしまった自分を冷めた気持ちで認識していた。月並みな表現だけど、まるで他人事のようだった。
 首を絞めながら、千種を上から眺めて、私は色んなことを考える。いつからこんなことになってしまったのだろう。思い当たる節があるような気もするし、無いような気もする。少しずつ私の身体と心が離れていってしまったのだ。今更気付いたところでもう遅い。既に手遅れ。千種も手遅れになりそうな表情になってきた。ああ、手を離さなきゃ。
 生を実感し恍惚とした表情を浮かべる男を見て、私の心が深い深い暗闇の底まで、静かに急降下していくのが分かった。気付いたときにはもう涙が頬を伝っていて、こんなことあってはならないはずなのに私はそれを止める術を知らなかった。苦しい、とても苦しい。首を絞められてなんかいないのに、絞めているのは私の方なのに、つい先ほどまで首を絞められていた男はこんなにも満ち足りた顔をして、なのに私は。
「……M.M?」
 千種は小さく私の名前を呼んだ。それはまるで拠り所を喪った幼子のようで、それがどうしようもなく、愛おしいと、私は思ってしまった。





マリアなら泣かない
160503 MMと柿本



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