「ねえ」
「なあに兄さん」
「狭いんだけど」
「いつも通りじゃん」
「いつも通り、狭い」
 ワンルームの風呂場に備え付けられた、なんの変哲もない浴槽だ。つまり成人済みの男が二人で入るサイズではない。
「先出ろよ」
「無理」
「肩まで浸かれない、寒い」
「奇遇だねえ、僕もだよ」
「だったら……」
「仕方ないでしょ、諦めなよ」
 言い返せないのは事実だった。

 風呂から上がって、奴はまず端末を眺める。画面を見ながら、にやついたり、小さく笑い声を上げたり、何がそんなにおかしいのだろうか。
「今週末の満月は特別なんだって。知ってた?」
「知らない」
「だろうねえ」
 奴は僕の「弟」だと言う。あと他に四人も「兄弟」がいた。だから六人兄弟で、僕は上から四番目。目の前にいる奴は六番目、末弟。
 最初に現れたのは上から五番目、僕のすぐ下の弟。しばらくしたら五番目は消えていて、次に二番目の兄が出てきたけどいつの間にか消えた。それから三番目、一番目もやっぱり交代に現れて消えて、気付けばみんないなくなってしまった。死んだとかそういうことではない。
「兄さん、明日の予定は?」
「別に」
「これだから引きこもりは」
 奇妙な幻だった。五人の兄とか、五人の弟とか、揃っていればまだ分かるけれど、僕の前に現れたそれは三人の兄と二人の弟だった。理由は分かる。現実でも僕は六人兄弟だからだ。もっと言えば全員一度に生まれた六つ子。そして僕はこれがきっと夢なんだと理解している。いわゆる明晰夢ってやつ。今の僕は一人暮らしで「兄弟」の幻を見ている。でも「本当は八人家族で一緒に生活している」のが分かっている。つまりこの生活は夢、現実ではない虚構、その中で見る幻。一歩間違えば混乱してどっちが夢でどっちが現実なのか分からなくなりそう。
「ねえ兄さん」
「なに」
「散歩しようよ」

 弟と二人で夜道を歩く。静かな夜だ。静かすぎるくらい、まるで人が僕ら二人以外いないような。もしかしたら本当にいないのかもしれない。だってこれは僕の夢だから。街灯が長い間隔でぽつりぽつりと立っているだけだが、満月が近いお陰か夜のくせに明るい。
「今日も十分、お月様大きいねえ」
 普段手元ばかり見ている弟が珍しく空を仰ぐ。
「ロマンチックな話が嫌いな女の子はそういないからね」
「さいですか」
「兄さんももう少し見た目に気遣って、外に出ればモテるよ。同じ顔なんだし」
「そうかもね」
 決定的な違いには触れてこない弟に腹が立った。
「その通りだ」
「兄さん?」
「僕がお前だって、よかったはずだ」
 弟が困ったように笑った。


「狭いんだけど」
「いつも通りじゃん」
「いつも通り、狭い。先出ろよ」
「無理」
「肩まで浸かれない、寒い」
「奇遇だねえ、僕もだよ」
「だったら……」
「仕方ないでしょ、諦めなよ」

「ねえ兄さん、散歩しようよ」
 満月が近い月は大きくて明るい。静かな夜の街に二人の足音だけが響く。
「お前はなんでそんなに器用なんだ」
「末っ子だもん、そりゃね……けど、僕は兄さんの不器用さが羨ましく思うこともあるよ」
「そんなの器用な奴の詭弁だ」
「卑屈にならなくてもいいのに」
「お前には僕の気持ちなんてわからない」
 弟はまた寂しそうに笑った。


 やはり浴槽は狭い。
「狭いんだけど」
「いつも通りじゃん」
「いつも通り、狭い。先出ろよ」
「無理」
「肩まで浸かれない、寒い」
「奇遇だねえ、僕もだよ」
「だったら……」
 はた、と僕はこの後言われる言葉を知っていることに気が付いた。仕方ないでしょ、
「諦めなよ」

 また僕らは二人で夜道を歩く。月明りがまぶしい。弟は何も話さない。僕は弟と散歩しながら話したことを反芻していた。僕がお前だってよかったはずだ、お前に僕の気持ちなんてわからない。
「僕だって」
 僕が立ち止まると弟も隣で立ち止まった。何も言わずに僕の方をじっと見ている。
「僕だって、お前の気持ちなんてわからない」
「うん、そうだね」
「お前が羨ましい……お前だけじゃない。みんな僕に無いものを持ってる。それが羨ましい、けど……僕は僕がしたいことをしてきただけだし、みんなもそうだった。お前も。だから、羨ましいけど……羨ましいだけだ」
 今日が満月だった。明るい道を少し歩いて、足音が一つしか聞こえないことに気付く。振り返ると細長い路地に自分の影がひとつ落ちるばかりだった。


 温かい湯に肩まで浸かる。気持ちがいい。なのになんとなく足りない気がする。心細さすら覚える。指先がほぐれていく感覚はあるのに、体の芯がじわじわと冷えていく。無駄に狭かった浴槽で温まらない肩に湯をかけたときの方がよっぽど疲れが癒されていた。冷気が涙腺から溢れてしまいそうになったところで耐え切れずに湯船から立ち上がった。
 部屋に戻ると、開けっ放しだったカーテンから落ちる月明りの中、ぼうっと外を眺める弟がいた。部屋の電気はつけていない。影の中から見る弟の姿は少しまぶしかった。
「別に死んだわけじゃないって」
「でも」
「うん、そうだね。君と一緒にはいられなくなっちゃったね」
 君、と、そう呼ばれたことにどうしようもなく壁を感じる。
「君も僕の事お前、って呼ぶ癖にね」
「そうだな」
 他の兄弟はみんな月明りの中に消えていってしまった。夢の中の話。いま目の前にある状況も夢だ。弟と三回も同じ会話をして三回も同じ夜道を歩いたことも夢。月明りの中で話したことは三回とも違ったけれど。
「心配しなくたって、起きたらみんないるよ」
「知ってる」
「どうしても心配なら、確かめてみればいい」
「そんなことするまでもない」
「そっか」
「僕たち揃って六つ子だ」
『うん、そうだよ。僕もその一人』
 月の光は温かかった。


「あ、起きた。大丈夫?」
「……ん」
「ちょっと顔色良くなったかな」
 開けっ放しの入り口から、廊下の明かりが部屋に入ってくる。薄暗い中でペットボトルを持ったトド松が枕元に座ったのが分かった。
「起きられる? お水新しいの持ってきたから飲んで」
 体を起こすとここがいつもの寝室ではないことに気付く。布団もばかでかい六人用ではない。高熱を出して隔離されたことをぼんやり思い出す。
「それにしても良く寝たねえ、一松兄さん」
「どれくらい」
 「寝てた?」という言葉は自分の咳に消える。予想以上に乾いていた喉が悲鳴を上げた。ほら、お水飲んで。兄弟に対して素直に気遣うトド松は珍しいけれど、そうやってこいつは生きてきたんだと思い出した。
「昨日から丸一日寝てたんじゃない?」
 丸一日。ずいぶん長い一日だったように感じる。
「……夢見た」
「夢?」
「月が明るい日に風呂入って、散歩する夢」
「なにそれ」
 よくわかんないね、と笑うトド松は夢の中に出てきた弟とは違う。
「でも月と言えば、今日も満月みたいだよ」
 ほら、とトド松が部屋のカーテンを開ける。月明りが僕たちを照らした。





月影
151227 松野兄弟(四男と六男)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -