水の中で瞬きをした金魚がこっちを見ている。換気扇の音が私を責めるようにがなっていた。お陰でたばこの煙がこちらに流れることはない。それなのに息苦しい。金魚鉢の中に放り込まれたのは私なのかもしれない。息継ぎをしなくちゃ。

 どこからか金魚鉢を持って来たのは彼女だった。そこに水とうつくしい魚を入れたらいいと言ったのは俺で、しばらく空っぽだった金魚鉢に近所の祭で掬ったありきたりな金魚を入れたのは彼女だ。それが夏のこと。
 換気扇の薄汚れたプロペラに白い煙がまとわりついていた。こいつもたばこが嫌いだから、不機嫌そうな音をたてるのかもしれない。向こうで金魚が跳ねた。

 ぴちゃ、と情けない音がした。あんたは気楽でいいね。狭い金魚鉢の中でのらりくらりと尾ひれを振る。金魚鉢に放り込まれたのが私であるわけがなかった。放り込まれたのはありきたりな金魚鉢にお似合いのありきたりな金魚であって私じゃない。むしろガラスの壁もなにも無いどころか、宇宙の果てまで仕切の無い場所に放り投げられている。この身を辛うじて引き留めているのは申し訳程度の重力だけだ。
 ねえ、そこ代わってよ。酸素の無い水中で生きられるなら酸素の無い宇宙でだって生きられるでしょ。ほらおんなじ。
 無茶苦茶なことを言ったところで、所詮は声にも出さない独り言だ。

 自分で連れてきたくせに彼女は金魚が嫌いなようだった。その割に世話は欠かさない。不思議に思っていたが、そういえば今まで理由を聞いたことはなかった。
「嫌いなの? 金魚」
「え?」
「世話するの、嫌なら俺がやるのに」
「……いや、いいよ。大丈夫。元々私が掬ってきたんだし」

 よくあることだ。彼は私の目を見て瞬きをして、再びたばこをくわえた。彼との会話はあまり長く続かない。これもよくあること。なに食わぬ顔で紫煙を吐き出す。彼は少し変わった人だった。例えるなら……例えるなら、なんだろう。また金魚と目が合った。そうだ、そろそろ水を換えようと思ってたんだ。キッチンに近づきたくないけど、仕方ない。不可抗力。

 おもむろに立ち上がると彼女は金魚鉢を持ち上げた。一瞬、そのまま床に落としてしまうのかと思った。しかし彼女は暴力的な女ではない。金魚鉢を落とすなんて発想を彼女がするはずもなかった。しっかりとそれを抱えてキッチンにやって来る。金魚のことを嫌い、とは言わなかったが否定もしなかった。彼女は分かりにくいようで分かりやすい。たばこが嫌いな本当の理由も、まだ教えてはくれない。

 汚れた水が流れる。彼が一連の動きを黙って見ている。彼は無口なひとだ。さっき向こうから声をかけられて驚いた程度には。相変わらず煙は換気扇に吸い取られている。
 重力がいけない。別に私がここに留まる理由なんてどこにもなかった。いっそ遠くに飛んで行ってしまった方がずっと楽に決まっている。でも水だって重力には敵わないのだ。曖昧に、けれど確実に引き寄せられて離れることなんて出来やしない。新しい水を入れながら、ふと思いつく。
「わかった、冥王星だ」
「なにが?」
「遠くて、暗くて、よく分からなくて……そうだ、決めた」
「なにを?」
「こいつの名前。平々凡々、どこにでもいる金魚、今日から君の名前は、カロン」
 たばこの煙で息継ぎをすればいい。





衛星に魚一匹
130507



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