好きですよ、と彼女は言う。相変わらず声は聞こえなかった。はっと気付いてなにが? と問いかけてもやわく笑うだけでもうなにも答えない。いま私は彼女と会話をしていた気がする。彼女はいつも黙ったままなのに。曖昧な記憶を思い出そうとすればその瞬間から流れるように遠ざかっていく。夢から醒めたような感覚だ。それとも本当に夢を見ていたのかもしれない。だけど確かに、ガラスの向こう側にいる彼女は好きですよ、とそう言ったのだ。
 触れたガラスはつめたくて、けれど彼女の陶器みたいな笑顔の方がよっぽどつめたかった。これは芸術作品です、と紹介されたら信じてしまうかもしれない。ただ作品名と作者がどこにも書いていない。知っているからいらないけれど、展示するには不十分だ。
 ねえ、なにが好きなの? 尋ねたところで答えは返ってこないし知りたくない。だけど思わず聞いてしまうのは他に彼女へ投げ掛ける言葉が無いからだ。彼女は青くて白くて透明で、言ってしまえば完璧なのだ。だから眺めているだけで十二分に満たされるけれど私はまだ足りなかった。彼女に触れたくて、細くてだけど健康的な肉付きの腕を掴んでみたくて、華奢な肩を抱き寄せたくて、爪も揃っている長くてきれいな指を絡めたくて、やわらかく弾力もある頬にくちづけてみたかった。だけどそれはこのガラスのお陰で叶わないからせめて声だけでも聞いてみたかった。きっとそれはそれはうつくしい音なのだろう。それなのにそのうつくしい音を聞いたはずの私の脳みそは、一度だって反芻する隙を与えずに彼女の声をさっぱり消去してしまった。そして脳みその反逆行為が私にもたらしたのは怒りでも悲しみでもなく執着だった。
 なぜ彼女はずっと微笑んでいるのだろう。どんなときだって彼女はガラスの向こう側で笑っていた。彼女はなにが好きなのだろう。少なくとも私ではないことを知っていたから泣きそうになったけど私は泣かなかった。
 きっとガラスの向こう側は無菌状態になっている。余計なものは全く存在しない。だから彼女にだって邪念なんてものは存在しない。彼女は完璧で、純潔だから、穢らわしいものは一切無い。彼女の思考にだって、間違いなんてありはしないのだ。
 彼女がゆっくりこちらへ近づく。なまめかしくほっそりとした足が彼女を運んでくる。思わず両手をガラスに張り付けてしまった。自然と顔もガラスとの距離を縮めていく。なぜ彼女はずっと私に微笑んでいるのだろう。いっそ軽蔑の目を向けてくれればこんなに執着もしないのに。それは完璧な彼女を壊すことになるのかもしれない。けれど彼女は完璧だからこそ私を拒絶するべきなのだ、きっと。せめてガラスじゃなくてコンクリートならよかったのに。展示なんて出来ないのだから。させないのだから。あなたは完璧でなくてはならない。
「私は、あなたなんて嫌い」
「知ってるわ」
 彼女がガラス越しに私の手と彼女の手を合わせて、視線を合わせて、きれいに笑う。今度こそほんとうに泣きたかったのに涙はちっとも流れてくれなかった。





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120822

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お題:と、彼女は言う
魚の耳」さんに提出。



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