知らない街のバスに乗った。日が暮れたばかりのゆるい闇を見つめて思考をまとめようとする。けれどラジオから流れてくる、明るいだけが取り柄の音楽に邪魔されてしまい、結局なにも考えずに見覚えの無い景色を目に映していた。運転手が知らない地名を告げる。本当に我が家へ帰れるのだろうか。そんなことを思ってみても、バスは確実に目的地へ向かっている。
 ひょっとしたらこのバスは空を飛ぶかもしれない。一瞬だけ現れた想像が泡になって弾けた。体がまどろんでいる。

 仰向けになって目を閉じる。それから出来る限り頭をからっぽにする。そのままゆっくりと息を吐いて、呼吸に乗せた思考がちょうどジェットコースターで落ちたときのようにふっと浮かび上がる。

 眠たいような覚めているような、曖昧な空気を密閉した深夜の地下鉄はいつでも夜を走っているくせに時間の流れには従順だった。ナチュラルハイな蛍光灯は目に痛い。窓ガラスに映った血の気のない顔を見てあまりの白さにどきりとした。この場所は違う。ここじゃない。
 どこだろう。

 数十センチ持ち上げた意識を反転させて見下ろすと、よく馴染んだ顔がそこにある。少し気を抜くだけでも視点は簡単に浮かぶ。

 閉館後の美術館に人気は無い。暖色の照明が足元をぼんやり照らしている。有名な建築家が設計した建物は私を冷めた目で見張っている。高台に建つ彼女はやけに高飛車だがどこか憎めない。暗いガラスにぽつりぽつりと乗っかっている街の明かりを見て、ここに足しげく通っていた頃の自分は夜景が嫌いだったことを思い出した。今では嫌悪感もなにも抱かない。時間とはそういうものだ。
 眠っているエスカレーターを踏みつけて二階に上がる。吹き抜けから玄関を見下ろすと、のっぺりとした床がなまめかしく光っていた。ねちっこい光を眺めながら、ようやく自身の眠気に気付く。けれど頭は冴えているのだ。体だけがやけに眠たい。
 うなだれてそのまま重力に従った。手すりを掴んで、頭の重みを利用して前転する。宙に浮いた体は木の葉のようにのらりのらりと落ちていく。手すりから顔を出す、かつての自分と目が合った。
 滑らかな床に横たわって天井を見つめる。気付いたときにはもう彼の姿は無かった。

 浮かんでいく意識はいつの間にか月の横をすり抜ける。木星を通り越して太陽系を出て、名前も知らない星たちを置き去りにしてどんどん進む。そのスピードは光よりも速いようでまばたきよりも遅い。

 寂れた商店街の一角に小さな喫茶店があった。営業時間などとっくに過ぎている店内で一人、私は窓際の席に座って青白い月明かりに照らされている。私がかつて少年であった頃、父親に連れられてよくこの店に来た。父がコーヒーを飲みながら新聞を読んだり、店主と話し込んだりしている横で静かにジュースを飲んでいた。面白いことなどひとつもなかったはずなのに、なぜだかちっとも退屈はしなかった。母さんには内緒だよ、と言って父が注文するジュースに浮かれていたのかもしれない。しかしそれだけで片付けるには、あまりに大袈裟な喜び方だったように思う。
 あの頃の私がなにに胸を踊らせていたのかなんてもう思い出せない。父の顔さえ思い出すことが出来ないのだ。それなのにあのジュースの味だけはしっかりと覚えていた。むしろそれは私が自信を持って覚えていると言える、少年期における唯一の記憶だった。
 私は目を閉じる。私はジュースの味を思い出す。じっくりと、丁寧に、思い出す。そして私は椅子に座ったまま宙に浮かぶ。

 始まりが無であるのなら、宇宙に限りがあるのなら、その外側は無であろう、と彼は言った。
「だからな、きっと宇宙の外側にかえるんだと、父さんは思ってるよ。お前にはまだ難しい話だったかな」


 ひとつだけ思い出したことがある。あの喫茶店で、父は私に宇宙の話をしていたのだ。宇宙の始まりの話。宇宙が始まる前の話。おおきな始まりの話。
「ほんとうはずっと近くにあることなんだ」
 私は宇宙のことを考える。その向こう側のことを考える。少年は窓際の席に座って、父親が彼に話しかけてくれるその瞬間を待っている。


 目を開いた。





無重力で眠りに就く
12/04/02



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