ミネラルウォーターのペットボトルを横にして日向に置くと、両手を丸めて目に当てた。双眼鏡だろうか。
「水ぬるくなっちゃうよ」
「ほら、見て見て、一艘の船が、ペットボトルの海を泳いでおります」
 移動させたときの名残で水の影が揺れている。テーブルの上に浅瀬が現れた。
「ボトルシップね」
「そうであります」
「海が干上がるといけないわ」
「はあい」
 ナキは素直にペットボトルを日陰へ戻した。しかしその直後、「お船ぷかぷかお日さまさんさん、いまじゃまっくらしくしくしく」なんてヘンテコな歌を歌いだすものだから、ペットボトルを持って立ち上がるとナキがあっ、と声を上げた。恨めしそうな表情を横目にそれを冷蔵庫へしまって、今度は流し台で逆さにしていた空のペットボトルを手に取り蛇口を捻る。
「はい、こっちで我慢して」
「わあっ、海だ!」
 水道水が少し入っているだけのペットボトルも、ナキの手にかかればひとつの世界になる。
「×月○日、本日も快晴、風も穏やか、船は順調に進んでおります!」
 両手で作った双眼鏡はナキだけのもの。

 それからずっと、ナキはペットボトルに夢中だった。酷いときには一日中ペットボトルから離れない。下手に好き勝手されるよりはずっとマシなので特に咎めはしなかった。航海を記録したいと言うからノートも買い与えた。夕飯時は、航海中の出来事を聞くのが日課になっていた。
「今日はね、嵐です。お船が大時化に巻き込まれたんです」
「大変じゃない」
「大変です、でもお船は頑張っています。沈没しません!」
「すごいわね。だけどご飯冷めちゃうわよ」
「はあい」
 喋りながらまた振り返ってペットボトルを観察し始めたナキだったが、私がそう言うと大人しく向き直り両手を箸に戻した。
「風さんびゅーびゅー波がざばん、お日さまいないよしくしくしく」
 今日は部屋の外も嵐が来ている。

 夜になって、一人でぼんやり深夜のテレビ番組を見ていると、ペットボトルを抱えたパジャマ姿のナキが目を擦りながらリビングに現れた。
「どうしたの」
 返事もしないでこちらに近づくと、ナキは空いている腕で私に抱きついた。
「寝れないの?」
 ん、と小さな声が返ってくる。
「一緒に寝ようか」
 ナキがこくん、と頷いた。
「お船がね、沈んじゃいそうなの。お日さまがいないからね、まっくらなの。雨がばさばさばさって降ってきてね、雷さまがゴロゴロピシャッって怒ってるの。風さんもびゅうううう、って吹いてね、お船がナキを呼んでるの」
 ナキは大事そうにペットボトルを抱えていた。私はそんなナキを抱き締めて、背中をとん、とん、と叩いてやる。
「お船は大丈夫よ」
「はあい」
 ナキは賢い子だ。すぐに腕の中から静かな寝息が聞こえてくる。外の嵐は収まりそうにない。

 朝になれば外はすっかり晴れていた。仕事も休みなので久しぶりにのんびり過ごそうと考えたところで、ナキが目を覚ました。すると起きるなり「おなかすいた!」と叫ぶものだから顔を洗って台所に立った。まだなんとなく、頭が重い。
「あれれー、おかしいです」
 テーブルの日が当たる場所に昨晩抱えていたペットボトルを置いて、ナキはまた両手の双眼鏡を覗き込んでいた。
「おかしいです、嵐は居なくなったのに、お船の周りだけ大時化です。お船は沈没しそうです。虫の息です。もう沈没します!」
 ナキがゆっくりとこちらを向いた。そしてにやりと笑う。
「今日のご飯はなあに?」
 いっそ沈んでしまえばいいと思っていた。もしも船が沈んだら、休日は昼過ぎまで眠れるかもしれない。わざわざ二人分も食事を作る必要がなくなるかもしれない。ヘンテコな歌を聞かずに済むかもしれない。そう思ったのだ。
「お外晴れても雨ざーざー、お日さまいるけどしっくしく! お船はそれでも沈みません!」
 ナキの声が頭に響いた。





ボトルシップが沈んだら
120201


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お題:もしものはなし
魚の耳」さんに提出。



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