最初に感じたのは、しなやかな固さと自分の体から移った熱。それから古くて丸い匂い。少ししてからようやく、揺れている感覚と木の床に倒れているということを、寝ぼけた頭が認識する。ガタゴトと揺れる音が床を伝って直接脳に響く。見上げれば赤い布地の座席が目に入る。その先には木枠の窓。ガラスの向こうでまだ暗さの残る青を、定期的に電柱の黒い影が区切っている。
 体を起こして窓の外を見ると、光源はまだ水平線の下に隠れているようだった。ひとつ伸びをして、のそのそと長椅子に乗り窓を開ける。早朝のつめたい空気が心地良い。何気なしに窓の下を覗くと、水の上に敷かれたレールを車輪が滑っている。視線を戻せば雲ひとつ無い空と、波一つ立たない水面が視線の先で交差していた。太陽が隠れているのは上だったかもしれない、なんてふと思った。
 次の駅に着くのは今日だった気がする。駅に着いたところで唯一の乗客である自分はきっと降りないし、新たに乗車する客もいないだろうが。しかしただ同じ景色の中を延々と走っているだけの日常における、数少ない変化は貴重だ。
 朝日が昇る。やはり太陽が隠れていたのは下だったらしい。あふれる光に俺は思わず目を細めた。

 太陽が真上近くまで昇り、辺りはすっかり白い明るさに包まれた頃、電車は無人の駅に着いた。長方形のコンクリートがレールの右脇にぽつんと置かれて、申し訳程度に電灯が立っているだけの、標識もなにも無い質素な駅。ここも自分が降りる駅ではないようだった。しばらく停車していたが乗客も現れず、やはりまた同じように通過するのだと思っていた。
 もうそろそろ発車のベルが鳴るだろうという頃、きし、と木の床を踏む音に驚いて、水平線を眺めていた俺は乗車口を振り返った。きょろきょろと車内を見渡す男は、自分とさほど変わらない年頃のようだ。
「よう」
 声をかけると、彼もぴくりと眉を動かしてこちらを見た。
「……どうも」
「乗るの?」
「多分」
「そうか」
「うん」
「まあ、座れよ」
「ありがとう」
 男が向かいの席にぎこちなく座る。
「乗ってるの、俺だけだから」
「そう」
「お前、名前は?」
「海東」
「ふうん」
「君は?」
「  」
「そう」
 発車のベルが鳴った。プシュウ、と扉が閉まる。
 長いこと互いに何も話さなかった。電車の走る音で車内は埋まっている。
 海東と名乗った男は、華奢と言うにも随分細い体つきをしていた。薄っぺらな胴体から生える四肢はとてもではないが頼りない。頬もなんだか痩せこけている。それに比べて、先程から落ち着きの無い目だけは異様にしっかりとしていた。
「あの」
「ん?」
「君はどこで降りるの」
 淀みの無い視線が俺を見つめていた。
「さあな」
「そう」
「お前は?」
「わからない」
「あっそ」
 会話が途切れると海東は顔を横に向けて、電車の進む先を眺めていた。
 レールが水平線まで続いている。その横で寄り添うように電柱が並ぶ。あとはただ一面に水が広がっているだけだ。空を遮る物はなにも無い。

 駅に着いた。やはり太陽はてっぺんまで昇っていて、そしてここもまた、コンクリートの塊に電灯を差しただけの貧相な駅だった。相変わらず降車客も乗車客もいない。俺は長椅子で横になって昼寝をしていた。
「君は」
 顔に乗せていた腕をずらしてそちらを向けば、海東が相変わらず歪みの無い目で俺を見ていた。
「どのくらい、これに乗ってるの」
 海東から視線をずらして天井を見る。腕を戻してまた視界を遮った。
「知らない、忘れた」
「……そう」
 また寝てしまおうかと思ったが、ふと気になって再び腕をどけると、進行方向を見ている海東の横顔は様子が違った。
「なに笑ってんだよ」
「うん、なんでだろう」
「……変な奴」
「そうだね」
 海東はまた笑った。
「は、」
 昼下がりはとても静かだ。暖かい日の光が腕に当たっている。

 目が覚めるともう真っ暗だった。灯りの無い車内は何も見えない。電車の走るガタゴトという音がいつもより大きく聞こえる気がする。そういえば少し肌寒い。そんなことを考えているうちに目が暗闇に慣れると、反対側の長椅子でいつも寝ているはずの海東の姿が見当たらなかった。
 起き上がると、扉を挟んで向こうの長椅子に座っている人影が目に入った。
「あ、ごめん、起こした?」
「別にいいけど……なにしてんの」
「朝日が見たくて」
「朝日?」
「うん、そろそろだと思う」
 海東は窓を開けて水平線を眺めていた。肌寒さの原因はこれらしい。もう一度眠る気にもならなかったので椅子から下りて、欠伸をしながら海東の隣に座った。
「あー、ねみい」
「ごめんって」
「はいはい」
 冷たい風を受けながら二人で水平線を眺めていた。多分夜明けまではもう少しあるだろう。やはり聞こえてくるのは電車がレールを滑り、継ぎ目を通過する音だけだ。
 水面は夜空を綺麗に反射して、空が二つあるようにも見える。俺はこの景色を見る度に朝日が上から降りてくる様子を想像してしまう。あまりによく似ているから、きっと天地がひっくり返っても分からないと思ってしまうのだ。真下にある太陽の上を電車が走る。それはきっと愉快な光景だろう。
「よくわからないけど」
 唐突に海東が口を開いた。
「見なきゃいけないと思ったんだ、朝日を」
 空と空の継ぎ目から光が漏れ出た。まぶしさに顔を逸らすと、視界の端に入った海東の痩せこけた頬で何かが反射した。

 やはり電車は真上に昇った太陽の下を進み、また無人の駅に着いた。今度の駅には珍しく小さなベンチがひとつ設置されている。だがここも自分が降りる駅ではないらしい。また同じように通過するのだと思っていた。
「おれ」
 長椅子に座ったまま振り返って駅を見ていた海東が呟いた。
「降りなきゃ」
「……は?」
「おれ、ここで、降りなきゃ」
 お決まりの真っ直ぐな目が俺を見ている。
「君、」
「降りない」
 力強かったそれが揺らいだのを俺は見た。
「俺はここじゃない」
「――そう」
 海東は少し笑って、席を立った。
 海東が電車を降りてこつ、とコンクリートを踏んだ。歩いて電車に乗ったままの俺の正面に来ると、窓ガラスを挟んで向かい合った。
 発車のベルが鳴る。海東はなにか言葉を発したようだが聞こえなかった。

 長椅子に座ったまま、目の前に広がる夕焼けを眺めていた。赤い長椅子、木枠の窓、その先にある茜色の夕日、ただそれだけを見るのはとても久しぶりだった。夕方の光は朝のそれより随分柔らかい。
 そこにあるのは悲しみでも喜びでもなかった。まして恐れや怒りでもない。言うなれば、あの澄んだ瞳のような。

 太陽は水平線に沈んでいく。





コペルニクス、彼の名は
111121



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