彼女が鍵盤の上で踊っている。
 ゆるやかなハ短調。
 雄弁な白鍵と黒鍵がそれを紡ぐ。
 閉じている黒い蓋の上で音符が跳ねていた。

 シの音が泣いた。
 僕は耐えられなくなってピアノの蓋の上に吐いた。薄い黄色の吐瀉物が黒い蓋の上に広がる。
 吐き出すだけ吐き出すと、頭がふらふらしたので吐瀉物を避けて蓋に上半身を預けた。
 彼女は構わず踊り続けている。
 音符が耳に飛び込んできた。その振動が直接脳を揺らす。また吐き気が襲ってきたが、吐き出す物はもう胃の中に残っていない。
 とうとう身体を支えきれなくなった足がカクカクと震えて僕は崩れ落ちた。
 ピアノの横でうずくまる。肩で息をする。じめじめとした部屋の空気が肺一杯に広がるのを感じる。息苦しい。吐瀉物と音符が蓋の上からぽたぽたと落ちている。
 ふとピアノの音が途切れた。ズズ、と椅子を引く音。カツ、カツ、カツ、とハイヒールの歩く音。僕とは反対側に歩いていった彼女。ギイ、と音がした。
 重力に逆らえない吐瀉物は僕の隣に落ちる。びちゃびちゃびちゃ、と。汚ならしい黄色がコンクリートの床に跳ねて僕の髪や腕に付着した。酸性の強烈な臭いが今更鬱陶しくなる。
 カツ、カツ、カツ、とまたハイヒールの音。ズズ、と椅子を引く音。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 ド。

 まあるい音が一つ、コンクリートの部屋に響く。僕は驚いてから静かに息を吐き出した。木の箱から飛び出した音符は湿った空気の中にじんわりと広がる。

 シ。

 ハ短調のフラットは三つ。
 シ、ミ、ラ。
 短調の七音目は半音上がる。
 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ。
 フラットのシは鳴らない。

 ピアノの音を聞きながら、吐瀉物の黄色い臭いと部屋の湿気で溺れた。





ピアノ
110819



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