壁に足を投げ出した。
 じっと見つめていると、浮いているような感覚がしてすとんと天井に降りた。
 出掛けようと思ってクローゼットに歩いていくが、取手がやたら高い位置にあるものだから開けるのに一苦労だった。逆立ちしているウインドブレーカーをハンガーから取って着る。フードは落ち着いているのになぜか紐だけが顔の横で逆立ちしているままだった。ドアノブを押し上げ、無駄に高い位置にある扉を跨いで部屋を出る。アパートの階段を上ると天井が無くなってしまったので、仕方なくまた宙に浮いた。
 夕暮れ時の街というのは意外と慌ただしい。土手の上を歩いているとロードワークをしている青年や仕事帰りのサラリーマン、ブレザー姿の女子高生、黄色い帽子を被った幼稚園児と手を繋ぐ腹の大きい母親など、多種多様な人々とすれ違う。世の中には色んな人が居るなあと考えながら、ここに来る途中に立ち寄った、行きつけの八百屋で買った林檎をかじる。因みに店のおばちゃんはいつも来てくれるから、と言ってまけてくれた。因みに因みに逆立ちしたウインドブレーカーの紐を見てアンテナみたいだねえ、そうですねえ、と一緒に笑った。あのおばちゃんは愉快で好きだ。林檎もうまい。
 ねえなんであのお兄ちゃん、しっ、見ちゃいけません、と後ろから先程すれ違った幼稚園児と母親の二人と思わしき声が聞こえる。躾のなっていない親だ。注意の仕方も間違っている。子供には、どこがどう駄目なのかを教える事が大切なのデス、隠す事などゴンゴドウダン! と隣の部屋に住む秋原さんが言っていたのだ。彼女は大学院で教育学を専攻しているらしい。よく知らないが。もうじき二児(ひょっとしたらそれ以上?)の母となるであろう背後の女性の将来をなんとなく案じながら夕日を眺めてまた林檎をかじった。
 夕日を眺めるのにも飽きて、土手を去りながら食べ終わった林檎の芯を放り投げると頭の右上あたりにぼて、と落ちた。数歩進むなりどこからともなく現れた数羽のカラスたちがカア! カア! カア! と騒ぎ立てながら林檎の芯争奪戦を繰り広げていたので、カラス界も大変なんだなあ、お兄さんは応援しているぞ、と心の中で呟いた。すると気分が良くなってきたのでそうだ恋人に会いに行こうと思い立つ。
 愛する我が家へと急ぐ人々の頭を避けて改札を抜ける。電車に乗り込み、混雑している反対方面の電車を網棚に腰掛けて眺める。ドアに押し付けられている禿げ頭の中年男と目が合った。虚ろな目がぎょろりぎょろりと回っていた。電車が動き出しても彼の目は俺のことを離さず、往生際の悪い黒目は勢い余って彼の目の裏側に入り込んでしまっていた。あんなオトナにはなりたくねえなあ、としみじみ思った。
 ああ早く恋人に会いたい、会いたい会いたい会いたい、大型マンションの明かりを眺めているとセンチメンタルな気分になってしまう。恋人が恋しい、ああこんな気分にさせる電球たちが憎い! お前たちなんて割れてしまえ! 電気なんて消え失せろ! 悪意のままにマンションの明かりを睨み付けていると、急に車内の蛍光灯が消え、ガクン、と電車が止まった。なんということだ、マンションの明かりに向けていた悪意が窓ガラスに反射して電車の電気を消滅させてしまったらしい。仕方なく恨めしい気持ちを精一杯込めて窓ガラスを蹴破り外に出た。
 いつの間にか太陽はビルの影に消えていて、足元には満天の星空が広がっている。こんな素敵な夜に線路を歩くなんて、なかなか貴重な体験をしているなあ、と思うとまた気分が良くなってきてスキップをした。今ならこの世の全てを赦すことが出来そうだ。ああなんて素晴らしい世界! 恋人に会ったら真っ先にこの事実を伝えよう、そしてこう言うんだ、この世界を君にプレゼントするよ、ってね。真っ赤なリボンでラッピングしてプレゼントするんだ、ああ君はどんな顔をするのかな、待ってて愛しい恋人よ!
「なに言ってるの、待ちくたびれて迎えに来たわよ」
 気付くと目の前に恋人が居た。頬を膨らませて大層ご立腹のようだ。
「大急ぎで向かっていたんだから、これぐらい許せよ、ケチな女だな」
「ふん、なんとでも言えばいいじゃない、それに私はもうこんな世界に用なんて無いわ」
 そう言うなり彼女は背中に大きくて美しい蝶の羽を生やして遥か下の夜空に飛んで行ってしまった。あんな我侭女、消えてくれてせいせいする。
 目的地を失ってしまったので、仕方なく蹴破った窓から電車に戻る。また網棚に座ると、真っ暗な電車も素直に前の駅へと戻り始めた。相当落ち込んでいるのか、のろのろと静かに電車は走る。いや歩く。いつまで経ってものろのろのろのろ、埒が明かないので電車に話を聞けば、真っ暗闇の中を明かりも点けずに走る電車なんて電車じゃない、暗い電車はただの電車、飛べない豚はただの豚なんだ! とのこと。まあそんなに落ち込むなって、飛べない豚にも需要はあるじゃないか。人様に食べられるっていうさ。そう励ますと電車は、それじゃあ僕も食べられてしまうのかい? そうなのかい? そんなの嫌だあああああああああ!!! と、叫ぶなり猛スピードで走り出すものだから驚いた。お陰で座席のポールに頭を打ったが、さっさと駅に着いたのでよしとしよう。
 行きの混雑はどこへやら、無人の駅に降り立つ。明るすぎる照明が足元でこうこうと光っている。目がチカチカして気持ち悪い。頭の中でピンクと黄緑と紫の光線がぐちゃぐちゃになってシミのように広がっていく。ピンクと黄緑と紫のシミが脳みそにじわじわ広がって脳みそが飽和して耳からだらだらと漏れ出した。頭を傾げて片足でジャンプする。光り輝く照明の上にピンクと黄緑と紫とおかしな色が混ざった液体が飛び散っていたが無視して改札を抜けた。
 夜道は駅と打って変わって、全ての街灯が消えて真っ暗闇が広がっていた。駅の明るさがあるうちは良かったが、駅から遠ざかるにつれて段々と闇が濃くなっていき、ついには何も見えなくなってしまった。一寸先も闇、とはまさにこのことだ。記憶を頼りに手探りで道を進む。時折空中に浮かぶ目玉と目が合うと、目玉は黒目の動きで道標になってくれていた。ありがたい。道標に従いながら進むと、いつの間にか数え切れない程周りに集まっていた目玉が一点を見つめている。その一点に手を伸ばして触れると、それはアパートの階段の手すりとよく似ていた。大量の目玉が一斉に瞬きをした。ありがとう、と言うと一瞬で目玉たちは姿を消した。と思いきや、一対の目玉がまた目の前に現れた。彼らはまた一つ瞬きをして、ゆっくりと前を向いた。すると正面にひょうたん型の空白が現れ、そこに階段が浮かび上がった。つまりアパートの階段が浮かび上がった。つまり目玉が光っているのだ。最後まで世話になりっぱなしで申し訳ないなあ、と思いながら目玉に引っ張られるまま階段を下りる。引っ張られながらあれ? と思い目をこらしてよく見ると、なんと目玉はあのアンテナの先にくっついていた。つまり今着ているウインドブレーカーの紐だ。つまり紐の先に目玉がくっついているのだ。あ、と思わず声を出すと、みいいいたあああなあああ、という声と共に目玉がこちらを振り返る。もちろん目玉は光ったままだ。目が眩んで天井に倒れるとまた頭を打って気絶した。
 目が覚めるともう朝だった。アパートの廊下の天井に横たわっていると浮いている感覚がしてすとんと部屋のドアに降りた。アンテナは僕の前で水平に伸びている。





アンテナ
110810



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -