「名無しさん、本当に一人で大丈夫ですか?」
「はい、昨日の夜ばっちり予習をしてきました」
「財布と携帯はちゃんと持っていますか?」
「はい」
「困ったことがあればすぐに連絡してください。知らない人に声をかけられてもついて行ってはダメですよ。道に迷ったらおまわりさんに聞いてください。横断歩道を渡る時はちゃんと手をあげてくださいね。あとは・・・」


終始心配そうな表情で注意事項を伝える伊地知と、反対に終始ニコニコと眩しい笑顔を浮かべて元気よく手をあげて返事をする名無しを見て、伏黒は、はじめてのおつかいか?と小さくため息をついた。

先日の香炉の事件以降、伏黒は五条付き添いの元、一人で呪霊を祓う任務を行うようになった。2人共死にかけた上、名無しに危険な技を使用させてしまったのだから、こうなって当然だろう。と伏黒は納得していた。恐らく、このまま高専に入学するまで名無しと会うことはないだろう。と思っていた矢先、突然五条から名無しと二人で心霊スポットの巡回に行くよう指示された。五条からの指示だから大丈夫だとは思うが、念のため名無しのケガはもう大丈夫なのか伏黒が確認すると「ケガの方はもう治ってるから大丈夫だよ」と意味深な返答がきたため、伏黒は少しだけ不安な気持ちを抱えたまま次の日を迎えた。
伊地知が運転する車に乗り込んだ伏黒は、最後に見た痛々しい傷はすっかり消えいつもと変わらない明るい笑顔を浮かべる名無しを見て少しだけ安心した。それと同時に、自分を不安にさせるためにわざと五条があんな言い方をしたことに気づき、あの人は・・・・!と怒りの感情が沸々と沸きあがっていた。


「伏黒さん、お久しぶりです」
「あぁ。ケガは大丈夫か?」
「はい。硝子さんのおかげですっかり元気です」
「そうか。ならよかった」


この日、伏黒と名無しは2箇所の心霊スポットを訪れた。最近ネット配信者による心霊スポットを巡った動画の投稿が増えたことにより心霊スポットで目撃される呪霊の数が増えているため、今回2人が訪れる心霊スポットでも、もしかすると呪霊が現れるかもしれない。と懸念されていたが、特に呪霊と遭遇することもなく無事に任務は終わった。そんな中でも名無しの『不幸』は本日も絶好調で、その都度巻き添えを食くらった伏黒に名無しは何度も頭を下げて謝罪し続けた。正直、身体接触が多い名無しの不幸は伏黒の精神をだいぶすり減らしたが、いつもと変わらない彼女の様子にどこかほっとしている部分もあったため、伏黒は複雑な気持ちを抱えていた。

帰り道、伊地知が運転する車に乗って窓の外を眺めていた伏黒は、ふと、いつもなら街中を通るとキラキラした視線を外に向けて何か見つける度に小さく声をあげてはしゃいでいる名無しが静かなことに気がついた。不思議に思い、隣に座っている名無しの顔を盗み見ると、名無しはただぼーっと窓の外を眺めていた。そこにいつもの柔らかい表情は一切無く、まるで消え入ってしまいそうな弱々しい表情があった。その顔を見て、伏黒はようやく五条が言っていた『ケガの方はもう治ってる』の言葉の意味を理解した。
『悪喰開錠』の技の説明は五条から聞いたが、使用した術者がどんな風になってしまうのかまではわかっていない。呪術は常に代償が付きものだ、五条のような規格外は別として、通常であれば危険な技ほど使用した時の代償は大きい。命や寿命を捧げなければいけないあの技を使った名無しがなんともないはずがないのだ・・・・。だが、それに気づいたところで自分に何ができるのだろう。と思った伏黒は名無しから目をそらし、無言で反対側の窓の外をまた眺めた。


そして冒頭に戻る・・・・


さっきまでの儚げな表情はどこへ行った。と聞きたくなるほど明るい表情を浮かべる名無しは紙の地図を両手で広げて完全に自分の世界に入ってしまい、もはや事細かく注意事項を伝え続ける伊地知の話は耳に入っていない様子だった。


「名無し。どこ行くんだ?」


名無しと伊地知のやりとりが長引いているのを見て、伏黒も車から降りて名無しの隣に立ちここで車を降りた理由を聞いた。


「パンケーキを食べに行くんです」
「パンケーキ?」
「この近くに『balls』というパンケーキ屋さんがあって、今期間限定でほうじ茶味のパンケーキが出ていてそれを食べに来ました」
「本当は五条さんと一緒に行く予定だったのですが、急に任務が入ってしまって・・・。私が付き添えたらよかったのですが、この後、任務を終えた呪術師の方のお迎えに行かなければいけなくて」
「別な日じゃだめなのか?」
「実は、期間限定が今日までなんです。なので、明日からは食べられなくて・・・・」


伊地知が不安に思う気持ちを理解できる伏黒は別日ではダメなのか名無しに確認したが、今日までしか提供していないメニューのため、後日ではダメだ。と、少し困ったような顔で名無しは言った。それほど口数が多いタイプではない名無しと伏黒は今までお互いについての質問をしたことがなかったため、名無しの好きな食べ物につての情報を伏黒は一切知らないが、この様子からするとどうしても食べたいのだろう。ということだけはわかったため、意を決したように深くため息をついた。


「ちゃんと場所わかってるのか?」
「はい!この道を真っ直ぐ行ったらあります!」
「・・・・その道は逆だ」
「えっ?!」
「・・・やはり店の前までお送りします」
「いえ!街中も歩いてみたいのでここで大丈夫です」
「ですが・・・・」


自信を持ってこっちだ。と指をさした名無しだったが、現代っ子の伏黒は店名を知った瞬間にささっとスマホで検索し、ここからの経路や営業時間の情報まですでに把握済みのため、すぐに間違いを指摘した。自分がこっちだ。と思っていた道が逆だと知り、名無しはもう一度両手で広げている地図を凝視して「あれ?あれ?」と首を傾げながら困惑し、その様子を見て伏黒は小さくため息をついた。


「名無しさん、3時間待っていただけませんか?それなら私が付き添えるので」
「それだと間に合わないみたいです」
「えっ?」
「結構人気の店みたいで入場制限がされてて、いつも15:00で整理券が配り終わって、最終入場は17:00らしいです」
「15:00って・・・・・後30分じゃないですか!」
「はい。なので、伊地知さんが付き添うのは無理ですね」


口コミを見て整理券を持った人しか入れないことや、その整理券が毎日15:00頃に配り終わることまで一瞬で調べた伏黒は伊地知の提案は無理だ。と判断した。未だに現在地を理解できていない名無しが地図を広げた状態で首を傾げて唸っている様子を見て伏黒は口を開いた。


「俺がついて行きます」
「えっ?!」
「本当ですか?!伏黒くん」
「はい。それが一番平和な解決策だと思うので」
「伏黒さんもパンケーキに興味があるんですね」
「ちげぇよ」
「伏黒くんが付き添ってくれるなら安心ですが、いいんですか?」
「はい。家に帰っても本読むぐらいしかすることないんで」
「そうですか。すみませんが、名無しさんのことよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
「はい」


伊地知と一緒に慌てて頭を下げる名無しを見て、きっとこのまま家に帰ったとしてもこいつのことが気になって本の内容なんて頭に入ってこないだろう。と伏黒は思った。だから、これが自分にとっても最良の選択だろう。と判断した。


「3時間後には迎えに来れると思うので、それまで少し待っていてください」
「はい、わかりました。よろしくお願いします。では、伏黒さん早速参りましょうか」
「あぁ」
「あ、伏黒くん」
「なんですか?」
「あの・・・名無しさんと一緒に歩くなら手を繋いでおいた方がいいかもしれません」
「・・・・・は?」


手を繋ぐ?本気で伊地知は、はじめてのおつかいだと思ってるのだろうか?子供じゃないんだからそんなことする必要はないだろ。と、伏黒が怪訝そうな顔で伊地知のことを見ていると伊地知は何かに気づき「あ、言ってるそばから!」と声をあげた。一体なんのことだろうか。と伏黒も自分の横に視線を動かすと、さっきまで隣にいたはずの名無しの姿が消えていた。


「・・・は?名無し!?」


伏黒が名無しから目を離していたのはほんの30秒程度なのにその間にどこに消えた?と、伏黒が周囲に視線を向けると、未だに両手に地図を握り締めている名無しが何かのお店の前で立ち止まっている姿を見つけた。


「名無しさんはその・・・・少し好奇心が旺盛で、目を離すと一瞬で姿を消してしまうんです」
「・・・・もっと早く言ってください」
「すみません」


そろそろ時間が!と逃げるようにその場から去って行った伊地知を少しだけ恨みながら、伏黒はキラキラとした目で何かを見つめて拍手をしている名無しの元へ足を進めた。


「名無し、急にいなくなるな」
「伏黒さん!見てください!すごいんですよ!どんどん魚の形になってるんです!」
「人の話をちゃんと聞け」


興奮しているせいで全く伏黒の話が耳に入っていない名無しは目の前の光景を一生懸命伏黒に伝えようとしたが、語彙力が皆無のため何一つ伏黒に伝えられなかった。何をそんなにテンションが上がっているんだ。と伏黒が名無しが見ている方に視線を向けると、そこは飴細工屋さんで店内には様々な動物や魚の形をした飴が売られており、硝子越しに職人が手作業で一つ一つ飴を作っている様子が見えた。今まさに金魚の飴細工を作っているようでその様子を見た名無しは声を出しながら拍手を繰り返していた。職人もそんなに喜んでもらえたことが嬉しかったのか、名無しの方に視線を向けながら笑顔で飴細工を作っていた。


「すごいです!」
「たしかにすげぇな」


初めて間近で見た飴細工の作業に伏黒も驚いていたが、目的地であるパンケーキの店のことがあるため食い入るように見ている名無しには悪いが「そろそろ行くぞ」と声をかけると、名無しは「あ」と声を出した。すると、店からさっきの職人が出てきた。


「お嬢さん、飴好きなの?」
「は、はい!大好きです」
「じゃあ、これどうぞ」
「えっ?」


店から出てきた職人はさっき作っていた飴を名無しに手渡した。


「まだ色がついてなくて申し訳ないけど、それでよければどうぞ」
「いいんですか?」
「あんなに熱視線を向けて喜んでくれる子は中々いないから嬉しくて。そのお礼」
「わぁ、ありがとうございます!」


飴の部分にすっと透明な袋をかけて紐でとめた職人はその後すぐに店の中に戻っていった。


「伏黒さん!綺麗な飴をいただきました!」
「よかったな」


金魚の形をした飴をもらえたことが相当嬉しかったのか、まるで子供のようにキラキラとした目ではしゃぐ名無しの姿を見て伏黒は思わず、ふっ。と少し頬を緩ませた。その後、職人に向けて何度も頭を下げて感謝する名無しの腕を半ば強引に掴みその場から離れた伏黒は、パンケーキの店までの地図が頭の中に入っているため、真っ直ぐ店に向かって歩いたが、道中気になる店を見つける度に名無しの好奇心旺盛スイッチがONになり、店の中に入って行き、見たことのない商品に時間を忘れて夢中になってしまうため、その度に伏黒は腕を引っ張って制止し、完全にその掴んだ腕を離すタイミングを失ったままパンケーキの店に辿り着いた。伏黒のおかげ道に迷うことなく奇跡的にラスト1枚の整理券をゲットした2人は店内に入れるまで2時間あるため、どうやって時間を潰そうか。と伏黒がスマホで周辺の店の情報を調べていた。


「伏黒さん、本当にパンケーキ食べないんですか」
「あぁ、俺はいい。お前が食べてる間別の店に行ってるから、ゆっくり食べてこい」
「わかりました。すみません」


別に甘い物が嫌いな訳でも苦手な訳でもないが、店内を埋め尽くしている女子の姿を見た伏黒は整理券をもらいに店中に入るだけでも結構なストレスを感じていたため、この中に入って食事をするのは無理だ。と判断し、自分は店内には入らず名無しが食べ終わるまでどこかで時間を潰して伊地知が迎えに来るのを待とうと考えた。


「名無し、落としそうだからその手に持ってるもの鞄にしまえ」
「あ、はい」


今まで半ば強引に伏黒に引っ張られるように歩いていた名無しの手には未だに地図と金魚の飴が握られており、名無しの不幸を考えた伏黒は何か起きる前に。とリュックにしまうように指示した。本当なら伏黒はこのまま店の隣にあるカフェで時間を潰したかったが、わざわざ街中を見て歩きたいから。と伊地知に駅前で下ろしてもらった名無しのことを考えると、それでは可哀想だ。と思い、せめて飲食店以外で何か良い店はないか。とスマホで視線を向けていた。幸い、今2人がいる街は流行りの最先端の店がたくさん並んでいるため、検索すればすぐに名無しが興味を持ちそうな店は見つかった。


「名無し。近くに人気の北欧雑貨店があるみたいだ。そこに行くか・・・・?!」


自分の横で地面にしゃがみこんでリュックに地図と飴をしまっている名無しに伏黒が声をかけたが、そこに名無しの姿はなかった・・・・。


「アイツ、またいなくなった!」


また気になる店を見つけて一目散に飛んでいったのだろう。と思った伏黒だったが、自分の足元に名無しのリュックがおきざりになっていることに気づいた。なんでリュックだけあるんだ?と疑問に思ったのと同時に「きゃあ!」という名無しの声が周辺から聞えてきた。


「っ?!」


声がする方に視線を向けると、ちょうど名無しの体が横に倒れる姿が目に入り伏黒は慌てて駆け寄ったが、人通りの多い道が邪魔をして間に合わず名無しはそのまま地面に倒れた。名無しの横をすごい勢いの自転車が横切ったのを見て、その自転車に接触したのかと思ったが、ギリギリの所で自転車が避けたように見えたため一体何があったんだ?と不思議に思った。


「名無し!」


倒れる瞬間に名無しの陰に何かいるのが見えたが、その何かがようやくわかった伏黒は目を見開いた。


「いたた・・・・大丈夫?怪我はない?」
「うんっ、大丈夫。お姉ちゃんは?」
「私は大丈夫だよ。ふぅ・・・間に合ってよかった・・・」


名無しは自分の腕の中にいる小さな女の子の無事を確認し安心したように笑った。


「名無し!」
「あ、伏黒さん」
「大丈夫か?」
「はい」


伏黒は名無しに守られるように抱きしめられたまま地面に座っている小さな女の子を立たせた後、名無しを起こすために手を伸ばし、名無しもその手を握ろうとしたが、伸ばした自分の手を見て何かに気づいたように目を見開いた後、手を引っ込めて困ったように笑いながら一人で立ち上がった。立ち上がった後も名無しは、すっと伏黒の後ろに隠れるように立ち少女に話しかけた。


「急に自転車が向かってきたから怖かったよね、本当にどこも怪我してない?」
「うん、お姉ちゃんが守ってくれたから平気」


人ごみの中をふらふらと泣きそうな顔をして歩いている女の子を発見した名無しは迷子だろうか。と思い、話しかけに行こうと足を進めた瞬間、少女の前方から結構なスピードを出した自転車が走ってきているのが視界に入った。人ごみのせいで自転車側からは少女が死角になっているのか、真っ直ぐ少女に向かって走っていることに気づき慌てて駆け寄ったのだった。


「一人でここにきたの?」
「ううん、お母さんときたの。でも、人が多くてさっきどこかに消えちゃって・・・・」


不安気な表情で話す少女の話を聞いた伏黒が周囲に視線を向けると、遠くで「ゆず〜!」と声を出しながら誰かを探している女性を発見した。


「母親発見したぞ」
「えっ?」
「あそこにいるの、たぶんこの子の母親だ」
「あ、お母さん!」


遠くで自分の名前を呼んでいる母親の姿を発見した少女は「おかあさーん!」と叫びながら一目散に走っていった。無事に母親の元に辿り着いた少女を見て、名無しが安心していると遠くから「ありがとうー!お姉ちゃんー!」とこちらに向かって少女が大きく手を振り、名無しも笑顔で手を振った。母親もその様子を見て何か察したのか、名無したちに向かって軽く会釈をした。その後、少女たちが角を曲がるのを見て、伏黒は自分の後ろに立っている名無しの体に視線を向けた。


「お前、すごい怪我してるじゃねぇか」
「すみません。咄嗟のことで受身がとれなくて・・・・」


名無しの腕や手の甲についている擦り傷を見た伏黒は眉間に皺を寄せた。膝よりも長い丈のワンピースに隠れてさっきまで見えてなかったが、ジワジワと白い色の生地が赤く染まっていくのを見て膝にも怪我しているのがわかった。


「とにかく手当てするからどこか座れる場所探すぞ、歩けるか?」
「はい、大丈夫です。すみません」


伏黒は近くに小さな公園を見つけ、そこに名無しを連れて行った。手当てできるものが手元に何もなかったため、伏黒はドラックストアに買いに行く。と、名無しをベンチに残して公園から去っていた。伏黒がその場からいなくなったのを見て名無しは両手で顔を覆いながら大きくため息をついた。


「はぁ・・・・・」


また伏黒に余計な迷惑をかけてしまった。と、名無しはひどく落ち込んだ。ただでさえ、自分のドジや引き寄せてしまう『不幸』に巻き込んで必要以上に迷惑をかけているというのに、わがままを言って街歩きに付き合わせて、怪我をして、買い物まで行かせて、自分は一体何をしているのだろう。絆創膏や包帯等が入った救急セットだっていつもならリュックに入れて常に持ち歩いているのに今日に限って補充し忘れて何も入ってないなんて。と、名無しは自分の不注意を嘆いた。予測不可能な不幸ならともかく予測し得る不幸への対策はできる限り名無しはしてきた。元々のドジの部分のせいでたまに忘れることはあるが、怪我をするのは日常茶飯事なのに手当てするものを何も持たずにでかけたのは今回が初めてだった。

先日の香炉事件から名無しの体は少しおかしくなっていた。原因はちゃんとわかっている。眠れないのだ。正確には、寝れはするが悪夢を見てすぐに起きるのだ。毎晩夢に顔を黒く塗りつぶされた人間がたくさん現れ名無しに助けを求めてしがみついた。どうすることもできずその人間たちに押し潰されて名無しはいつも目を覚ましていた。日に日に眠りについてからその悪夢を見る時間の感覚は短くなりそれに比例して名無しの睡眠時間も短くなっていった。昼寝をしても同じように悪夢を見るため段々眠ること事態が怖くなった。
タイミング的に悪喰開錠の技を使用したことが関係していることはわかっているが名無しはそれを誰にも相談できずにいた。唯一そんな名無しのことを知っている神様は名無しを慰め続けたが、ぬいぐるみを通して触れることはできるが会話することはできないため、一時的に気持ちを落ち着かせることはできても解決することはできなかった。
睡眠不足により名無しの体力は日に日に衰えていき、ぼーっとする頻度が増えていった。そんな中、今日救急セットをうっかり忘れてしまい名無しはやってしまった・・・・と、嘆いていた。
伏黒がもうすぐ戻ってくるかもしれない。これ以上迷惑をかけないようにちゃんと笑わなきゃ。と、名無しが顔から手を外そうとした瞬間、足音と共に「どうしたの?泣いてるの?」と、男性の声が聞えてきた。


「えっ?」
「なんだ泣いてないじゃん」


顔から手を外した名無しを見て目の前の男性は少しだけ残念そうな顔をした。初対面の男性に完全に人見知りモードに入った名無しは目線をキョロキョロと宙にさまよわせた。いかにもチャラそうな見た目の男性は胡散臭そうな笑顔を貼り付けて名無しの目の前に立った。


「えっ、怪我してんじゃん。痛ったそう」
「・・・・平気です」
「俺が手当てしてあげよっか。俺、あそこのホテルに泊まってるんだよね。部屋に戻れば絆創膏とかあるし、手当てしてあげれるから一緒に行こうか」
「あ、いえ、大丈夫です・・・・」


名無しの目線に合わせてかがんだ男性を見て名無しは視線を地面に向けた。


「大丈夫だよ。変なことしないから安心して。あ、顔に血がついてるよ」
「っ!」


男性が名無しの顔に手を伸ばしてきたのを名無しは瞬時に手で頬を押さえて避けた。


「そんな態度とられると傷つくんだけど。こっちは親切で声かけてるんだよ?」
「ご、ごめんなさい」


そうだ、この人は親切心で声をかけてくれたんだ。その親切を蔑ろにするようなことしてはいけない。と、名無しが謝罪をしながら男性の顔を見ると、男性は、何故か舌なめずりをしながら名無しの体を舐めるように見ていた。その様子を見た名無しは咄嗟に膝から流れている血がつかないように太ももまで上げていたワンピースの裾を血が付くのも構わず瞬時に下ろした。


「あー・・・もしかして警戒してる?」


男性の問いかけに名無しは何も答えられず地面を見つめ続けた。すると・・・・


「ほんとはさ、ちょっと困ってるんだよね」
「えっ?」


突然「困っている」と言われた名無しは男性の顔に視線を戻すと、男性は頭をガシガシと掻きながら一度閉じた目をゆっくりと開き肩を落とした。さっきまで怖い印象を持っていたが、急に頼りなさげな印象に変わった男性を見て、名無しは思わず自分から声をかけていた。


「大丈夫ですか?」
「いやぁー、それが全然でさ。今すぐにでも助けてもらいたいんだよね」
「私でよければお手伝いします。何をすればいいですか?」
「ここでは言えないからとりあえずちょっとあっち行こっか」
「はい、わかりました」


すごく困ったような表情で話されたため、すっかり男性の話を信じきってしまった名無しはベンチから立ち上がり、男性もどさくさに紛れて名無しの腕を掴もうとした。しかし、その瞬間・・・・・


「おい、コイツをどこに連れてく気だ」


パンっ!と軽い音を立てながら男性の手が宙に振り払われる様子を見て名無しは目を見開いた。


「ふ、伏黒さん!?」
「は?なんだガキ。すっこんでろよ。俺は今からこの子とイイことすんだよ。邪魔すんな」
「あ゛?」
「いっ!」


伏黒は男性の腕をギリギリと音が鳴る程の力で掴み睨みつけた。すぐに力の差を感じた男性は「ひぃ!」と声をあげてガクガクと体を震わせ始めた。


「あ、あの、伏黒さん!この方すごく困ってて助けて欲しいみたいです」
「えっ!?」
「へぇ・・・・。じゃあ、俺が助けてやろうか?」
「ひぃ!だ、大丈夫です!何も困ってないです!すみませんでしたぁ!」


逃げるようにすごい勢いで公園から去っていく男性を名無しは呆然とした表情で見ていると、伏黒は少し怒った顔を名無しに向けた。


「おい、伊地知さんに知らない人についていくなって言われただろうが」
「はい。でも、困ってるようだったのでつい・・・・」
「あのまま連れてかれてたらどうすんだよ。ったく、はぁ・・・・」


このお人よしは・・・・。と、伏黒は小さくため息をついた。ドラッグストアで必要なものを買って公園に向かって歩いていると、ベンチに座っている名無しの前に怪しげな男が立っているのが見え、すぐに走って名無しの元へ向かおうとしたが、ちょうど信号が赤になってしまい伏黒は足止めされてしまった。公園からの距離が近いこともあり、嫌がっている名無しに対して男が一方的に話しかけている様子も見えていたし、名無しの声は聞えなかったが、テンションが上がってるのか声量がバカになっている男の声はずっと伏黒の耳に届いていた。沸々と湧き上がる苛立ちと不快感を伏黒が抱えたままやっと信号が青に変わった瞬間、何故か、ずっと警戒心を持って対応していた名無しが男について行こうとしているのが見え、伏黒は慌てて走って駆けつけたのだ。男の声はずっと伏黒の耳に届いていたため、名無しが「困っている」というワードに反応して警戒心を解いたのは伏黒もわかっていた。見た目からして完全に怪しい人間だとわかるのになんでこうも簡単に信用してしまうのか・・・と、頭を抱えたかったが、どんな人間でも困っていると聞けば助けたい。と思ってしまうのがコイツなのだろう。と思い、先程まで沸々と沸き上がっていた怒りが、ため息と共に一気にすーっと冷めていった。


「買い物、すみませんでした。おいくらでしたか?」
「別に大した金額じゃねぇからいい」
「そういうわけには・・・・」
「いいからさっさと座れ」
「は、はい」
「腕から手当てするからこっちに向けろ」
「あの、手当ては自分でやるので」
「早くしろ」
「はいっ」


伏黒は慣れた手つきで腕と手の甲の手当てをし、最後に膝の手当てをしよう。と、ベンチから降りて名無しの前にしゃがんだ。膝がワンピースの裾で隠れているのを見て、さすがに自分がそれを捲くるのは・・・・と思い名無しに少し膝からずらしてもらうように声をかけた。


「名無し。悪いが少し裾上げてもらっていいか?」
「は、はい!」
「・・・・っ!?」


てっきり太ももの方に少し裾をずり上げてくれるのかと思いきや、裾の布を指で掴んだ名無しがその手をすっと上に軽く持ち上げたため、その奥に隠れていた白い布が目に映った伏黒は慌てたように名無しの両手を掴んで下に下ろした。名無しが首を傾げながらそんな伏黒を見つめる中、伏黒は軽く咳払いをして自分の中でざわついた気持ちを落ち着かせた。
午前中に何度も『不幸』に巻き込まれ、所謂ラッキースケベもたくさんくらっていた伏黒は、また見てしまった白い布に対して、なんで履き忘れてんだよ・・・・と思い再度頭を抱えた。


「お前、なんでよく怪我するのにいつも白い服着てるんだよ」


伏黒は名無しの膝の手当てをしながら、裾が血で赤く染まっているワンピースを見て疑問を口にした。ほぼ毎日のように転んで怪我をしているのだから、汚れたり、血が付いても目立たないような色の服を着ればいいのに。と、単純に疑問に思ったのだ。


「村にいた時は学校以外で村から出ることがなかったので、おでかけする時に着ていく服が必要になることがなくて、一着も持っていなかったんです。そのことを知った悟さんがこれからは必要になるから。と、たくさん服をプレゼントしてくださったのですが、それが全部白色のワンピースで・・・・」


少しだけ困ったように笑う名無しの顔を見て、伏黒は心の中で、なんで全部白いワンピースなんだよ。他の色の服でも、ワンピースじゃなくてもいいだろ。趣味か?自分が着て欲しい服を着させてるだけか?と、五条に対して文句を心の中でつぶやいた。


「悟さんは白いワンピースが好きなんですかね」
「知るかよ」


何を考えているかわからない五条のことなど自分にわかるはずもない。と伏黒は名無しの言葉を一蹴した。


「でも夢みたいです。村にいた時はこんな煌びやかな街を歩ける日が来るだなんて思っていなかったので」
「別にそんな大したことじゃねぇだろ」


膝の手当てが終わり伏黒が立ち上がろうとしたタイミングで、ふっと空を見上げた名無しがぼそっと言葉をつぶやいた。人が好きではない伏黒にとっては人ごみだらけの都会はただの煩わしいだけ場所なため、名無しの気持ちが全く理解できず嫌そうな表情を浮かべた。


「大したことですよ。少なくとも私にとっては・・・・」


そう言って少しだけ困ったように笑う名無しの顔を見て、伏黒は、ずっと外の世界を知らず閉鎖的な村で育ってきた名無しの生い立ちを思い出し口を閉じた。方向音痴だし地図も読めないくせに、なんで店の前まで送ると言った伊地知の言葉を断ってまで名無しが街中を歩きたがっていたのかがようやくわかった。


「今日は色んなお店をたくさん見ることができて楽しかったです。お付き合いしてくださった伏黒さんにはたくさんご迷惑をおかけしちゃってますが・・・・」


申し訳なさそうななんとも言えない表情を浮かべる名無しを見て伏黒は立ち上がってベンチに座る名無しの顔をじっと見つめた。そして・・・・


「別にいい」
「えっ?」
「俺になら迷惑かけてもいいって言ってんだ」
「・・・・嫌じゃないんですか?」
「めんどくせぇ。と思うことはあっても嫌だとは思ってねぇよ」
「それって同じじゃないんですか?」
「全然違うだろ。とにかく、お前が何を気にしてるのか知らねぇけど、俺はお前の教育係なんだから、俺にはそんなこと気にしなくていい」


そう言って、伏黒は泣きそう表情を浮かべる名無しの頭にそっと手を乗せた。


「たまにならこうやって外に出るのも付き合ってやるから」
「本当ですか?」
「あぁ」
「では・・・・。気になっている和菓子屋さんが10店あって、後、ケーキ屋さんと、ワッフル屋さんと、タピオカ屋さんにも行ってみたいです!」
「・・・・今度な」


急にキラキラとした目で指折り行きたい店を数え始めた名無しに伏黒は一瞬驚いて固まったが、付き合ってやる。と言った手前、ダメだ。とも、行かない。とも言えず、あまりにも名無しが嬉しそうに笑うものだから、仕方なく首を縦に振った。





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