だいすき。
ある日の夜。わたしはひとりでいるのが怖くなって、暗い廊下を辿り彼の元へと急いだ。
「――…龍馬さん、」
まだ灯りの点いている部屋の前で呼び掛ける。
「……………」
返事が無かった。
障子には何か書き物をしているような彼の影が映っている。……確かにそこには居るのだ。
「龍馬さん…」
もう一度。
「……………」
……やはり無反応だ。
わたしは堪らなく寂しくなって涙を滲ませる。
戸を開けようと手を掛けたけれど。
もしかしたらわたしの声なんか聞こえない位仕事が忙しいのかもしれない。わたしなんかが邪魔しちゃいけない。
彼への遠慮がわたしの行動を制した。
「………………寂しいよ…」
果たして聞こえるのかわからないほど、小さく呟いた。
掛けた手を下ろし、自室に続く廊下を引き返そうと背を向けた時だった。
「――…小娘!」
突然に戸が開き、驚いた様子の彼が背後に居た。振り向き見ると、少し充血した目が忽ち丸くなる。
「どうしたがじゃ……」
伸ばされた両手に包まれた頬。そこには涙が流れていて、彼の指がそれを拭ってくれた。
その手が温かくて、つい甘えたくなってしまうけれど。
「…ごめんなさい、龍馬さん忙しいのに」
「あ…すまんの、夢中で作業しちょってからに…。もしや大分待たせとったんかの」
「いえ。…あの、邪魔してごめんなさいっ」
これ以上、大きな志を抱く彼の邪魔をしたくなかった。
一礼し、立ち去ろうとする。
「…小娘」
「!」
腕を掴み引き寄せられ、その胸に飛び込むようなかたちになり、思わず手で押して放れようとした。それでも彼の力に制されて、更に抱き締めるようにそこへ押し付けられた。
「!…りょ、」
「何故泣いちょるおまんが謝るんじゃ…」
「……………」
慈しむように髪を撫でるこの人の甘い声に押し黙る。耳に当たった所から彼の鼓動が聞こえた。
「……あ、」
そのまま部屋の中に引かれる。
彼が戸を静かに閉めて、わたしを抱き締めたまま畳に座らせた。
…あぁ、どうしよう。こちらの心音が聞こえてしまったら。
あまりの距離の近さに目眩を起こしそうだった。と同時に、その温かさに安堵もした。
「…すまんかった、寂しい思いをさせた」
「………そんな、わたし」
わたしが勝手に押し掛けて、頼ろうとしてしまったから。…だから。
「ごめんなさい…」
「………………」
急に無言になった。
ここへ来た理由に、何か引っ掛かる事があったのだろうか。
不安になって顔を見上げた。
「……龍馬さん?」
「…………おまん、ワシを頼ってくれちゅうがか。…ニシシっ」
「………えっ?………きゃっ」
目が合った瞬間嬉しそうに歯を見せて笑う彼に拍子抜けて、思わず気が緩んでしまう。その隙を衝いてか、唐突に抱き上げられた。そうして膝に乗せられたわたしはまるで子供扱いだ。
「りょ、龍馬さん…っ」
「いやぁたまるか、たまるか!」
「…!」
力強い腕に包まれて、苦しいくらいにきつくきつく抱き締められる。だけど、これ以上ないほど幸せで温かな抱擁だった。
「………ふふ、」
わたしの寂しさなんか何処へ飛んでいったのやら。上気した彼の笑顔を見ていると、こちらまで綻んでしまう。
そんなわたしを見て、彼がまた頭を撫でてくれた。
「なぁ、小娘。これからは遠慮せんと、気兼ねなく声をかけてくれんか」
「……でも、」
「『でも』は無しっ!」
「!」
言いかけた唇に指を当てられる。そうしてなぞり、妙に色っぽい視線を投げながら囁いた。
次に言ったら、今度は接吻をいただく。
…例え冗談だとしても、その囁きは反則。彼の顔を直視出来なくなったわたしは、その胸に隠れるように頭を埋めた。
「あぁ、良い気分じゃ!」
「もう、龍馬さんってば…――」
おまんの小さな声ほど、ワシの耳に、胸に大きく響くがよ。
その言葉にどきりと心臓が跳ねた。
わたしには、本音を孕んだ言葉に限って声が小さくなる癖がある。
彼はそれを見破ったというか、聞き破ってしまったのだ。
「…龍馬さん」
耳に唇を寄せて、小さな小さな声で伝える。
貴方の笑顔、優しさ、温もりはこの国の皆に向けられたものなのかもしれない。だけど今だけはどうか、わたしだけのものであって欲しい。
『だいすき。』
(最愛を表現するには短過ぎる言葉だけど、)
終
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