誰より速かった。

どんな時も駆け出す自分に追い付ける、まして追い越せる子はクラスにも学年にもいなくて、
遊戯でも競技でもこの足は誰よりも速く強かった。


重さに任せて頭を右に傾け、ガラス窓にがつんと当てる。バスの振動はその衝突をものともしない。歯と耳に響いたにぶい震えが消えてから、目を上げた。

秋口だったが日はまだ長い。風丸は校門の前から町の外れに向かうバスに乗った。部活に出るような気分ではないと思いついたら本当に、まるで気が反れてしまって、思いもよらず欠部。自分の意外なこころに鉢合わせたような、突きつけられたような、不思議な衝撃を今さら静かに思っていた。

バスには乗客の賑かなざわめきやエンジンの音、アナウンス、外から入る子供の笑い声なんかが立ち込めていて、よく届く日差しとお湯の中のような温度が心地いい。
それが彼の耳や神経をゆるゆると包み、守っていた。

誰も何も気にならなかった。
ゆっくり赤みを増す日光と薄い膜のような月を眺めていると安らぎ、落ち着く。

今頃汗を流し、部活動に励んでいるであろう仲間や
学校のこと、家のこと

どんなにぼんやりと月を見ようが川を見ようが、
そういった自分を取り巻く今をまるきり考えないということは、自分には非常に高度なことに思える。
頭がいつも忙しないのは余裕が無いようで格好がつかない。
しかし性分だった。

また、考えるという行為自体をどちらかといえば好いていた。



今日、どうしたんだろう。

なにがあってこんな、意味のないことをして、
大事なはずの部活に出ない家に帰りもしない

それなのにこうしなければいけないかのように
なんの抵抗もなくている。

でも、理由までは考えなかった。



ありていに言えば今はどうでもいい

それきりの気持ちしか無かった。


窓に押し付けたままのひたいに髪が食い込んで少し汗ばんでいた。
走行音に眠くなる。終点まで行くつもりだった。


町の中心を突っ切る川が少し細くなり、橋の位置が低くなる。
結局終点のひとつ前で降車すると、ためらいなく川沿いを歩き出す。随分低く、赤くなった日の光が目を射した。
バスの乗客は彼で最後。
乗り込んだ客もいない。
それでも終点に向かって走って行く。


景色を見ながら歩きたい。反面思い切り走りたい。

虫が切な気に鳴いているのを聞いていると、無性に季節が口惜しい。
暑く不快だが夏が好きだった。

足を踏み出す度に背中の鞄が弾んで体を打つ。
ゆっくりゆっくり歩いていって
ススキの原で飛んでいる蜻蛉を眺めたり
いっそ攻撃的な川の反射を見ながら進んだ。
バスに無駄賃
時間も無駄だし、
得るものも何もない。

今来た道をぷらぷら戻る。無駄足無駄金……ふふ…
思いながらつい笑う。
気分なら良かった。
自然と顔が緩む。


そうして所在無いようにぶらから歩いて、
馴染みの橋のたもとまで来ると、
急に、
弾む鞄の重みに突き飛ばされるように走り出した。


意味など、無かった。


衝動的な行動というのは
いつも意外で突発的なもの。
今日は思えば朝から妙に浮き足立つような不思議な解放感があった。

部活に出なかった
用のないバスに乗った
用のないバス停に降りて
理由なく走り出す

意味など無い。

唐突にそれが答えだと
浮かんで消えた
今はどうでもいい


校門から校庭へ、鞄は芝に放って駆けた。
止まらずにトラックに走り入り、
誰もいないグラウンドを追われるように足を馳せる。

およそスポーツのための走りでは無い。



トラックでは


俺は何も考えず、
本当に何も考えずに
何も見ずにただただ居れる。

それを長らく忘れていた。

不便だ。
自分がひどく複雑で、面倒な人間に思えたけれど取るに足らない今はそんなこと。



誰より速かった。

駆け出す自分に誰も追い付けない。
この足は誰よりも速く強かった。


走り抜いた先はいつでも1人。
この感覚は共有できる物ではきっとない。
それでもその孤独は誇りだと強く思う。


何度目かのコーナーで、
講堂のある棟と校舎の間からすっかり赤い夕日が鋭く射し込んだ。

風丸は息を飲むように、
驚愕に身をすくませるように足を止めた。


上体を折り、膝に手を着くと空気の漏れるような呼吸を繰り返す。
気管の乾きと息苦しさが、今は至極爽快であった。






この年度のはじめまで陸上部に所属していたが、
親友の窮地と
興味など無かったはずのスポーツで覚えた興奮、感動、…

フィールドとトラックでは
五感が別物になるように思える。
どちらに立つ自分も好きだ。

快感と絶望がつきまとう、
誰よりも速いはずの足にけちがついたような苦汁をなめて、
焦り苛立ち、
悩み落ち込み、
叩き潰されたような気分は最悪なのに、

それなのに意地が奮起と努力を強いるのだ。

自分を弱くも脆くも、強くも思う。





起き上がって背筋を伸ばすと頭の上から水をかけられたように汗が滴る。
まとわりつく前髪を両手でかきあげるとすっと皮膚が冷えて気持ちがよかった。

全く意識しなかった土を蹴る音が
ばくんばくんと打つ脈と共にじわじわと聞こえてくる気がする。
今初めて聴覚を得たかのような新鮮さに清々する。


呆然と前を向いていた顔を、うつむくようにトラックに向けた。



未練があるのだと思った。


溢れるような衝動にかられて走り出した自分はまるで、過去や未来の他人のように思える自分、
もしくは内々にあるのに理解できずにいる自分。
そんな気がした。

走りたくて走りたくて、
きっとここに戻りたいんじゃないか

取り合い、奪い、ぶつかり、走る
フィールドでの自分は最早それに満足したのではないか。
のめりこむようにとりつかれ、熱中したあの世界では
走ることは戦う手段のひとつに過ぎない。


ただ、走りたいんじゃないのか。



競技における疾走を、
どこか芸術ととらえている。
だがそうはいかない世界に属して、
俺は…









…それでも、あそこが好きなんだ。

歯を剥き出してみっともなく奪い合う
骨がぶつかり、肉にのめり、爪が皮膚を摩る。痛くない試合なんてない。


でも、

走って走って肺が溶けそうでも、
止まらなくていい。

トラックを走る時
嫌いなのは終わりを突きつけるテープを切るあの瞬間だ。


洗練された走りを求められる陸上に比べ、
鬼気の気迫で走り合う。
足を蹴っただのわざとやっただのと罵ることもざらにある。

少し前大きな挫折を味わった。それから持ち直すまでの過程で自分を少し知った気がする。
このトラックで決められた分を走っていただけでは、決して出会わなかった壁だった。

それでもこうして続けてきて、そこにこの暴走がやってきた。

戻りたいか。
そうじゃない。


ここは俺の自信。
あの一番速いという孤独。

大丈夫。まだ走れる。





緩勾配の芝を踏むと、
急に、部活をサボった罪悪感がやってくる。

なんだかのんきな自分がおかしくてふと笑う。
重く、芝だらけ鞄を背負う。


振り返ると神聖な楕円が、
淋しそうに砂を乱していた。



また来るよ、


吐息のように呟くと、

彼は晴れ晴れと顔を上げ、
颯爽と去っていった。





大丈夫。まだ走れる。



無様に転んで土を舐めるような
あの世界に俺は

きっと心底惚れている。





2011.02.19.




***



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -